君という夢を描いて The after story―Embrace it all―

 そして、翌週。
 梨歩は亞紗斗と病院へ向かった。

「ああ、緊張する」
 妊娠反応が見られてからは、院内の景色が違って見えた。

 待合で何人かの妊婦を見るたびに、いたたまれない気持ちになっていた頃もあった。

 人気の産院ということもあり、待合はかなり混雑している。
「亞紗斗さん、座らなくて大丈夫?」
「いや、俺はいい」
「あの人は座っているけど」
「混雑した産院の待合で、男が堂々と座るのは気が引ける」
「それもそうか」
 亞紗斗は待合のソファーの横にかがみ、時折立ち上がりながらやり過ごす。
「ねえ、足しんどくない?」
「俺のことはいい」
「亞紗斗さん、背高いから……それに、さっきから異様な視線を感じる」
「何のだ」
「さっき、隣にいた人。亞紗斗さんのことガン見してた」
「気のせいだ」
「そんなわけないじゃん」
「だとしたら、物珍しさだろう」

 念のため、と亞紗斗は普段と違う出で立ちで外出していた。亞紗斗も梨歩も、世間に顔を知られている。
 亞紗斗は前髪を下ろし、色つきの眼鏡にマスク姿。
 梨歩は髪を後ろで一つにまとめ、黒縁のだて眼鏡にマスク姿。

 それでも、亞紗斗は目立つ。
「声かけられないだけ、まだマシか」
「おい、あんまり会話してると気づかれる」
「ああ、ごめんごめん」
「声がデカい」

 そして、順番が来た。
 梨歩と亞紗斗は診察室前の椅子まで移動する。
「二時間近く待ったね」
「ああ」
「終わったら昼ご飯食べに行きたいな」
「終わったらな」
「あ」
「何だ」
「やばい、緊張してきた」
「さっきまで飯のことしか頭になかっただろ」
「だって、お腹空いたんだもん」
「本来の目的を忘れるな」
「うう」

 診察室のドアが開いた。
「次の方、どうぞ」

 診察室に入る。
「体調はどう?」
「あ、全然何ともないです」
「気持ち悪いとか、出血はないですか?」
「はい。今のところは」
「では、今から内診しますね。奥様はこちらでお着替えを」
「はい」
「ご主人は少しこちらでお待ちください」
「はい」

 梨歩は内診台に座る。
「はい、椅子倒れます」
「うわあっ」
「足も開きますよ。力抜いて」
「ああ、まだこの椅子……慣れないな」
「機械入ります」
「い、痛い……」
「深呼吸しましょう。力はいっていると余計痛いからね」
「はい……」
「ご主人、こちらへ。奥様の肩のあたりでモニター見ててくださいね」
「はい」

 白黒の映像が画面に表示された。
「この黒い丸が胎嚢で、中にある白のリング状のものが卵黄嚢です。赤ちゃんは、ここから栄養をもらって大きくなります。心拍は……」

 モニターに映る小さな小さな点。
「点滅しているの、わかります?」
「はい。チカチカしてる」
「元気に動いてますね、赤ちゃんの心拍。確認できましたよ。おめでとうございます」

 モニター越しに、何度もチカチカと点滅する――小さな光。

 溢れ出す涙。

「ありがとうございます」
「よかった……ちゃんと、元気に動いてて……」 

 内診を終え、梨歩は診察室へ戻る。

「今日無事に心拍が確認できたので、次からは妊婦健診が始まります。それまでに、母子手帳を用意して、健診の時には必ず持ってきてください。母子手帳の受け取り方法ですが、このあと書いていただく妊娠届を持って管轄地域の窓口へ提出すればもらえます」
「はい」

 梨歩と亞紗斗は、その足で管轄の窓口へ向かった。

 *

 移動中の車の中。

「はああ、緊張したあ」
 梨歩は助手席で大きくのびをする。
「とりあえず、第一関門クリアだな」
「うん」
 手に持った妊娠届を眺める梨歩。
「ねえ、出産予定日だけどさ」
「ああ」
「このままの計算だと、四月二十一日だって」
「そうだな」
「亞紗斗さんの誕生日と一緒」
「あくまで予定日だろう。しかも、まだ確定じゃない。ずれる可能性もあると言われただろう」
「嬉しいくせに」
「……否定はしない」

 *

 「あの、母子手帳の交付をお願いします」
 梨歩は窓口にいる女性に、妊娠届を提出した。

「おめでとうございます。お二人にとっては、初めてのお子様ですね」
「はい」
「では、こちらが母子手帳になります。妊婦健診の際は、必ずお持ちください。受診券もセットでついています。妊婦健診は保険適用外なのですが、この受診券があれば、上限はありますが公費負担で受けることができます。検査内容によっては、支払いがない場合もあります。母子の健康のためにも大切な検査になるので、必ず受診してください」
 保健師からの説明を受け、市町村の行政サービスや、両親学級、各施設や相談窓口の一覧など、冊子やパンフレットをいくつかもらう。
そして。

 マタニティマーク。

「妊娠初期はまだお腹に赤ちゃんがいることに気づかれにくいです。これからつわり症状も出てくると思うので、是非ご活用ください」

「つわり……」

 そういえば、まだない。

「あの、つわりって……全くない人もいるんですか?」

「はい、もちろんいます。つわりがないからといって、赤ちゃんが心配になる人もいますが。基本は普段通りの生活で大丈夫です。もし、気になる症状があれば医療機関にご相談されるといいですね。ただ、お酒やたばこは控えるようにしてください。今の時期は、赤ちゃんの器官形成の大切な時期です。それを阻害する要因は、極力避けてください」
「妊娠中は色々制限があるって聞いたことあるけど、本当に気を付けることがいっぱいあるんですね」
「全部を神経質に避ける必要はありません。ただ、飲酒や喫煙のように、はっきり避けたほうがいいものはあります。わからないことがあれば、一人で判断せず相談してくださいね」
「つまり、避けられるリスクは避けろということだな」
「さすがご主人。頼もしいですね」
「亞紗斗さん……」
「俺たちの子だ。生まれてくるまでは、梨歩にしかその子は守れない。だが、それ以外のことはなるべく俺がやる」
「うん、ありがとう」

 *

 母子手帳を手にした梨歩。
「父、母……か」

「何だ」

「親になるんだなって思って」

 先程、保護者の欄に記名を済ませた。

「出産予定日、か」

「次の次までには決まると言われたな」

 現在、妊娠七週。もうすぐ三ヶ月目に入る。

「まだこんなに小さいんだね。数ミリなんて」

「ああ」

「あと数ヶ月でこんなに大きくなるんだ」

「そうだな」

「ねえ、そういえばさ」

「何だ」

「妊娠がわかる前に若葉の家に行った時なんだけど。瑠花ちゃんに不思議なこと言われたの」

「瑠花、喋るのか?」

「若葉もびっくりしてた。こんなにはっきり喋ったの、初めてだって」

「瑠花は、何て言ったんだ」

「それがね……『おばちゃんの赤ちゃん、男の子。おじちゃんそっくり』って」

「……!」

「その時、あたしまだ自分が妊娠してると思ってなくてさ。おばちゃんに赤ちゃんいないよって言ったの。そしたら『いるの! ママが先。おばちゃんは少し後。どっちもパパに似た男の子って』。そのあと若葉に勧められて検査薬試したら、ビンゴだった……」

「末恐ろしい子どもだな」

「子どもって、そういうのわかるのかな」

「かもな」

 思わぬ形で発覚した妊娠。

 この十数年後。

 この子の存在を誰よりも早く言い当てた瑠花が、今、お腹の中にいる小さな命にとって、かけがえのない人になる。

 そして、やがて――。

 そんな未来が待っていることを、この時はまだ、誰も知らなかった。