安楽―死―ステム


 「こちらに署名をお願いします」

選択式安楽死システム管理所長、枢木(くるるぎ)渉(わたる)は僅かに躊躇いながら、目の前の少女に紙とペンを差し出した。
 この少女は生きることに執着がない。所長としての勘なのか、冷凍睡眠(コールドスリープ)になることなく安楽死が実行されることを悟っていた。
 
「佐伯(さえき)由紀(ゆき)様ですね。ご家族に安楽死選択の事前連絡はなされていますか?」
「連絡はしていません。でも、遺書は書いてきました」
「かしこまりました。保護者の同意無しとのことですので、今一度、選択式安楽死制度についてご本人様へご説明をさせて頂きます」

 少女、佐伯(さえき)由紀(ゆき)はどこか浮世離れした虚ろげな眼差しで、枢木の説明を聞いていた。怯えることもなく、苛立つこともなく、落ち着いた様子で柔らかな笑みを浮かべていた。

「選択式安楽死制度についての説明は以上となりますが、ご質問等はありますか?」
「いえ、大丈夫です。宜しくお願いします」

 佐伯(さえき)由紀(ゆき)は椅子から立ち上がると、これから死ぬとは思えない立ち振る舞いで、深々とお辞儀をしてみせた。

「承りました。それでは、こちらの装置にお入りください」
「枢木さん、ありがとうございます。私を解放してくれて」

 佐伯(さえき)由紀(ゆき)がにっこりと微笑むと、枢木は初めてその顔を歪める。
 しかし、それを悟られることがないように、少しでも安心して貰えるように口元に笑みを浮かべると、お決まりの別れの挨拶を告げた。
 
「…………逝ってらっしゃいませ。それでは、良い安楽死を」

 見猿聞か猿言わ猿。
 佐伯(さえき)由紀(ゆき)の人生はその程度のものだった。
 臭いものには蓋をして見ないふりをする。人の言葉は嘘だらけ。耳を塞ぎたくても不快な声ほどよく通る。もう何も考えられなくなって、思考を停止して、今にも溢れ出しそうな腐敗臭を飲み込んで口をつぐんだ。

 ——私は、有限の生を消費している。

 死ぬ勇気もなく、生きる勇気もなく。一ミリ、たった一ミリの寿命が縮むのをぼんやりと眺めている日々。

(良かった。やっと、これで解放される——)

◇ ◇ ◇

「佐伯由紀様のご家族様でしょうか。私、先程お電話させて頂きました選択式安楽死システム管理所長の枢木(くるるぎ)渉(わたる)と申します。この度はお悔やみ申し上げます」

 何の滞りもなく、佐伯由紀の安楽死が実行された。
 遺体の引渡しの為、枢木は部下を連れることなく、一人で佐伯由紀の自宅を訪ねていた。
 目の前には呆然と立ちすくむ父親と、手近にあった物を掴んで今にも投げようとしている母親の姿があった。

「……っ、何がお悔やみよ! この、人殺し……っ! 由紀を、由紀を返して……っ!」

 母親が投げつけた鍵置きが枢木の頬をかすめていく。鈍い金属音が響き、枢木が頬に手を伸ばすと赤黒い血液が指を汚した。
 甘んじて受け入れる枢木に、握りしめた拳を振り下ろそうとする母親を父親が止めた。
 
「……っ、やめなさい」
「離して……っ! なんでそんなに……っ、あはっ、そう。貴方は平気でしょうね……。私にも由紀にも向き合わないで、他所に逃げた貴方なんかに私の気持ちは分からないわ……っ!」
「………………」
「……由紀を、返して……。私には、由紀しかいないのよ……っ」

 両手で顔を覆い、弱々しく膝から崩れ落ちる母親の姿に、枢木は静かに一礼すると淡々とした態度で事務的に告げる。
 
「佐伯由紀様のご遺体はどちらのお部屋にお運びすればよろしいでしょうか」
「…………由紀の部屋。二階の奥に運んでください」

 答えられるような状態ではない母親のかわりに父親が答える。枢木は事務的な手続きを父親と交わすと、部下に指示を出して遺体を運び込んだ。

「それでは、我々はこれで失礼いたします」

 バタン。
 と、閉じられた扉の向こうでどのような悲劇が繰り広げられているのか。
 枢木達職員には、知る由もない。

 ◇ ◇ ◇

「お疲れ様です、枢木所長。……傷、大丈夫ですか?」

 さっきまではなかった枢木の頬の傷を見て、部下が心苦しそうに尋ねた。

「これくらい、大したことはありませんよ。我々がやっていることは遺族からしてみれば、ただの人殺しですからね」
「……そんなの、国の制度なんだから仕方ないじゃないですか。安楽死を選択したのは本人なんですから、恨まれても困ります……」
「そうですね。現に、佐伯様ご本人からは感謝の言葉を頂きました。面と向かってあのように言われたのは初めてで、私も困惑しましたが」
「……死ぬ間際に、自分を殺す相手に感謝するって……、どんな気持ちなんでしょうね」
 
 部下の言葉に、枢木は少しだけ考える素振りを見せると、穏やかな口調で言い放った。

「……案外、本当に感謝の気持ちしか湧かないのかもしれませんよ。死が救いであると心の底から信じている方だけが、安楽死するのですから」
 
◇ ◇ ◇

 枢木は仕事を終えた足のまま、病院の一室を訪れた。
 最奥の一人部屋のネームプレートには『枢木(くるるぎ)美帆(みほ)』と書かれている。

「ただいま。今日も仕事を終えてきたよ」

 枢木が声をかけても返事はない。
 眠るようにベットに横たわっている少女、枢木(くるるぎ)美帆(みほ)はいわゆる植物状態というやつだ。

「今日は驚いたことがあったんだ。美帆と同じ年齢の子にね、お礼を言われたんだ。解放してくれてありがとうって」

 返事のないこの会話も、かれこれ十年はとうに越えている。それでも、枢木の瞳には哀愁が滲んでいる。

「俺は残された方の気持ちもわかるからさ。選択式安楽死なんて制度、たまったもんじゃないってことは理解してるんだ。だけど、それでも……、彼女(佐伯由紀)のような人を看取る時、俺の仕事は間違っていないんだと胸を張れるんだ」
 
 枢木の妹である枢木(くるるぎ)美帆(みほ)は、まだ選択式安楽死制度が導入される前に飛び降り自殺を試みた結果、植物状態のまま生かされていた。

 死のうとした妹を、こんな姿になっても生かし続けることしか出来ない自分を責めた。
 せめて、選択式安楽死制度が導入された後であれば、本人の同意があれば、この状態から解放してやれるのに。
 枢木はこれまでの十余年、何度も何度も妹の生命線を握っては離し、握っては離し。これを繰り返していた。

「……なぁ、美帆。お前、どうして死のうと思ったんだ? なぁ、兄ちゃんに教えてくれよ……」

 妹の手を握っても、握り返されることはなく。枢木が手を離せば、呆気なくその手は離れてしまう。それでも、握った手の温かさに、もう一度言葉を交わす日を夢見ずにはいられない。

「高い所苦手だったくせに……、怖かったよな。痛かったよな。お前はもう、生きていたくないんだよな。本当は嫌だけど、それでもいいよ。俺が看取ってやるから、目を覚ましてくれよ……」

 枢木(くるるぎ)美帆(みほ)の枕元には、色褪せた選択式安楽死制度の契約書が彼女の目覚めを待ちわびていた。