濡れたシャツを着替えもせずに部屋へ上がっても、指先の震えはおさまらなかった。
階段の下から母親の声が追いかけてきたが、何と返したのか覚えていない。机の前に座ってスマホを開き、アプリを立ち上げる。拒絶された相手に送るべき関係修復のメッセージ、と打ちこむと、三つの候補はいつもと同じ速さで現れた。
今日は本当にごめん。莉緒の気持ちを、ちゃんと考えられていなかったと思う。
一つ目を読み終えたところで、喉の奥から酸っぱいものがせり上がってきた。二つ目を開いても、三つ目を開いても同じだ。どの文も正しくて、ていねいで、相手を責める言葉をどこにも含んでいない。莉緒が指を折るようにして挙げてみせた特徴を、三つともそっくり備えている。まるで答え合わせをされているようだ。
口を押さえて、俺は画面を伏せた。
息が落ち着いてから、この一週間に莉緒へ送ったメッセージを最初から読み返した。「無理に学校に来なくていい」も「莉緒のペースで大丈夫」も「俺はいつでも味方だよ」も、莉緒の目を通して読むと、見知らぬ誰かの手紙のようによそよそしく並んでいる。差出人のところに俺の名前がついていることだけが、ひどく場違いに見えた。
自分で書くしかない。そう決めてトークの送信欄を開いたのに、最初の一文字で親指が止まる。「ご」と打っては消し、「莉」と打っては消した。何から書けばいいのか、どんな言葉なら莉緒に届くのか、見当もつかない。中学のミーティングで手を挙げたあの日から、俺は自分の言葉を人に向けることを避けてきた。三年近く使わずにいた道具は錆びついて、どこにしまったのかさえ思い出せなくなっている。
どこにも奏太がいない。
莉緒の声が、耳の奥でくり返しよみがえった。
莉緒は、俺の送った文が間違っているとは一言も言わなかった。正しいことを認めたうえで、そこに俺がいないと言ったのだ。思い返してみれば、送ったメッセージのどれにも、俺は自分で一文字も書いていない。選んで、貼りつけて、送信ボタンを押しただけだ。最後に画面を叩く親指の仕事のほかに、俺がしたことは何もない。
莉緒が読んでいたのは、アプリの言葉だった。けれど三時に裏のアカウントへ何かを書きこむとき、莉緒が待っていたのはたぶんアプリの言葉ではない。
零時を過ぎても、眠気はまったくやってこなかった。机の上で、伏せたスマホが今にも光りだしそうに見える。三時になれば、また灰色のアカウントの通知が鳴るかもしれない。鳴ったところで、あんな文をもう一度送ることなどできるはずがない。自分で書こうとしても、さっきと同じように一文字目で指が止まるだけだ。
何も返せないのに通知だけを受け取りつづけるなら、莉緒の部屋を外から盗み見ているのと変わらない。勝手に見つけて、勝手に見張って、それで味方のつもりでいたのだ。
通知を切るのは、灰色のアカウントを見つけてから初めてだ。それが莉緒を一人にすることなのか、ようやく覗くのをやめることなのか、俺にはわからなかった。
俺はアプリを開いて、通知の登録一覧から灰色のアカウントを消す。それから、スマホの電源を切って、机の引き出しの奥に押しこんだ。
翌朝、俺は引き出しを開けずに家を出た。
ズボンのポケットが、やけに軽い。信号待ちのたびに右手がポケットへ伸びて、そのたびに何もないことを思い知らされる。空は朝から重く垂れこめていて、学校に着くころには細かい雨が降りはじめていた。
昼休みになると、斜め前の席の村上が振り返った。
「早瀬、グループの返事ないの珍しくね? スマホ壊れた?」
「家に置いてきた」
「マジか。早瀬が既読つかないと、なんか落ち着かねえわ」
村上は笑って前に向き直り、すぐに隣の席と文化祭の暗幕の話を始めた。大輝とは、今日もまだ一言も話していない。弁当を食べているあいだも、昨日の莉緒の部屋の閉じたカーテンが頭から離れない。
五時間目の授業中、俺はノートの隅に、莉緒に言うべきことを書き出そうとした。けれど、ペン先から出てくるのは「つらい思いをさせてごめん」や「莉緒の気持ちを考えられていなかった」といった、どこかで見たような文ばかりだ。三行書いたところで、俺はそのページを破って丸めた。準備した文を抱えて行けば、また同じことのくり返しになる。
午後になると、雨は本降りに変わった。六時間目の終わりのチャイムが鳴ると同時に、俺は鞄をつかんで教室を飛び出す。昇降口で傘立てに手を伸ばしかけて、自分の傘を昨日莉緒の家に置いてきたことを思い出す。俺はかまわず、雨の中へ走りだした。
歩けば二十分の道を、ほとんど止まらずに走った。シャツはすぐに肌に張りつき、髪から流れこんだ雨が目に染みる。傘を差して歩く下級生たちを追い越すたびに、跳ねた泥水がズボンの裾を汚した。息が切れて脇腹が痛んでも、足をゆるめる気にはなれない。いま止まったら、また何か正しい言葉を探しはじめてしまいそうだった。
インターホンを押すと、ドアを開けたおばさんが目を丸くした。
「ちょっと、奏太くん、びしょ濡れじゃない」
「すみません。莉緒と、話をさせてください」
おばさんは一瞬だけ迷うような顔をしてから、黙って道をあけてくれた。玄関の隅には、俺の傘が昨日と同じ場所に立てかけてあった。俺は靴を脱ぎ捨てて、階段を駆け上がる。
部屋のドアは閉まっていた。ノックをしても、名前を呼んでも、中からは何の返事もない。廊下には雨の音だけが響いていて、俺の足もとには、服から落ちたしずくが冷たい水たまりを広げていく。
ドアの前に立ったまま、俺は口を開いた。
「ごめん、俺、何を言えばいいか全然わからない」
声はかすれて、自分のものではないように聞こえた。ドアの向こうは、しんとしたままだ。
「間違えたくなくて、嫌われたくなくて、アプリが作った文字をそのまま送ってた」
口に出したとたん、それがどれほどみっともないことなのか、自分の耳で聞いてようやくわかった。
「裏アカも、アプリで勝手に見つけた。最低だと思う」
莉緒には見えないのに、首が勝手に下を向く。濡れた前髪の先から、雨が床に垂れた。
「通知が鳴るたびに起きて、アプリの文を貼ってた。自分で書いたことは、一回もない」
ドアの向こうで、何かがかすかに動く音がする。それでも、ドアは開かない。
「四月から、怖くて連絡できなかった」
三月のあの夜、莉緒は「どうしよう」と書いてきた。俺はそれに、課題の合間の片手で「まあ、なんとかなるだろ」と返した。あの一言が莉緒にどう届いたのか、確かめるのが怖くて、俺はそれきり莉緒に何も送れなくなったのだ。
胸が詰まって、言葉がうまくつながらない。ここで止めたら、もう二度と言えなくなる気がした。
「本当は、お前が消えてしまうのが怖くてたまらない」
こんなに大きな声が出るとは思わなかった。階段の下で、おばさんが息をのむ気配がする。
「でも俺だけじゃ足りないから、おばさんにも先生にも、ちゃんと頼ってくれ。一人で決めんな。行くなら、俺も一緒に行く」
言い終えてから、気づいた。信頼できる大人に頼ってほしいという一文を、俺は十日前、アプリの画面から消して送らなかった。その同じ中身を、たったいま自分の声で、俺も一緒に行くという一言まで添えて叫んだのだ。
ドアが開いたのは、雨の音しか聞こえない時間がずいぶん続いたあとだった。
開いたドアの裏で、色の褪せた星が三つ、こちらを見ていた。その奥に、莉緒の顔がある。目のふちが赤く腫れていて、頬には涙の跡が光っている。
「……何それ。すっごく下手くそな励まし方。昨日までの百倍ダサいよ」
莉緒は鼻をすすって、ずぶ濡れの俺を頭からつま先まで眺めた。泣いているのか笑っているのか、どちらともつかない顔だった。
「昨日はあんなこと言ったけどさ。コピペだってわかってても、夜中に『味方だよ』って届くと、ちょっとだけ助かってた」
俺は何も言えずに、莉緒の顔を見つめ返した。あの文を考えたのは、俺ではない。それなのに、眠れない夜の真ん中で、莉緒はあの一行を読んでいた。あの一週間の言葉が全部無駄だったとは、もう言いきれない。
莉緒は俺の横をすり抜けて、階段の上に立った。
「お母さん」
一階から、おばさんが顔をのぞかせる。莉緒は手すりを握りしめて、一度だけ深く息を吸う。
「カウンセラーの人に、会ってみる」
おばさんは口もとに手を当てて、声も出せずにうなずいた。俺は莉緒の横に立って、その一言を聞いていた。
おばさんはその場で学校に電話をかけ、面談は金曜日の放課後、下校の時間が過ぎたころに決まる。
「金曜、俺も行く」
電話を切ったおばさんの前で俺がそう言うと、莉緒は俺の水びたしの袖を見て、呆れたように息をついた。
「門までね。中までついてきたら怒るから」
乾いたタオルと、昨日置き忘れた傘を手渡されて、俺は自分が芯まで冷えきっていることにそこでやっと気づく。
火曜日は、朝のうちに雨が上がった。
授業中、何度か後ろを振り返ろうとして、そのたびにやめた。教室で謝れば、クラスの誰かの耳に入る。それに、どうせなら大輝が一番長くいる場所で、大輝の目を見て言いたかった。
放課後、グラウンドのフェンスの外で、俺は練習が終わるのを待った。水たまりの残る土の上を、サッカー部の連中が声を張り上げながら走っている。大輝は、ゴール裏で一年生たちに混じってボールを集めていた。帰宅部の俺が放課後のグラウンドをこんなに長く眺めるのは、高校に入って初めてだ。メンバーから外れても、大輝は誰より大きく腕を振って走っている。
西の空に残った雲の切れ間から、薄い夕日が差しこんでいる。練習が終わって部員たちが引き上げていくころには、空はすっかり暗くなっていた。最後に出てきた大輝が、フェンスの外の俺に気づいて足を止める。
「……何してんの」
「話がある」
自分の口から出た声が、思っていたより落ち着いていることに驚く。大輝は眉をひそめたが、歩いてきてフェンス越しに俺の前に立った。俺はスマホを持ってこなかった。言うことは、一つだけ決めてある。
「この前の返信、アプリが出した例文をそのまま送ってた。お前が真剣に悩んでたのに、正解っぽい言葉でごまかして、本当にごめん」
頭を下げると、フェンスの網目が額に当たる。大輝はしばらく何も言わなかった。顔を上げると、大輝は口を半開きにして俺を見ている。
「アプリって、何」
「俺が作った。相手が言われたい返事を、勝手に考えてくれるやつ」
「……それ、俺にだけ使ってたわけじゃねえよな」
「クラスのほぼ全員に」
大輝は心底いやそうに顔をしかめる。
「お前マジで最低だな……」
大輝は長いため息をつき、それから口の端をゆがめて苦笑した。
「でも、今の直球のほうが何倍もマシだわ」
中学の帰り道で聞いたのと同じ、乱暴でまっすぐな声だ。
大輝はフェンスにもたれて、暗くなったグラウンドのほうへ目をやった。
「先週の土曜、初戦だったんだよ。俺、スタンドで応援旗振ってた」
「……うん」
「外から見てたって何もわかんねえと思ってたら、逆でさ。上から見てると、どこが空いてるか全部わかんの。中で走ってるときは、一回も見えなかったのに。こっちに出せって、旗振りながらずっと叫んでた。誰にも聞こえてねえけど」
大輝は笑ったが、その声はかすかに震えている。俺は相づちも打てずに、その横顔を見ていた。大輝がこんなふうに自分のことを話すのを聞くのは、いつ以来だろう。外に出たから見えるものがある、という話は、俺自身のこの一週間にも重なって聞こえる。
フェンスの向こうでは、片づけを終えた一年生たちが、はしゃぎながら部室へ駆けていく。
「今度、練習見に行く」
気がつくと、そう口にしていた。大輝は横目で俺をにらんでから、ふっと息を漏らした。
「来るなら最後までいろよ。途中で帰ったら、今度こそ絶交な」
それだけ言うと、大輝はスパイクの袋を肩にかけ直して、部室のほうへ歩いていく。途中で一度だけ振り返り、「明日の昼、こっちで食えよ」と怒鳴る。俺は返事のかわりに、フェンス越しに右手を挙げた。
金曜日、授業が終わると、俺はまっすぐ家に帰った。
鞄を置いて三軒先まで歩くと、ちょうど玄関のドアが開く。おばさんのうしろから出てきた莉緒を見て、俺は思わず足を止める。莉緒は、高校の制服を着ていた。紺のスカートの裾を気にするように指でつまみ、俺と目が合うと、すぐにそっぽを向く。
「……変じゃない?」
「普通」
「普通って何」
莉緒は唇をとがらせたが、その口もとはほんのわずかにゆるんでいた。裏のアカウントで読んだ、制服を出しかけてはしまったという一文が、頭をよぎる。けれど、それは口にしなかった。
学校までの二十分を、三人で歩いた。おばさんは二人の一歩うしろをついてきて、ときどき莉緒の背中に目をやっている。莉緒はほとんど何も喋らず、俺も無理に話しかけなかった。黙って並んで歩くのは、小学生のころの通学路以来だ。
途中で、莉緒が俺のポケットのふくらみに目をとめた。
「あのアプリ、まだ入ってるの」
「今日消す」
「ふうん」
莉緒はそれきり何も訊かずに、前を向いて歩いていく。その横顔が、家を出たときよりいくらか和らいで見えた。
校門の前まで来ると、下校する生徒の姿はもうどこにもなかった。グラウンドのほうから、ボールを蹴る音と部員たちの声だけが、風に乗って届いてくる。あの声のどこかに、大輝も混じっているはずだ。
莉緒はそこで立ち止まった。制服の胸もとを押さえて、一度、二度と息を吐く。門柱に添えた指先が、白くなるほど力んでいた。
「来週も来られるかは、わかんない」
「わかんなくていいだろ」
莉緒は俺の顔を見て、ゆっくりとうなずいた。おばさんに背中を軽く押されて、莉緒は校門をくぐっていく。保健室の隣の相談室へ向かう二人の背中を、俺はその場から見送った。校舎の入り口で、莉緒がこちらを振り返る。俺は軽く顎を上げて、先を促した。約束どおり、ここから先へはついていかない。
帰り道、俺はポケットからスマホを取り出した。
久しぶりにアプリを開いて履歴をたどると、日曜日の夜に出させた三つの候補がそのまま残っている。今日は本当にごめん、で始まる一つ目から三つ目の最後の句点まで、俺はゆっくりと目でなぞった。正しいだけで、誰にも届かなかった三つの文だ。
設定の画面を開いて、読みこませてきた同級生の投稿の記録をすべて消去する。確認の表示に「はい」と答えてから、アプリそのものも削除した。ホーム画面の右下に、白い吹き出しの抜けた穴がぽっかりと空く。半年近く毎日開いてきたものが、二回指を動かしただけで、あっけなく消えた。
それから、莉緒とのトークを開いた。
自分の指で、一文字ずつ打っていく。アプリなら三秒で出てくる長さの文に、十分近くかかった。何度も消しては打ち直し、ようやくできあがった文を、俺は頭から読み返す。
まあ、今日はちゃんと門までいけたんだし、上出来だろ。次は変えりにアイスでも食おうぜ。
帰り、が変えり、になっている。親指が変換の上で止まりかけて、俺はそのまま送信ボタンを押した。
階段の下から母親の声が追いかけてきたが、何と返したのか覚えていない。机の前に座ってスマホを開き、アプリを立ち上げる。拒絶された相手に送るべき関係修復のメッセージ、と打ちこむと、三つの候補はいつもと同じ速さで現れた。
今日は本当にごめん。莉緒の気持ちを、ちゃんと考えられていなかったと思う。
一つ目を読み終えたところで、喉の奥から酸っぱいものがせり上がってきた。二つ目を開いても、三つ目を開いても同じだ。どの文も正しくて、ていねいで、相手を責める言葉をどこにも含んでいない。莉緒が指を折るようにして挙げてみせた特徴を、三つともそっくり備えている。まるで答え合わせをされているようだ。
口を押さえて、俺は画面を伏せた。
息が落ち着いてから、この一週間に莉緒へ送ったメッセージを最初から読み返した。「無理に学校に来なくていい」も「莉緒のペースで大丈夫」も「俺はいつでも味方だよ」も、莉緒の目を通して読むと、見知らぬ誰かの手紙のようによそよそしく並んでいる。差出人のところに俺の名前がついていることだけが、ひどく場違いに見えた。
自分で書くしかない。そう決めてトークの送信欄を開いたのに、最初の一文字で親指が止まる。「ご」と打っては消し、「莉」と打っては消した。何から書けばいいのか、どんな言葉なら莉緒に届くのか、見当もつかない。中学のミーティングで手を挙げたあの日から、俺は自分の言葉を人に向けることを避けてきた。三年近く使わずにいた道具は錆びついて、どこにしまったのかさえ思い出せなくなっている。
どこにも奏太がいない。
莉緒の声が、耳の奥でくり返しよみがえった。
莉緒は、俺の送った文が間違っているとは一言も言わなかった。正しいことを認めたうえで、そこに俺がいないと言ったのだ。思い返してみれば、送ったメッセージのどれにも、俺は自分で一文字も書いていない。選んで、貼りつけて、送信ボタンを押しただけだ。最後に画面を叩く親指の仕事のほかに、俺がしたことは何もない。
莉緒が読んでいたのは、アプリの言葉だった。けれど三時に裏のアカウントへ何かを書きこむとき、莉緒が待っていたのはたぶんアプリの言葉ではない。
零時を過ぎても、眠気はまったくやってこなかった。机の上で、伏せたスマホが今にも光りだしそうに見える。三時になれば、また灰色のアカウントの通知が鳴るかもしれない。鳴ったところで、あんな文をもう一度送ることなどできるはずがない。自分で書こうとしても、さっきと同じように一文字目で指が止まるだけだ。
何も返せないのに通知だけを受け取りつづけるなら、莉緒の部屋を外から盗み見ているのと変わらない。勝手に見つけて、勝手に見張って、それで味方のつもりでいたのだ。
通知を切るのは、灰色のアカウントを見つけてから初めてだ。それが莉緒を一人にすることなのか、ようやく覗くのをやめることなのか、俺にはわからなかった。
俺はアプリを開いて、通知の登録一覧から灰色のアカウントを消す。それから、スマホの電源を切って、机の引き出しの奥に押しこんだ。
翌朝、俺は引き出しを開けずに家を出た。
ズボンのポケットが、やけに軽い。信号待ちのたびに右手がポケットへ伸びて、そのたびに何もないことを思い知らされる。空は朝から重く垂れこめていて、学校に着くころには細かい雨が降りはじめていた。
昼休みになると、斜め前の席の村上が振り返った。
「早瀬、グループの返事ないの珍しくね? スマホ壊れた?」
「家に置いてきた」
「マジか。早瀬が既読つかないと、なんか落ち着かねえわ」
村上は笑って前に向き直り、すぐに隣の席と文化祭の暗幕の話を始めた。大輝とは、今日もまだ一言も話していない。弁当を食べているあいだも、昨日の莉緒の部屋の閉じたカーテンが頭から離れない。
五時間目の授業中、俺はノートの隅に、莉緒に言うべきことを書き出そうとした。けれど、ペン先から出てくるのは「つらい思いをさせてごめん」や「莉緒の気持ちを考えられていなかった」といった、どこかで見たような文ばかりだ。三行書いたところで、俺はそのページを破って丸めた。準備した文を抱えて行けば、また同じことのくり返しになる。
午後になると、雨は本降りに変わった。六時間目の終わりのチャイムが鳴ると同時に、俺は鞄をつかんで教室を飛び出す。昇降口で傘立てに手を伸ばしかけて、自分の傘を昨日莉緒の家に置いてきたことを思い出す。俺はかまわず、雨の中へ走りだした。
歩けば二十分の道を、ほとんど止まらずに走った。シャツはすぐに肌に張りつき、髪から流れこんだ雨が目に染みる。傘を差して歩く下級生たちを追い越すたびに、跳ねた泥水がズボンの裾を汚した。息が切れて脇腹が痛んでも、足をゆるめる気にはなれない。いま止まったら、また何か正しい言葉を探しはじめてしまいそうだった。
インターホンを押すと、ドアを開けたおばさんが目を丸くした。
「ちょっと、奏太くん、びしょ濡れじゃない」
「すみません。莉緒と、話をさせてください」
おばさんは一瞬だけ迷うような顔をしてから、黙って道をあけてくれた。玄関の隅には、俺の傘が昨日と同じ場所に立てかけてあった。俺は靴を脱ぎ捨てて、階段を駆け上がる。
部屋のドアは閉まっていた。ノックをしても、名前を呼んでも、中からは何の返事もない。廊下には雨の音だけが響いていて、俺の足もとには、服から落ちたしずくが冷たい水たまりを広げていく。
ドアの前に立ったまま、俺は口を開いた。
「ごめん、俺、何を言えばいいか全然わからない」
声はかすれて、自分のものではないように聞こえた。ドアの向こうは、しんとしたままだ。
「間違えたくなくて、嫌われたくなくて、アプリが作った文字をそのまま送ってた」
口に出したとたん、それがどれほどみっともないことなのか、自分の耳で聞いてようやくわかった。
「裏アカも、アプリで勝手に見つけた。最低だと思う」
莉緒には見えないのに、首が勝手に下を向く。濡れた前髪の先から、雨が床に垂れた。
「通知が鳴るたびに起きて、アプリの文を貼ってた。自分で書いたことは、一回もない」
ドアの向こうで、何かがかすかに動く音がする。それでも、ドアは開かない。
「四月から、怖くて連絡できなかった」
三月のあの夜、莉緒は「どうしよう」と書いてきた。俺はそれに、課題の合間の片手で「まあ、なんとかなるだろ」と返した。あの一言が莉緒にどう届いたのか、確かめるのが怖くて、俺はそれきり莉緒に何も送れなくなったのだ。
胸が詰まって、言葉がうまくつながらない。ここで止めたら、もう二度と言えなくなる気がした。
「本当は、お前が消えてしまうのが怖くてたまらない」
こんなに大きな声が出るとは思わなかった。階段の下で、おばさんが息をのむ気配がする。
「でも俺だけじゃ足りないから、おばさんにも先生にも、ちゃんと頼ってくれ。一人で決めんな。行くなら、俺も一緒に行く」
言い終えてから、気づいた。信頼できる大人に頼ってほしいという一文を、俺は十日前、アプリの画面から消して送らなかった。その同じ中身を、たったいま自分の声で、俺も一緒に行くという一言まで添えて叫んだのだ。
ドアが開いたのは、雨の音しか聞こえない時間がずいぶん続いたあとだった。
開いたドアの裏で、色の褪せた星が三つ、こちらを見ていた。その奥に、莉緒の顔がある。目のふちが赤く腫れていて、頬には涙の跡が光っている。
「……何それ。すっごく下手くそな励まし方。昨日までの百倍ダサいよ」
莉緒は鼻をすすって、ずぶ濡れの俺を頭からつま先まで眺めた。泣いているのか笑っているのか、どちらともつかない顔だった。
「昨日はあんなこと言ったけどさ。コピペだってわかってても、夜中に『味方だよ』って届くと、ちょっとだけ助かってた」
俺は何も言えずに、莉緒の顔を見つめ返した。あの文を考えたのは、俺ではない。それなのに、眠れない夜の真ん中で、莉緒はあの一行を読んでいた。あの一週間の言葉が全部無駄だったとは、もう言いきれない。
莉緒は俺の横をすり抜けて、階段の上に立った。
「お母さん」
一階から、おばさんが顔をのぞかせる。莉緒は手すりを握りしめて、一度だけ深く息を吸う。
「カウンセラーの人に、会ってみる」
おばさんは口もとに手を当てて、声も出せずにうなずいた。俺は莉緒の横に立って、その一言を聞いていた。
おばさんはその場で学校に電話をかけ、面談は金曜日の放課後、下校の時間が過ぎたころに決まる。
「金曜、俺も行く」
電話を切ったおばさんの前で俺がそう言うと、莉緒は俺の水びたしの袖を見て、呆れたように息をついた。
「門までね。中までついてきたら怒るから」
乾いたタオルと、昨日置き忘れた傘を手渡されて、俺は自分が芯まで冷えきっていることにそこでやっと気づく。
火曜日は、朝のうちに雨が上がった。
授業中、何度か後ろを振り返ろうとして、そのたびにやめた。教室で謝れば、クラスの誰かの耳に入る。それに、どうせなら大輝が一番長くいる場所で、大輝の目を見て言いたかった。
放課後、グラウンドのフェンスの外で、俺は練習が終わるのを待った。水たまりの残る土の上を、サッカー部の連中が声を張り上げながら走っている。大輝は、ゴール裏で一年生たちに混じってボールを集めていた。帰宅部の俺が放課後のグラウンドをこんなに長く眺めるのは、高校に入って初めてだ。メンバーから外れても、大輝は誰より大きく腕を振って走っている。
西の空に残った雲の切れ間から、薄い夕日が差しこんでいる。練習が終わって部員たちが引き上げていくころには、空はすっかり暗くなっていた。最後に出てきた大輝が、フェンスの外の俺に気づいて足を止める。
「……何してんの」
「話がある」
自分の口から出た声が、思っていたより落ち着いていることに驚く。大輝は眉をひそめたが、歩いてきてフェンス越しに俺の前に立った。俺はスマホを持ってこなかった。言うことは、一つだけ決めてある。
「この前の返信、アプリが出した例文をそのまま送ってた。お前が真剣に悩んでたのに、正解っぽい言葉でごまかして、本当にごめん」
頭を下げると、フェンスの網目が額に当たる。大輝はしばらく何も言わなかった。顔を上げると、大輝は口を半開きにして俺を見ている。
「アプリって、何」
「俺が作った。相手が言われたい返事を、勝手に考えてくれるやつ」
「……それ、俺にだけ使ってたわけじゃねえよな」
「クラスのほぼ全員に」
大輝は心底いやそうに顔をしかめる。
「お前マジで最低だな……」
大輝は長いため息をつき、それから口の端をゆがめて苦笑した。
「でも、今の直球のほうが何倍もマシだわ」
中学の帰り道で聞いたのと同じ、乱暴でまっすぐな声だ。
大輝はフェンスにもたれて、暗くなったグラウンドのほうへ目をやった。
「先週の土曜、初戦だったんだよ。俺、スタンドで応援旗振ってた」
「……うん」
「外から見てたって何もわかんねえと思ってたら、逆でさ。上から見てると、どこが空いてるか全部わかんの。中で走ってるときは、一回も見えなかったのに。こっちに出せって、旗振りながらずっと叫んでた。誰にも聞こえてねえけど」
大輝は笑ったが、その声はかすかに震えている。俺は相づちも打てずに、その横顔を見ていた。大輝がこんなふうに自分のことを話すのを聞くのは、いつ以来だろう。外に出たから見えるものがある、という話は、俺自身のこの一週間にも重なって聞こえる。
フェンスの向こうでは、片づけを終えた一年生たちが、はしゃぎながら部室へ駆けていく。
「今度、練習見に行く」
気がつくと、そう口にしていた。大輝は横目で俺をにらんでから、ふっと息を漏らした。
「来るなら最後までいろよ。途中で帰ったら、今度こそ絶交な」
それだけ言うと、大輝はスパイクの袋を肩にかけ直して、部室のほうへ歩いていく。途中で一度だけ振り返り、「明日の昼、こっちで食えよ」と怒鳴る。俺は返事のかわりに、フェンス越しに右手を挙げた。
金曜日、授業が終わると、俺はまっすぐ家に帰った。
鞄を置いて三軒先まで歩くと、ちょうど玄関のドアが開く。おばさんのうしろから出てきた莉緒を見て、俺は思わず足を止める。莉緒は、高校の制服を着ていた。紺のスカートの裾を気にするように指でつまみ、俺と目が合うと、すぐにそっぽを向く。
「……変じゃない?」
「普通」
「普通って何」
莉緒は唇をとがらせたが、その口もとはほんのわずかにゆるんでいた。裏のアカウントで読んだ、制服を出しかけてはしまったという一文が、頭をよぎる。けれど、それは口にしなかった。
学校までの二十分を、三人で歩いた。おばさんは二人の一歩うしろをついてきて、ときどき莉緒の背中に目をやっている。莉緒はほとんど何も喋らず、俺も無理に話しかけなかった。黙って並んで歩くのは、小学生のころの通学路以来だ。
途中で、莉緒が俺のポケットのふくらみに目をとめた。
「あのアプリ、まだ入ってるの」
「今日消す」
「ふうん」
莉緒はそれきり何も訊かずに、前を向いて歩いていく。その横顔が、家を出たときよりいくらか和らいで見えた。
校門の前まで来ると、下校する生徒の姿はもうどこにもなかった。グラウンドのほうから、ボールを蹴る音と部員たちの声だけが、風に乗って届いてくる。あの声のどこかに、大輝も混じっているはずだ。
莉緒はそこで立ち止まった。制服の胸もとを押さえて、一度、二度と息を吐く。門柱に添えた指先が、白くなるほど力んでいた。
「来週も来られるかは、わかんない」
「わかんなくていいだろ」
莉緒は俺の顔を見て、ゆっくりとうなずいた。おばさんに背中を軽く押されて、莉緒は校門をくぐっていく。保健室の隣の相談室へ向かう二人の背中を、俺はその場から見送った。校舎の入り口で、莉緒がこちらを振り返る。俺は軽く顎を上げて、先を促した。約束どおり、ここから先へはついていかない。
帰り道、俺はポケットからスマホを取り出した。
久しぶりにアプリを開いて履歴をたどると、日曜日の夜に出させた三つの候補がそのまま残っている。今日は本当にごめん、で始まる一つ目から三つ目の最後の句点まで、俺はゆっくりと目でなぞった。正しいだけで、誰にも届かなかった三つの文だ。
設定の画面を開いて、読みこませてきた同級生の投稿の記録をすべて消去する。確認の表示に「はい」と答えてから、アプリそのものも削除した。ホーム画面の右下に、白い吹き出しの抜けた穴がぽっかりと空く。半年近く毎日開いてきたものが、二回指を動かしただけで、あっけなく消えた。
それから、莉緒とのトークを開いた。
自分の指で、一文字ずつ打っていく。アプリなら三秒で出てくる長さの文に、十分近くかかった。何度も消しては打ち直し、ようやくできあがった文を、俺は頭から読み返す。
まあ、今日はちゃんと門までいけたんだし、上出来だろ。次は変えりにアイスでも食おうぜ。
帰り、が変えり、になっている。親指が変換の上で止まりかけて、俺はそのまま送信ボタンを押した。



