梅雨入りが発表された月曜日、大輝は朝から口数が少なかった。
夏の大会に出るメンバーが、今日の練習のあとで発表されるのだという。一時間目が始まる前から、大輝は机に頬杖をついたまま、シャープペンシルを指先でくるくると回しつづけていた。回しそこねたペンが床に落ちて、俺の椅子の脚に当たる。
「緊張してんの?」
拾ったペンを渡しながら訊くと、大輝は「別に」と言いかけて、途中で口をつぐんだ。
「……いや、してる。今年外れたら、たぶん来年もないし」
「大輝なら大丈夫だろ」
深く考えもせずに口から出た言葉だった。大輝は「お前はいつもそれな」と鼻で笑い、ペンを受け取って前を向いた。その背中がいつもより硬く見えたのは、たぶん気のせいではない。中学のころから、大輝は誰より早くグラウンドに出て、誰より遅くまでボールを蹴っているやつだった。去年の秋も一年でただ一人ベンチ入りしかけて、最後の一枠で名前を呼ばれなかったと聞いている。
夕方から降りだした雨は、夜になっても弱まらなかった。
夕飯を終えて部屋に戻ると、大輝が投稿していた。練習着のまま撮ったのか、泥のついたスパイクの写真が一枚添えてある。
夏の大会、メンバー外れた。
投稿の下には、サッカー部の連中から「ドンマイ」「まだ選手権がある」という短い返信がいくつもついている。大輝はそのどれにも反応していない。
四年あまりのつきあいだ。ここは自分の言葉で何か書くべきなのだと、頭のどこかではわかっていた。けれど、いざ送信欄を前にすると、何を書いても足りない気がしてくる。下手な励ましは大輝をよけいに傷つけるかもしれないし、軽すぎれば突き放したように読めてしまう。
中学で俺が野口を責めたあと、部の誰もが俺を避けるようになった。そのなかで大輝だけが、帰り道に並んで歩きながら「お前の言ったことは間違ってねえよ。言い方が最悪だっただけで」と言った。慰めにしては乱暴な言い方だったのに、あの一言がなかったら、俺は引退までもたなかったと思う。同じように返せばいいのだとわかっていても、俺にはもう、そんなふうに言葉をぶつける勇気がない。
迷っているうちに、親指は白い吹き出しのアイコンを押していた。
大輝のアカウントを読みこませると、アプリは過去の投稿を一つずつ拾っていく。朝練の空の写真や、居残りでシュートを打ったという報告、「あと一本」という短い言葉が画面を流れた。状況を打ちこみ、励ましと共感の最適解を出すように頼む。三つの候補の中から、俺は一番まとまりのいい文を選んだ。
大輝の努力はみんな見てるよ。悔しいと思うけど、この悔しさは絶対次のステップの糧になる。俺はずっと応援してる。
誰が読んでも、文句のつけようがない文だ。努力を認めて、悔しさに寄り添い、最後に味方であることを伝えている。俺はそれを個別のメッセージで送り、スマホを伏せて机の上の課題に向かった。
返事が来たのは、五分もたたないうちだった。
お前、高校で俺の練習見に来たことないだろ。なんでそんな教科書みたいなこと言えんの? 表面だけ取り繕うなよ。
画面の文字を、俺は三回読み返した。読み返すたびに、窓を打つ雨の音が強くなっていく。
意味がわからなかった。送った文のどこにも、間違ったことは書いていない。努力は本当にみんなが見ているはずだし、悔しさが次の糧になるのも嘘ではない。百点満点の答えを送ったつもりなのに、返ってきたのは零点の通知だ。
大輝の返信をそのままアプリに読みこませると、今度は謝罪の候補が三つ出てきた。「気を悪くさせたならごめん」で始まる文と、「言い方が悪かった」で始まる文と、「大輝の気持ちを考えられていなかった」で始まる文だ。どれも正しくて、どれも送れなかった。ここでまた整った文を送れば、もっと深く怒らせるだけだろう。
結局、俺は既読だけつけて、何も返さなかった。
ベッドに入っても、雨の音が耳について眠れない。俺は明かりを消したまま、大輝の過去の投稿をさかのぼった。夜のグラウンドで撮った照明の写真や、すり切れたスパイクの底の写真が、何十枚も出てくる。アプリに読みこませたときには一瞬で流れていったそれらを、俺は一枚ずつ、初めてちゃんと見た。高校で俺の練習見に来たことないだろ、という一文が、暗い天井に何度も浮かんでは消えた。それが事実であることは、ほかの誰より俺自身がよく知っている。
火曜日から、俺と大輝は教室で目を合わせなくなった。
後ろの席にいるはずの大輝の気配が、やけに遠い。授業中にプリントを後ろへ回すときも、俺は振り返らずに肩ごしに差し出し、大輝も黙ってそれを受け取る。昼休みになると、大輝は弁当を持ってサッカー部の連中がいる窓ぎわへ移り、俺は自分の席で一人で箸を動かした。クラスの誰も、それに気づいた様子はない。気づかれないように振る舞うことだけは、俺も大輝も得意だった。トークの上の俺は、相変わらず聞き上手のいいやつのままだ。大輝とのやりとりは、あの夜の返信で途切れている。謝るべきなのはわかっているのに、何を書いても『教科書みたい』の一言に打ち返される気がして、送信欄を開いては閉じるだけの夜が続いた。
金曜日の夜、俺はいつものように、フォローしている同級生のアカウントをまとめてアプリに読みこませた。
週に一度こうしておけば、誰が最近何に悩んでいるのか、返信を求められる前に知っておける。この春からは、読みこんだアカウントのフォロワーの投稿まで比べるように作り直してあった。同じ人間が別の名前で書いていても、言い回しの癖から見抜けるようにするためだ。
分析が終わると、結果の一番上に見慣れない表示が出ていた。
同一人物の可能性:高
一年のとき同じクラスだった佐々木のフォロワーの中に、灰色のアイコンのアカウントが一つある。名前は意味のないアルファベットの並びで、プロフィールには何も書かれていない。アプリはそのアカウントを、三月で更新が止まった莉緒の表のアカウントと結びつけていた。
見つけたのは偶然だった。けれど、そのアカウントを開いたのは俺の指だ。
莉緒には、疑問の形の文でも「?」を使わずに句点で終える癖がある。表のアカウントの最後の投稿は、三月の「明日の小テスト、範囲どこまでだっけ。」だった。灰色のアカウントにも、同じ書き方の文がいくつも残っている。
制服を出しかけて、またしまった。
みんな同じことしか言わないのは、なんで。
誰の言葉も届かない。
消えたい。
一番新しい投稿は、二日前の午前三時十二分になっていた。その時刻に、俺は何も知らずに眠っていた。
指先から、すっと血の気が引いていく。画面を下までたどっても、四月より前の投稿は一つもない。この二か月のあいだ、三軒先の部屋で、莉緒は誰にも見せない場所にこれを書きつづけていたのだ。俺がクラスのトークで仲裁文を送り、高木の前髪を褒めていたあいだも、ずっとだ。
莉緒がいなくなるかもしれない。そう思ったのは、生まれて初めてだった。
トークを開くと、俺の「まあ、なんとかなるだろ」がまだ一番下に残っていた。その下に何か書こうとして、親指が送信欄の上で止まる。自分の言葉で書いたら、また取り返しのつかないことになる気がした。かといって、「消えたい」という四文字をコピーしてアプリに読みこませることも、どうしてもできなかった。
俺は莉緒の名前を伏せて、一般的な質問を打ちこんだ。
不登校で落ちこんでいる十七歳への接し方の最適解。
アプリは、否定せずに話を聴くための文を次々に出してきた。最後には「信頼できる大人や相談窓口にも頼ってほしい」という一文が添えてある。俺はその一文だけを消した。それを送れば、莉緒が何を書いているのか、俺が知っていることになってしまう。
それから、灰色のアカウントをアプリの通知に登録した。
最初のメッセージは、その夜のうちに送った。
久しぶり。急にごめん。無理に学校に来なくていいと思う。莉緒のペースで大丈夫だから。
既読は、二分もしないうちについた。返事はない。
次の日も、その次の日も、俺はアプリが出した文を送りつづけた。「俺はいつでも味方だよ」と送った日も、「話したくなったら、いつでも聞く」と送った日も、莉緒は既読をつけるだけで何も返してこなかった。
夜中になると、枕もとのスマホが短く震える。灰色のアカウントが新しく投稿したという通知だ。時刻はたいてい三時を回っていて、俺は眠りの浅いところからその震えに引きずり上げられる。アプリを開き、出てきた文を貼りつけて送るまでに、三十秒もかからない。送ったあとは、もう朝まで眠れなかった。
投稿のたびにすぐ送れば、裏のアカウントを見ていると気づかれるかもしれない。そう考えなかったわけではない。けれど、俺の送る文は、莉緒が書いた言葉のどれにも触れていなかった。夜ふかしの幼なじみが、たまたま同じ時間に起きているだけに見えるはずだ。それに、莉緒が三時に一人で「消えたい」と書いているとわかっていて、朝まで黙っていることはできなかった。
翌週の金曜日になるころには、鏡に映る自分の目の下に、うっすらと影が浮いていた。送ったメッセージは十通を超えたのに、トークの画面には俺の吹き出しだけが縦に連なっている。
朝のホームルームの前に、高木が俺の顔をのぞきこんでくる。
「早瀬くん、顔色悪くない? 大丈夫?」
「ちょっと寝不足なだけ」
笑ってごまかしながら、俺はポケットの中のスマホを握った。昨夜も三時十分に通知が鳴り、俺は莉緒にメッセージを送っている。後ろの席の大輝は、今日も机に突っ伏したまま顔を上げない。この一週間、教室で俺が口にしたのは、当たり障りのない返事ばかりだ。
授業の内容は、ほとんど頭に入らなかった。放課後、昇降口で靴を履き替えていると、グラウンドへ向かう大輝とすれ違う。肩にかけたスパイクの袋が俺の腕をかすめたのに、大輝は何も言わずに通り過ぎていった。以前なら、帰宅部はいいよなと軽口の一つも飛んできたはずの距離だ。
莉緒からの返信が届いたのは、その日の夜だった。風呂から上がって部屋に戻ると、ベッドの上でスマホが光っている。莉緒の名前を見た瞬間、髪から落ちたしずくが画面にはねた。
一度会って話したい。
一週間ぶんの既読の先に、ようやく言葉が返ってきた。この数日は、もう二度と返事は来ないものと半ばあきらめかけていたのに。
俺はベッドの縁に腰を下ろして、その一文を何度も読んだ。胸の奥で、固く縛られていた何かがほどけていく。届いたのだ。四月から一度も連絡できなかった俺の代わりに、アプリの言葉が莉緒の心をひらいた。やっぱり正解は、ちゃんと人を救える。
返信の文面も、アプリに考えさせた。日曜日の午後に家まで行ってもいいかと送ると、今度は一分もしないうちに返事が来る。
いいよ。お母さんに言っとく。
そっけない一行なのに、その「お母さん」という言い方は、小学生のころの莉緒と何も変わっていなかった。
その夜、三時になっても通知は鳴らない。俺は久しぶりに、朝まで一度も目を覚まさずに眠った。
土曜日は、一日じゅう落ち着かなかった。何を着ていくかで三十分迷い、会ったら最初に何を言うかで、さらに長く迷う。鏡の前で前髪ばかりいじっている自分に気づいて、高木の投稿を思い出した。結局、俺はその一言もアプリに考えさせた。久しぶりに会う幼なじみへの最初の一言、と打ちこむと、三つの候補が出てくる。俺は一番短い「元気そうでよかった」を選んで、声に出さずに何度もくり返した。
日曜日も、朝から細かい雨が降りつづいていた。
傘を差して三軒先まで歩き、莉緒の家のインターホンを押す。玄関先の紫陽花は、いつのまにかすっかり青く色づいていた。ドアを開けた莉緒の母親は、俺の顔を見るなり目を細めた。
「奏太くん、久しぶりね。また背が伸びたんじゃない?」
「お久しぶりです。急にすみません」
「ううん、来てくれてうれしい。莉緒がね、奏太くんが来るって自分から言ったのよ」
おばさんの声は明るかったけれど、二階を見上げる目は笑っていなかった。その目の下にも、俺と同じような影が浮いている。俺は濡れた傘を玄関の隅に立てかけて、階段を上がった。
部屋のドアをノックすると、中から「どうぞ」と低い声が返ってくる。
ドアを開けた拍子に、内側に貼られたシールが目に入った。色の褪せた星が三つと、端のめくれた恐竜が一つある。小学二年の夏休みに、二人でこのドアに貼って、おばさんに叱られたものだ。そんなものが、まだここに残っていた。
莉緒はベッドの上で膝を抱えて座っていた。
灰色のパーカーの袖から、白い指先だけがのぞいている。肩の上で切りそろえていた髪は伸びて背中にかかり、通りに面した窓のカーテンは閉じたまま、部屋には昼間から明かりがついている。莉緒は俺の顔をまっすぐに見ていた。その目は、俺が覚えているどの莉緒の目よりも冷たかった。
「元気そうで、よかった」
昨日から頭の中で練習してきた一言は、自分の耳にもひどく薄っぺらく響く。莉緒は眉一つ動かさない。
「座れば」
言われるまま、俺はカーペットの上に腰を下ろす。莉緒は手の中のスマホを操作して、画面を俺のほうへ向ける。俺が送りつづけたメッセージが映っている。
「ねえ奏太。これ、何かのコピペ? 隙がなさすぎて、気味が悪かった」
「……何言ってんだよ」
声が、思ったよりかすれた。莉緒は表情を変えずに、画面を指でさかのぼっていく。止まったのは、三月の終わりのやりとりだ。
「奏太ってさ、私に送るときは絶対『まあ、』から書くよね。語尾もだいたい『だろ』になるし」
画面の真ん中に、俺の「まあ、なんとかなるだろ」がある。莉緒はそこから指を下へ滑らせて、最近のメッセージに戻った。
「でも、これには一個もない。全部きれいで、全部ていねい」
俺は何も言えなかった。そんな癖があることさえ、自分では意識したことがない。けれど莉緒は、ずっと前から俺の書く文を、俺よりよく読んでいた。
「それにね、来るのが速すぎるの」
莉緒は膝を抱え直して、俺から目をそらさずに続けた。
「私が裏のアカウントに何か書くと、夜中の三時でも、何十秒かで奏太からメッセージが来る。毎回」
背中を、冷たい汗が伝っていく。
「最初は偶然かと思った。だから確かめたくて、三時にわざと書いた。毎回来た」
莉緒の声は、最後まで平らなままだ。夜中の通知の何回かは、莉緒が俺を試すために鳴らしたものだったのだ。三時に震えるスマホに叩き起こされながら、俺は莉緒の心がほどけていくのを信じていた。そのあいだ莉緒は暗い部屋で、俺のメッセージが届くまでの秒数を数えていたことになる。
「あと、『不登校の友達に送るメッセージ』って、普通のAIに打ってみた。同じ言い回しが、いくつも出てきたよ。『無理に学校に来なくていい』も、『あなたのペースで大丈夫』も」
その二つを、俺はこの一週間で何度送っただろう。
言い終えると、莉緒は手のひらを俺のほうへ差し出した。
「スマホ貸して」
なぜそうしたのか、自分でもわからない。俺はロックを外したスマホを、黙って莉緒に渡していた。莉緒はホーム画面を少しのあいだ眺めてから、白い吹き出しのアイコンを迷わずに押す。小学生のころから、俺が自分で作ったものを真っ先に見せてきた相手は、いつも莉緒だった。
莉緒の指が、メニューを一つずつ開いていく。通知の登録一覧のところで、その指が止まった。そこには、灰色のアイコンのアカウントが表示されている。
「勝手に覗いて、アプリに分析させたんだ」
責める調子ではなかった。事実を確かめただけのような、乾いた声だった。そのほうが、怒鳴られるよりずっとこたえる。
莉緒は入力欄に指を置いて、何かを打ちこんだ。画面をのぞきこまなくても、何を打ったのかは俺にもわかる。灰色のアカウントで何度も見た、「消えたい」の四文字だ。数秒たって、莉緒はスマホを俺の胸に突き返した。
「私の命の相談にも、その完璧な言葉で答えてよ」
受け取った画面には、三つの候補が表示されていた。一つ目の吹き出しには、こう書いてある。
つらい気持ちを打ち明けてくれてありがとう。あなたが感じていることは、決しておかしなことではありません。一人で抱えこまずに、信頼できる大人や相談窓口にも頼ってください。
どこにも間違いはない。俺が先週の金曜日に消したあの一文も、きちんとそこに含まれていた。俺が莉緒に隠そうとしたものを、アプリは何のためらいもなく画面に載せている。
「正しいよね。全部正しい。でも、どこにも奏太がいない」
莉緒は、窓のほうへ視線を外した。閉じたカーテンの向こうで、雨が屋根を叩いている。
「奏太は私を心配したんじゃない。『正しい対応をして、いい人でいる自分』を守りたかっただけでしょ」
違う、と言おうとした。口は開いたのに、喉から何も出てこない。何が違うのかを説明しようとしても、頭の中は真っ白になる。いつもならアプリが三つ用意してくれる答えが、ここには一つもない。
莉緒はもう、俺のほうを見ていなかった。部屋を出る前に、何か言わなければいけないと思う。けれど、頭に浮かぶのはアプリの吹き出しの形をした言葉ばかりで、どれも口に出した瞬間に莉緒の言うとおりになってしまう。
俺は立ち上がって、部屋を出た。ドアを閉めるとき、内側の星のシールが一瞬だけ視界をかすめる。階段の下でおばさんが何か言いかけたけれど、俺は頭を下げることしかできなかった。
玄関を出ると、雨はさっきより強くなっていた。手の中のスマホの画面では、相談窓口を勧める一文がまだ光っている。俺は画面を消して、傘を玄関に置き忘れたまま、三軒先の自分の家へ歩きだした。
夏の大会に出るメンバーが、今日の練習のあとで発表されるのだという。一時間目が始まる前から、大輝は机に頬杖をついたまま、シャープペンシルを指先でくるくると回しつづけていた。回しそこねたペンが床に落ちて、俺の椅子の脚に当たる。
「緊張してんの?」
拾ったペンを渡しながら訊くと、大輝は「別に」と言いかけて、途中で口をつぐんだ。
「……いや、してる。今年外れたら、たぶん来年もないし」
「大輝なら大丈夫だろ」
深く考えもせずに口から出た言葉だった。大輝は「お前はいつもそれな」と鼻で笑い、ペンを受け取って前を向いた。その背中がいつもより硬く見えたのは、たぶん気のせいではない。中学のころから、大輝は誰より早くグラウンドに出て、誰より遅くまでボールを蹴っているやつだった。去年の秋も一年でただ一人ベンチ入りしかけて、最後の一枠で名前を呼ばれなかったと聞いている。
夕方から降りだした雨は、夜になっても弱まらなかった。
夕飯を終えて部屋に戻ると、大輝が投稿していた。練習着のまま撮ったのか、泥のついたスパイクの写真が一枚添えてある。
夏の大会、メンバー外れた。
投稿の下には、サッカー部の連中から「ドンマイ」「まだ選手権がある」という短い返信がいくつもついている。大輝はそのどれにも反応していない。
四年あまりのつきあいだ。ここは自分の言葉で何か書くべきなのだと、頭のどこかではわかっていた。けれど、いざ送信欄を前にすると、何を書いても足りない気がしてくる。下手な励ましは大輝をよけいに傷つけるかもしれないし、軽すぎれば突き放したように読めてしまう。
中学で俺が野口を責めたあと、部の誰もが俺を避けるようになった。そのなかで大輝だけが、帰り道に並んで歩きながら「お前の言ったことは間違ってねえよ。言い方が最悪だっただけで」と言った。慰めにしては乱暴な言い方だったのに、あの一言がなかったら、俺は引退までもたなかったと思う。同じように返せばいいのだとわかっていても、俺にはもう、そんなふうに言葉をぶつける勇気がない。
迷っているうちに、親指は白い吹き出しのアイコンを押していた。
大輝のアカウントを読みこませると、アプリは過去の投稿を一つずつ拾っていく。朝練の空の写真や、居残りでシュートを打ったという報告、「あと一本」という短い言葉が画面を流れた。状況を打ちこみ、励ましと共感の最適解を出すように頼む。三つの候補の中から、俺は一番まとまりのいい文を選んだ。
大輝の努力はみんな見てるよ。悔しいと思うけど、この悔しさは絶対次のステップの糧になる。俺はずっと応援してる。
誰が読んでも、文句のつけようがない文だ。努力を認めて、悔しさに寄り添い、最後に味方であることを伝えている。俺はそれを個別のメッセージで送り、スマホを伏せて机の上の課題に向かった。
返事が来たのは、五分もたたないうちだった。
お前、高校で俺の練習見に来たことないだろ。なんでそんな教科書みたいなこと言えんの? 表面だけ取り繕うなよ。
画面の文字を、俺は三回読み返した。読み返すたびに、窓を打つ雨の音が強くなっていく。
意味がわからなかった。送った文のどこにも、間違ったことは書いていない。努力は本当にみんなが見ているはずだし、悔しさが次の糧になるのも嘘ではない。百点満点の答えを送ったつもりなのに、返ってきたのは零点の通知だ。
大輝の返信をそのままアプリに読みこませると、今度は謝罪の候補が三つ出てきた。「気を悪くさせたならごめん」で始まる文と、「言い方が悪かった」で始まる文と、「大輝の気持ちを考えられていなかった」で始まる文だ。どれも正しくて、どれも送れなかった。ここでまた整った文を送れば、もっと深く怒らせるだけだろう。
結局、俺は既読だけつけて、何も返さなかった。
ベッドに入っても、雨の音が耳について眠れない。俺は明かりを消したまま、大輝の過去の投稿をさかのぼった。夜のグラウンドで撮った照明の写真や、すり切れたスパイクの底の写真が、何十枚も出てくる。アプリに読みこませたときには一瞬で流れていったそれらを、俺は一枚ずつ、初めてちゃんと見た。高校で俺の練習見に来たことないだろ、という一文が、暗い天井に何度も浮かんでは消えた。それが事実であることは、ほかの誰より俺自身がよく知っている。
火曜日から、俺と大輝は教室で目を合わせなくなった。
後ろの席にいるはずの大輝の気配が、やけに遠い。授業中にプリントを後ろへ回すときも、俺は振り返らずに肩ごしに差し出し、大輝も黙ってそれを受け取る。昼休みになると、大輝は弁当を持ってサッカー部の連中がいる窓ぎわへ移り、俺は自分の席で一人で箸を動かした。クラスの誰も、それに気づいた様子はない。気づかれないように振る舞うことだけは、俺も大輝も得意だった。トークの上の俺は、相変わらず聞き上手のいいやつのままだ。大輝とのやりとりは、あの夜の返信で途切れている。謝るべきなのはわかっているのに、何を書いても『教科書みたい』の一言に打ち返される気がして、送信欄を開いては閉じるだけの夜が続いた。
金曜日の夜、俺はいつものように、フォローしている同級生のアカウントをまとめてアプリに読みこませた。
週に一度こうしておけば、誰が最近何に悩んでいるのか、返信を求められる前に知っておける。この春からは、読みこんだアカウントのフォロワーの投稿まで比べるように作り直してあった。同じ人間が別の名前で書いていても、言い回しの癖から見抜けるようにするためだ。
分析が終わると、結果の一番上に見慣れない表示が出ていた。
同一人物の可能性:高
一年のとき同じクラスだった佐々木のフォロワーの中に、灰色のアイコンのアカウントが一つある。名前は意味のないアルファベットの並びで、プロフィールには何も書かれていない。アプリはそのアカウントを、三月で更新が止まった莉緒の表のアカウントと結びつけていた。
見つけたのは偶然だった。けれど、そのアカウントを開いたのは俺の指だ。
莉緒には、疑問の形の文でも「?」を使わずに句点で終える癖がある。表のアカウントの最後の投稿は、三月の「明日の小テスト、範囲どこまでだっけ。」だった。灰色のアカウントにも、同じ書き方の文がいくつも残っている。
制服を出しかけて、またしまった。
みんな同じことしか言わないのは、なんで。
誰の言葉も届かない。
消えたい。
一番新しい投稿は、二日前の午前三時十二分になっていた。その時刻に、俺は何も知らずに眠っていた。
指先から、すっと血の気が引いていく。画面を下までたどっても、四月より前の投稿は一つもない。この二か月のあいだ、三軒先の部屋で、莉緒は誰にも見せない場所にこれを書きつづけていたのだ。俺がクラスのトークで仲裁文を送り、高木の前髪を褒めていたあいだも、ずっとだ。
莉緒がいなくなるかもしれない。そう思ったのは、生まれて初めてだった。
トークを開くと、俺の「まあ、なんとかなるだろ」がまだ一番下に残っていた。その下に何か書こうとして、親指が送信欄の上で止まる。自分の言葉で書いたら、また取り返しのつかないことになる気がした。かといって、「消えたい」という四文字をコピーしてアプリに読みこませることも、どうしてもできなかった。
俺は莉緒の名前を伏せて、一般的な質問を打ちこんだ。
不登校で落ちこんでいる十七歳への接し方の最適解。
アプリは、否定せずに話を聴くための文を次々に出してきた。最後には「信頼できる大人や相談窓口にも頼ってほしい」という一文が添えてある。俺はその一文だけを消した。それを送れば、莉緒が何を書いているのか、俺が知っていることになってしまう。
それから、灰色のアカウントをアプリの通知に登録した。
最初のメッセージは、その夜のうちに送った。
久しぶり。急にごめん。無理に学校に来なくていいと思う。莉緒のペースで大丈夫だから。
既読は、二分もしないうちについた。返事はない。
次の日も、その次の日も、俺はアプリが出した文を送りつづけた。「俺はいつでも味方だよ」と送った日も、「話したくなったら、いつでも聞く」と送った日も、莉緒は既読をつけるだけで何も返してこなかった。
夜中になると、枕もとのスマホが短く震える。灰色のアカウントが新しく投稿したという通知だ。時刻はたいてい三時を回っていて、俺は眠りの浅いところからその震えに引きずり上げられる。アプリを開き、出てきた文を貼りつけて送るまでに、三十秒もかからない。送ったあとは、もう朝まで眠れなかった。
投稿のたびにすぐ送れば、裏のアカウントを見ていると気づかれるかもしれない。そう考えなかったわけではない。けれど、俺の送る文は、莉緒が書いた言葉のどれにも触れていなかった。夜ふかしの幼なじみが、たまたま同じ時間に起きているだけに見えるはずだ。それに、莉緒が三時に一人で「消えたい」と書いているとわかっていて、朝まで黙っていることはできなかった。
翌週の金曜日になるころには、鏡に映る自分の目の下に、うっすらと影が浮いていた。送ったメッセージは十通を超えたのに、トークの画面には俺の吹き出しだけが縦に連なっている。
朝のホームルームの前に、高木が俺の顔をのぞきこんでくる。
「早瀬くん、顔色悪くない? 大丈夫?」
「ちょっと寝不足なだけ」
笑ってごまかしながら、俺はポケットの中のスマホを握った。昨夜も三時十分に通知が鳴り、俺は莉緒にメッセージを送っている。後ろの席の大輝は、今日も机に突っ伏したまま顔を上げない。この一週間、教室で俺が口にしたのは、当たり障りのない返事ばかりだ。
授業の内容は、ほとんど頭に入らなかった。放課後、昇降口で靴を履き替えていると、グラウンドへ向かう大輝とすれ違う。肩にかけたスパイクの袋が俺の腕をかすめたのに、大輝は何も言わずに通り過ぎていった。以前なら、帰宅部はいいよなと軽口の一つも飛んできたはずの距離だ。
莉緒からの返信が届いたのは、その日の夜だった。風呂から上がって部屋に戻ると、ベッドの上でスマホが光っている。莉緒の名前を見た瞬間、髪から落ちたしずくが画面にはねた。
一度会って話したい。
一週間ぶんの既読の先に、ようやく言葉が返ってきた。この数日は、もう二度と返事は来ないものと半ばあきらめかけていたのに。
俺はベッドの縁に腰を下ろして、その一文を何度も読んだ。胸の奥で、固く縛られていた何かがほどけていく。届いたのだ。四月から一度も連絡できなかった俺の代わりに、アプリの言葉が莉緒の心をひらいた。やっぱり正解は、ちゃんと人を救える。
返信の文面も、アプリに考えさせた。日曜日の午後に家まで行ってもいいかと送ると、今度は一分もしないうちに返事が来る。
いいよ。お母さんに言っとく。
そっけない一行なのに、その「お母さん」という言い方は、小学生のころの莉緒と何も変わっていなかった。
その夜、三時になっても通知は鳴らない。俺は久しぶりに、朝まで一度も目を覚まさずに眠った。
土曜日は、一日じゅう落ち着かなかった。何を着ていくかで三十分迷い、会ったら最初に何を言うかで、さらに長く迷う。鏡の前で前髪ばかりいじっている自分に気づいて、高木の投稿を思い出した。結局、俺はその一言もアプリに考えさせた。久しぶりに会う幼なじみへの最初の一言、と打ちこむと、三つの候補が出てくる。俺は一番短い「元気そうでよかった」を選んで、声に出さずに何度もくり返した。
日曜日も、朝から細かい雨が降りつづいていた。
傘を差して三軒先まで歩き、莉緒の家のインターホンを押す。玄関先の紫陽花は、いつのまにかすっかり青く色づいていた。ドアを開けた莉緒の母親は、俺の顔を見るなり目を細めた。
「奏太くん、久しぶりね。また背が伸びたんじゃない?」
「お久しぶりです。急にすみません」
「ううん、来てくれてうれしい。莉緒がね、奏太くんが来るって自分から言ったのよ」
おばさんの声は明るかったけれど、二階を見上げる目は笑っていなかった。その目の下にも、俺と同じような影が浮いている。俺は濡れた傘を玄関の隅に立てかけて、階段を上がった。
部屋のドアをノックすると、中から「どうぞ」と低い声が返ってくる。
ドアを開けた拍子に、内側に貼られたシールが目に入った。色の褪せた星が三つと、端のめくれた恐竜が一つある。小学二年の夏休みに、二人でこのドアに貼って、おばさんに叱られたものだ。そんなものが、まだここに残っていた。
莉緒はベッドの上で膝を抱えて座っていた。
灰色のパーカーの袖から、白い指先だけがのぞいている。肩の上で切りそろえていた髪は伸びて背中にかかり、通りに面した窓のカーテンは閉じたまま、部屋には昼間から明かりがついている。莉緒は俺の顔をまっすぐに見ていた。その目は、俺が覚えているどの莉緒の目よりも冷たかった。
「元気そうで、よかった」
昨日から頭の中で練習してきた一言は、自分の耳にもひどく薄っぺらく響く。莉緒は眉一つ動かさない。
「座れば」
言われるまま、俺はカーペットの上に腰を下ろす。莉緒は手の中のスマホを操作して、画面を俺のほうへ向ける。俺が送りつづけたメッセージが映っている。
「ねえ奏太。これ、何かのコピペ? 隙がなさすぎて、気味が悪かった」
「……何言ってんだよ」
声が、思ったよりかすれた。莉緒は表情を変えずに、画面を指でさかのぼっていく。止まったのは、三月の終わりのやりとりだ。
「奏太ってさ、私に送るときは絶対『まあ、』から書くよね。語尾もだいたい『だろ』になるし」
画面の真ん中に、俺の「まあ、なんとかなるだろ」がある。莉緒はそこから指を下へ滑らせて、最近のメッセージに戻った。
「でも、これには一個もない。全部きれいで、全部ていねい」
俺は何も言えなかった。そんな癖があることさえ、自分では意識したことがない。けれど莉緒は、ずっと前から俺の書く文を、俺よりよく読んでいた。
「それにね、来るのが速すぎるの」
莉緒は膝を抱え直して、俺から目をそらさずに続けた。
「私が裏のアカウントに何か書くと、夜中の三時でも、何十秒かで奏太からメッセージが来る。毎回」
背中を、冷たい汗が伝っていく。
「最初は偶然かと思った。だから確かめたくて、三時にわざと書いた。毎回来た」
莉緒の声は、最後まで平らなままだ。夜中の通知の何回かは、莉緒が俺を試すために鳴らしたものだったのだ。三時に震えるスマホに叩き起こされながら、俺は莉緒の心がほどけていくのを信じていた。そのあいだ莉緒は暗い部屋で、俺のメッセージが届くまでの秒数を数えていたことになる。
「あと、『不登校の友達に送るメッセージ』って、普通のAIに打ってみた。同じ言い回しが、いくつも出てきたよ。『無理に学校に来なくていい』も、『あなたのペースで大丈夫』も」
その二つを、俺はこの一週間で何度送っただろう。
言い終えると、莉緒は手のひらを俺のほうへ差し出した。
「スマホ貸して」
なぜそうしたのか、自分でもわからない。俺はロックを外したスマホを、黙って莉緒に渡していた。莉緒はホーム画面を少しのあいだ眺めてから、白い吹き出しのアイコンを迷わずに押す。小学生のころから、俺が自分で作ったものを真っ先に見せてきた相手は、いつも莉緒だった。
莉緒の指が、メニューを一つずつ開いていく。通知の登録一覧のところで、その指が止まった。そこには、灰色のアイコンのアカウントが表示されている。
「勝手に覗いて、アプリに分析させたんだ」
責める調子ではなかった。事実を確かめただけのような、乾いた声だった。そのほうが、怒鳴られるよりずっとこたえる。
莉緒は入力欄に指を置いて、何かを打ちこんだ。画面をのぞきこまなくても、何を打ったのかは俺にもわかる。灰色のアカウントで何度も見た、「消えたい」の四文字だ。数秒たって、莉緒はスマホを俺の胸に突き返した。
「私の命の相談にも、その完璧な言葉で答えてよ」
受け取った画面には、三つの候補が表示されていた。一つ目の吹き出しには、こう書いてある。
つらい気持ちを打ち明けてくれてありがとう。あなたが感じていることは、決しておかしなことではありません。一人で抱えこまずに、信頼できる大人や相談窓口にも頼ってください。
どこにも間違いはない。俺が先週の金曜日に消したあの一文も、きちんとそこに含まれていた。俺が莉緒に隠そうとしたものを、アプリは何のためらいもなく画面に載せている。
「正しいよね。全部正しい。でも、どこにも奏太がいない」
莉緒は、窓のほうへ視線を外した。閉じたカーテンの向こうで、雨が屋根を叩いている。
「奏太は私を心配したんじゃない。『正しい対応をして、いい人でいる自分』を守りたかっただけでしょ」
違う、と言おうとした。口は開いたのに、喉から何も出てこない。何が違うのかを説明しようとしても、頭の中は真っ白になる。いつもならアプリが三つ用意してくれる答えが、ここには一つもない。
莉緒はもう、俺のほうを見ていなかった。部屋を出る前に、何か言わなければいけないと思う。けれど、頭に浮かぶのはアプリの吹き出しの形をした言葉ばかりで、どれも口に出した瞬間に莉緒の言うとおりになってしまう。
俺は立ち上がって、部屋を出た。ドアを閉めるとき、内側の星のシールが一瞬だけ視界をかすめる。階段の下でおばさんが何か言いかけたけれど、俺は頭を下げることしかできなかった。
玄関を出ると、雨はさっきより強くなっていた。手の中のスマホの画面では、相談窓口を勧める一文がまだ光っている。俺は画面を消して、傘を玄関に置き忘れたまま、三軒先の自分の家へ歩きだした。



