俺のスマホには、正解が入っている。
ホーム画面の右下に置いた、白い吹き出しのアイコンがそれだ。名前は『Answer』という。アプリストアをいくら探しても見つからないのは、俺が自分のためだけに作ったアプリだからで、これが入っているスマホは世界に一台しかない。
仕組みは、聞けば拍子抜けするほど単純だ。誰でも使える生成AIを呼び出して、その前後に俺が書いた指示を挟んでいるにすぎない。相手の過去の投稿やそれまでのトークの流れを読みこませ、「この相手が一番言われたい、誰も傷つけない返信を三つ」と頼む。すると数秒で、画面に三つの吹き出しが並ぶ。俺はその中から一つを選んでコピーし、送信欄に貼りつけるだけでいい。
俺が重ねた工夫は、その指示の中身にある。たとえば、相手が普段使う絵文字の数に合わせるようにと書いてある。最近の投稿で使われた言葉を一つだけ混ぜることや、否定の言葉を避けることも、何度も試しながら書き足している。細かい注文を重ねるほど出てくる文は人間くさくなり、返ってくる反応もよくなっていった。
六月に入って最初の木曜日も、目を覚ましたときには通知が三件たまっていた。一件目は、同じクラスの村上の投稿だ。
英語の課題、まだ一行もやってない。終わった。
時刻は、夜中の一時すぎになっている。村上の過去の投稿は課題やテストへの泣き言ばかりで、そのたびに誰かが軽口で返している。俺はベッドの中で村上のアカウントを読みこませ、返信の候補が上から順に表示されていくのを眺めた。どの候補にも、真面目な励ましは入っていない。一つ目は「今から一緒にやろうぜ」と誘う文で、二つ目は「俺もまだ半分」と自分を下げてみせる文だ。三つ目には、写させてやるから朝のうちに声をかけろ、という申し出が書いてある。
三つ目を選べば、村上には感謝されるだろう。そのかわり、来週も再来週も同じことを頼まれる羽目になる。俺は二つ目を選んで送信した。
俺もまだ半分。四時間目までなら、たぶん間に合う。
三十秒もしないうちに、腹を抱えて笑う犬のスタンプが返ってくる。これで村上の中の俺は、課題を半分しか終わらせていない気さくな仲間になった。実際には昨日の夜に全部終わらせているけれど、それを正直に書いて得をする人間は一人もいない。
『Answer』を作ったのは、高一の冬だ。
きっかけは、クラスの誰かの誕生日だ。グループトークに「おめでとう」と打つだけのことに二十分も迷い、ようやく送ろうとしたときには、話題はとっくに別のものへ移っていた。その夜から、俺は冬休みの大半をパソコンの前で過ごすことになる。
最初は、返事に迷ったときだけ使うつもりでいた。卒業する先輩への寄せ書きやふざけた写真への反応、先生の悪口にどこまで乗るかといった、どう返しても角が立ちそうな場面のための道具だった。ところが、アプリの出す文は、俺が自分で考えた文よりいつも評判がいい。アプリが書いた返事にだけ、「それな」や「わかる」がいくつもつくのだ。迷ったときのために作ったはずが、そのうち迷わないときでも開くようになり、気づけば手放せなくなっていた。いまでは母親に送る「夕飯いらない」さえ、一度アプリを通している。
だからといって、俺はいい人になりたいわけではない。誰かに感謝されたいとも、人気者になりたいとも思っていない。人とぶつかりたくないし、嫌われたくもないというだけの話で、言葉を選ぶたびに削られる体力をほかのことに回したいのだ。まあ、省エネってやつだ。
二件目の通知は、高木美羽の投稿だった。
前髪切りすぎちゃって鬱……
添えられた写真の高木は、片手で額を隠して唇をとがらせている。投稿の下には、もう十件近い返信がついていた。「かわいいよ」「全然わかんない」「むしろ似合ってる」と、どれもよく似た言葉が並んでいる。
俺は高木のアカウントをアプリにかけた。高木の投稿には、雑誌のモデルの写真や、大学生の姉から借りたという服の話がやたらと多い。アプリはそこを拾ったのか、三つの候補のうち一つだけが、ほかとはまるで違う方向から褒めていた。
前髪、短いのもすごく似合ってる。
顔がはっきり見えて、全体が大人っぽくなった。
この二行には、かわいいという言葉が一度も出てこない。それがこの文の強みなのだと、読んだ瞬間に俺にもわかった。送信ボタンを押してから、残りの一件を開く。三件目はクラスのグループトークで、文化祭の出し物をめぐる言い合いがもう始まっていた。俺は既読だけつけてトークを閉じ、ベッドを抜け出して制服のシャツに袖を通す。
家を出て学校へ歩くあいだも、ポケットの中のスマホは何度も通知を知らせてくる。グループトークの言い合いが、まだ続いているのだろう。俺は画面を見ずに、校門を抜けた。
教室に入ると、窓ぎわの高木の席に女子が集まっていた。
輪の真ん中にいた高木が、俺に気づいて椅子から立ち上がる。前髪は写真で見たよりもさらに短く、眉の上で切りそろえられた毛先が、こちらへ歩いてくるたびに揺れていた。
「早瀬くん、返信ありがと。マジで褒め上手!」
高木はスマホの画面を俺に向けた。俺の送った二行に、ハートのマークがいくつも重なっている。
「みんな『かわいい』しか言ってくれないのに、大人っぽいって言われたの、初めてなんだけど」
「そう? 思ったことを書いただけだよ」
口から出たのは、我ながら感心するほど無難な言葉だった。本当に思ったのはアプリのほうで、俺は貼りつけただけだ。けれど、高木の後ろにいた女子たちまで「早瀬くんってそういうとこあるよね」とうなずき合っているので、わざわざ訂正する理由はどこにもない。
そこへ、朝練を終えた大輝が教室に入ってきた。首にかけたタオルで顔の汗を拭きながら、俺の後ろの自分の席に鞄を放り投げる。
「朝からモテてんな、奏太」
「そういうんじゃないって」
大輝は鼻で笑って、椅子にどかっと腰を下ろした。日に焼けた腕には、新しいすり傷が一本増えている。夏の大会を前にして、サッカー部は朝も夕方もグラウンドを走り回っていた。中学からのつきあいなのに、高校に入ってからの大輝の練習を、俺は一度も見に行ったことがない。
昼休みになると、クラスのグループトークが急に騒がしくなった。
九月の文化祭で何をやるのか、来週のホームルームまでに決めなければならない。お化け屋敷をやりたい村上たちと、カフェをやりたい浜田たちが、朝からトークの上で言い合いを続けていた。村上が何か書けば、浜田がすぐに打ち返す。
カフェとか、毎年どこかのクラスがやってるじゃん。ありきたりすぎ。
お化け屋敷こそ準備が大変なのに、男子どうせ途中でサボるでしょ。
どちらの言い分も、相手の一番痛いところを正確に突いている。教室のあちこちで、弁当を食べる手を止めてスマホを見つめる顔があった。既読の数字はどんどん増えていくのに、新しい発言は一つも出てこない。うっかり口を挟めば、どちらかの側についたことになるからだ。前の席の男子は膝の上でスマホを握ったまま、画面の上で親指を止めている。何かを書きかけては消しているのが、後ろからでもよくわかった。
俺は箸を置いて、トークの流れを最初からアプリに読みこませた。双方のメンツを保つ仲裁文、と打ちこむと、三つの候補が浮かぶ。一つ目は多数決を勧めていて、二つ目は担任に決めてもらおうと書いている。どちらも筋は通っているけれど、負けた側に恥をかかせる点では同じだ。誰も負けない形をしているのは、三つ目だけだった。
二人とも、クラスで一番楽しめるものを本気で考えてるのが伝わってくる。お化け屋敷みたいに暗くした教室で、カフェをやるのはどうかな。怖がりたい人も、休みたい人も来られると思う。
送信してから、俺は何事もなかったように卵焼きを口に運んだ。
最初に反応したのは、村上だった。「それアリ」の四文字に続いて、浜田から「天才では?」と返ってくる。そこから先は早かった。それまで黙っていたクラスメイトたちが一斉に書きこみはじめ、メニューの名前を考える者がいれば、暗幕の借り方を調べてくる者もいる。弁当を食べ終えるころには、朝からの言い合いはトークのずっと上のほうへ流れて見えなくなっていた。
五時間目のチャイムが鳴る前に、高木が俺の机の横で足を止めた。
「早瀬くんって、ほんと聞き上手だよね。絶対に人を傷つけないし」
隣にいた浜田も、「わかる」と大きくうなずく。褒められているのは俺ではなく、俺のスマホに入っているものだ。それをわかったうえで、俺は「そんなことないって」と笑ってみせた。
クラスの中で俺は、聞き上手で絶対に人を傷つけないいいやつ、という場所に収まりつつある。悪い気はしなかった。誰とも揉めずに一日が終わるなら、それ以上に望むことはない。
帰宅部の俺は、六時間目が終わるとすぐに学校を出る。
空は朝から白く曇ったままで、歩いて二十分の帰り道を行くあいだ、湿った風が首すじにまとわりついて離れない。天気予報によれば、梅雨入りは来週になるという。グラウンドのほうからは、サッカー部のかけ声がまだ聞こえていた。
人とぶつかるのが怖くなったのは、中学二年の秋からだ。
三年生が引退して、新しいチームで初めて臨んだ大会だった。俺たちは一回戦で、格下だと思っていた相手に負けた。試合のあとのミーティングで監督が「何か言いたいやつはいるか」と訊いたとき、真っ先に手を挙げたのは俺だ。
「野口が最後にマークを外さなければ、勝ってたと思います」
間違ったことを言ったつもりはない。失点の場面を見ていれば、誰だって同じことを思ったはずだ。けれど、部室は水を打ったように黙りこみ、野口はうつむいたまま最後まで顔を上げなかった。野口が退部届を出したのは、それから二週間後のことだ。
お前が追い出したんだと、面と向かって言うやつもいれば陰でささやくやつもいた。引退までの一年近く、俺は誰とも目を合わせないようにして部活に通いつづけた。最後まで隣にいてくれたのは、大輝くらいのものだ。
あのとき思い知ったのは、自分の言葉は人を遠ざけるということだった。思ったことをそのまま口にすれば、それが正しくても誰かが傷つき、傷ついた誰かは離れていく。
人間が感情で喋るから揉めるんだ。正解だけを送るのが、一番平和に決まっている。『Answer』の文は俺の言葉ではないけれど、そのことに罪悪感を覚えたことは一度もない。誰も傷つけない言葉なら、誰が考えたものでもかまわないはずだ。
家の前の通りに入ったところで、俺は足をゆるめた。
俺の家の三軒手前に、莉緒の家がある。玄関先のプランターでは、莉緒の母親が育てている紫陽花が、色づきかけたつぼみをいくつもつけていた。通りに面した二階の窓には、今日も厚手のカーテンが引かれている。小学生のころの莉緒は、毎朝あの窓から外をのぞいて俺を待っていた。俺の姿を見つけるなり「奏太、遅い」と怒鳴って、玄関から飛び出してくるのだ。そこから二人で同じ道を歩いて、学校へ通っていた。
莉緒は高一の三学期から学校を休みがちになり、二年になった四月からは一度も登校していない。クラスが分かれてしまったので、廊下で噂を耳にすることもなかった。見上げているあいだも、カーテンはぴくりとも動かない。通りを吹き抜けた風に、紫陽花の葉だけがかすかに揺れた。
三軒先の自分の家に入り、部屋のベッドに寝転がってスマホを開く。指が勝手に、トークの一覧を下へ下へとたどっていった。莉緒の名前は、ずいぶん下のほうに沈んでいる。
開いてみると、最後のやりとりは三月の終わりで止まっていた。
三学期、ほとんど行けなかった。二年になったら、どうしよう。
その下に、俺の返信が一つだけある。
まあ、なんとかなるだろ。
莉緒に送る文だけは、そのころまだアプリを通していなかった。これは俺が、自分の指で打った返事だ。あの夜は課題の合間に片手で打って送り、それきり画面を見返しもしなかった。吹き出しの横には既読の文字がついているのに、莉緒からの返信はない。二か月あまり、このトークは俺の一言で止まったままになっている。
四月から一度も連絡していないことは、なるべく考えないようにしてきた。考えはじめると、あの「まあ、」から始まる軽い一言が喉の奥に刺さった小骨のように取れなくなるからだ。
手の中で、スマホが短く震えた。クラスの誰かが、また何かを投稿したのだ。俺は莉緒とのトークを閉じて、白い吹き出しのアイコンに親指をのせた。
ホーム画面の右下に置いた、白い吹き出しのアイコンがそれだ。名前は『Answer』という。アプリストアをいくら探しても見つからないのは、俺が自分のためだけに作ったアプリだからで、これが入っているスマホは世界に一台しかない。
仕組みは、聞けば拍子抜けするほど単純だ。誰でも使える生成AIを呼び出して、その前後に俺が書いた指示を挟んでいるにすぎない。相手の過去の投稿やそれまでのトークの流れを読みこませ、「この相手が一番言われたい、誰も傷つけない返信を三つ」と頼む。すると数秒で、画面に三つの吹き出しが並ぶ。俺はその中から一つを選んでコピーし、送信欄に貼りつけるだけでいい。
俺が重ねた工夫は、その指示の中身にある。たとえば、相手が普段使う絵文字の数に合わせるようにと書いてある。最近の投稿で使われた言葉を一つだけ混ぜることや、否定の言葉を避けることも、何度も試しながら書き足している。細かい注文を重ねるほど出てくる文は人間くさくなり、返ってくる反応もよくなっていった。
六月に入って最初の木曜日も、目を覚ましたときには通知が三件たまっていた。一件目は、同じクラスの村上の投稿だ。
英語の課題、まだ一行もやってない。終わった。
時刻は、夜中の一時すぎになっている。村上の過去の投稿は課題やテストへの泣き言ばかりで、そのたびに誰かが軽口で返している。俺はベッドの中で村上のアカウントを読みこませ、返信の候補が上から順に表示されていくのを眺めた。どの候補にも、真面目な励ましは入っていない。一つ目は「今から一緒にやろうぜ」と誘う文で、二つ目は「俺もまだ半分」と自分を下げてみせる文だ。三つ目には、写させてやるから朝のうちに声をかけろ、という申し出が書いてある。
三つ目を選べば、村上には感謝されるだろう。そのかわり、来週も再来週も同じことを頼まれる羽目になる。俺は二つ目を選んで送信した。
俺もまだ半分。四時間目までなら、たぶん間に合う。
三十秒もしないうちに、腹を抱えて笑う犬のスタンプが返ってくる。これで村上の中の俺は、課題を半分しか終わらせていない気さくな仲間になった。実際には昨日の夜に全部終わらせているけれど、それを正直に書いて得をする人間は一人もいない。
『Answer』を作ったのは、高一の冬だ。
きっかけは、クラスの誰かの誕生日だ。グループトークに「おめでとう」と打つだけのことに二十分も迷い、ようやく送ろうとしたときには、話題はとっくに別のものへ移っていた。その夜から、俺は冬休みの大半をパソコンの前で過ごすことになる。
最初は、返事に迷ったときだけ使うつもりでいた。卒業する先輩への寄せ書きやふざけた写真への反応、先生の悪口にどこまで乗るかといった、どう返しても角が立ちそうな場面のための道具だった。ところが、アプリの出す文は、俺が自分で考えた文よりいつも評判がいい。アプリが書いた返事にだけ、「それな」や「わかる」がいくつもつくのだ。迷ったときのために作ったはずが、そのうち迷わないときでも開くようになり、気づけば手放せなくなっていた。いまでは母親に送る「夕飯いらない」さえ、一度アプリを通している。
だからといって、俺はいい人になりたいわけではない。誰かに感謝されたいとも、人気者になりたいとも思っていない。人とぶつかりたくないし、嫌われたくもないというだけの話で、言葉を選ぶたびに削られる体力をほかのことに回したいのだ。まあ、省エネってやつだ。
二件目の通知は、高木美羽の投稿だった。
前髪切りすぎちゃって鬱……
添えられた写真の高木は、片手で額を隠して唇をとがらせている。投稿の下には、もう十件近い返信がついていた。「かわいいよ」「全然わかんない」「むしろ似合ってる」と、どれもよく似た言葉が並んでいる。
俺は高木のアカウントをアプリにかけた。高木の投稿には、雑誌のモデルの写真や、大学生の姉から借りたという服の話がやたらと多い。アプリはそこを拾ったのか、三つの候補のうち一つだけが、ほかとはまるで違う方向から褒めていた。
前髪、短いのもすごく似合ってる。
顔がはっきり見えて、全体が大人っぽくなった。
この二行には、かわいいという言葉が一度も出てこない。それがこの文の強みなのだと、読んだ瞬間に俺にもわかった。送信ボタンを押してから、残りの一件を開く。三件目はクラスのグループトークで、文化祭の出し物をめぐる言い合いがもう始まっていた。俺は既読だけつけてトークを閉じ、ベッドを抜け出して制服のシャツに袖を通す。
家を出て学校へ歩くあいだも、ポケットの中のスマホは何度も通知を知らせてくる。グループトークの言い合いが、まだ続いているのだろう。俺は画面を見ずに、校門を抜けた。
教室に入ると、窓ぎわの高木の席に女子が集まっていた。
輪の真ん中にいた高木が、俺に気づいて椅子から立ち上がる。前髪は写真で見たよりもさらに短く、眉の上で切りそろえられた毛先が、こちらへ歩いてくるたびに揺れていた。
「早瀬くん、返信ありがと。マジで褒め上手!」
高木はスマホの画面を俺に向けた。俺の送った二行に、ハートのマークがいくつも重なっている。
「みんな『かわいい』しか言ってくれないのに、大人っぽいって言われたの、初めてなんだけど」
「そう? 思ったことを書いただけだよ」
口から出たのは、我ながら感心するほど無難な言葉だった。本当に思ったのはアプリのほうで、俺は貼りつけただけだ。けれど、高木の後ろにいた女子たちまで「早瀬くんってそういうとこあるよね」とうなずき合っているので、わざわざ訂正する理由はどこにもない。
そこへ、朝練を終えた大輝が教室に入ってきた。首にかけたタオルで顔の汗を拭きながら、俺の後ろの自分の席に鞄を放り投げる。
「朝からモテてんな、奏太」
「そういうんじゃないって」
大輝は鼻で笑って、椅子にどかっと腰を下ろした。日に焼けた腕には、新しいすり傷が一本増えている。夏の大会を前にして、サッカー部は朝も夕方もグラウンドを走り回っていた。中学からのつきあいなのに、高校に入ってからの大輝の練習を、俺は一度も見に行ったことがない。
昼休みになると、クラスのグループトークが急に騒がしくなった。
九月の文化祭で何をやるのか、来週のホームルームまでに決めなければならない。お化け屋敷をやりたい村上たちと、カフェをやりたい浜田たちが、朝からトークの上で言い合いを続けていた。村上が何か書けば、浜田がすぐに打ち返す。
カフェとか、毎年どこかのクラスがやってるじゃん。ありきたりすぎ。
お化け屋敷こそ準備が大変なのに、男子どうせ途中でサボるでしょ。
どちらの言い分も、相手の一番痛いところを正確に突いている。教室のあちこちで、弁当を食べる手を止めてスマホを見つめる顔があった。既読の数字はどんどん増えていくのに、新しい発言は一つも出てこない。うっかり口を挟めば、どちらかの側についたことになるからだ。前の席の男子は膝の上でスマホを握ったまま、画面の上で親指を止めている。何かを書きかけては消しているのが、後ろからでもよくわかった。
俺は箸を置いて、トークの流れを最初からアプリに読みこませた。双方のメンツを保つ仲裁文、と打ちこむと、三つの候補が浮かぶ。一つ目は多数決を勧めていて、二つ目は担任に決めてもらおうと書いている。どちらも筋は通っているけれど、負けた側に恥をかかせる点では同じだ。誰も負けない形をしているのは、三つ目だけだった。
二人とも、クラスで一番楽しめるものを本気で考えてるのが伝わってくる。お化け屋敷みたいに暗くした教室で、カフェをやるのはどうかな。怖がりたい人も、休みたい人も来られると思う。
送信してから、俺は何事もなかったように卵焼きを口に運んだ。
最初に反応したのは、村上だった。「それアリ」の四文字に続いて、浜田から「天才では?」と返ってくる。そこから先は早かった。それまで黙っていたクラスメイトたちが一斉に書きこみはじめ、メニューの名前を考える者がいれば、暗幕の借り方を調べてくる者もいる。弁当を食べ終えるころには、朝からの言い合いはトークのずっと上のほうへ流れて見えなくなっていた。
五時間目のチャイムが鳴る前に、高木が俺の机の横で足を止めた。
「早瀬くんって、ほんと聞き上手だよね。絶対に人を傷つけないし」
隣にいた浜田も、「わかる」と大きくうなずく。褒められているのは俺ではなく、俺のスマホに入っているものだ。それをわかったうえで、俺は「そんなことないって」と笑ってみせた。
クラスの中で俺は、聞き上手で絶対に人を傷つけないいいやつ、という場所に収まりつつある。悪い気はしなかった。誰とも揉めずに一日が終わるなら、それ以上に望むことはない。
帰宅部の俺は、六時間目が終わるとすぐに学校を出る。
空は朝から白く曇ったままで、歩いて二十分の帰り道を行くあいだ、湿った風が首すじにまとわりついて離れない。天気予報によれば、梅雨入りは来週になるという。グラウンドのほうからは、サッカー部のかけ声がまだ聞こえていた。
人とぶつかるのが怖くなったのは、中学二年の秋からだ。
三年生が引退して、新しいチームで初めて臨んだ大会だった。俺たちは一回戦で、格下だと思っていた相手に負けた。試合のあとのミーティングで監督が「何か言いたいやつはいるか」と訊いたとき、真っ先に手を挙げたのは俺だ。
「野口が最後にマークを外さなければ、勝ってたと思います」
間違ったことを言ったつもりはない。失点の場面を見ていれば、誰だって同じことを思ったはずだ。けれど、部室は水を打ったように黙りこみ、野口はうつむいたまま最後まで顔を上げなかった。野口が退部届を出したのは、それから二週間後のことだ。
お前が追い出したんだと、面と向かって言うやつもいれば陰でささやくやつもいた。引退までの一年近く、俺は誰とも目を合わせないようにして部活に通いつづけた。最後まで隣にいてくれたのは、大輝くらいのものだ。
あのとき思い知ったのは、自分の言葉は人を遠ざけるということだった。思ったことをそのまま口にすれば、それが正しくても誰かが傷つき、傷ついた誰かは離れていく。
人間が感情で喋るから揉めるんだ。正解だけを送るのが、一番平和に決まっている。『Answer』の文は俺の言葉ではないけれど、そのことに罪悪感を覚えたことは一度もない。誰も傷つけない言葉なら、誰が考えたものでもかまわないはずだ。
家の前の通りに入ったところで、俺は足をゆるめた。
俺の家の三軒手前に、莉緒の家がある。玄関先のプランターでは、莉緒の母親が育てている紫陽花が、色づきかけたつぼみをいくつもつけていた。通りに面した二階の窓には、今日も厚手のカーテンが引かれている。小学生のころの莉緒は、毎朝あの窓から外をのぞいて俺を待っていた。俺の姿を見つけるなり「奏太、遅い」と怒鳴って、玄関から飛び出してくるのだ。そこから二人で同じ道を歩いて、学校へ通っていた。
莉緒は高一の三学期から学校を休みがちになり、二年になった四月からは一度も登校していない。クラスが分かれてしまったので、廊下で噂を耳にすることもなかった。見上げているあいだも、カーテンはぴくりとも動かない。通りを吹き抜けた風に、紫陽花の葉だけがかすかに揺れた。
三軒先の自分の家に入り、部屋のベッドに寝転がってスマホを開く。指が勝手に、トークの一覧を下へ下へとたどっていった。莉緒の名前は、ずいぶん下のほうに沈んでいる。
開いてみると、最後のやりとりは三月の終わりで止まっていた。
三学期、ほとんど行けなかった。二年になったら、どうしよう。
その下に、俺の返信が一つだけある。
まあ、なんとかなるだろ。
莉緒に送る文だけは、そのころまだアプリを通していなかった。これは俺が、自分の指で打った返事だ。あの夜は課題の合間に片手で打って送り、それきり画面を見返しもしなかった。吹き出しの横には既読の文字がついているのに、莉緒からの返信はない。二か月あまり、このトークは俺の一言で止まったままになっている。
四月から一度も連絡していないことは、なるべく考えないようにしてきた。考えはじめると、あの「まあ、」から始まる軽い一言が喉の奥に刺さった小骨のように取れなくなるからだ。
手の中で、スマホが短く震えた。クラスの誰かが、また何かを投稿したのだ。俺は莉緒とのトークを閉じて、白い吹き出しのアイコンに親指をのせた。



