答えのその先に、私たちは


放課後。

いつもなら、帰り支度を終えた朱莉が私の席までやってくる。

「奏、帰ろー!」

そう言って、私の返事を待たずに鞄を持っていこうとするのがいつもの流れだった。


でも、今日は違った。

朱莉は自分の席に座ったまま、窓の外を眺めていた。

『……朱莉』

「ん?」

『話って、何?』

声をかけると、朱莉はゆっくりとこちらを向いた。

「あ、うん」

少しだけ笑って、それから鞄を持ち上げる。

「……外、行こっか」

*

校舎を出て、私たちは校門のそばにあるベンチに座った。

部活に向かう生徒たちの声が、少し離れたところから聞こえてくる。

いつもなら、朱莉はこういう沈黙をすぐに埋めてくれる。

どうでもいい話をしたり、さっき見た動画の話をしたり。

でも、今日はなかなか口を開かなかった。

『……朱莉?』

「ねえ、奏」

『うん』

「昨日はごめんね」

『……え?』

「なんか…変な言い方しちゃったじゃん?」

朱莉は膝の上で指先をいじりながら続けた。

「奏は私のこと考えてくれてるのに、ずるいとか言っちゃって」

『……ううん』

「でもさ」

そこで、朱莉は顔を上げた。

「…私、奏に嫌われたくないの」

思いがけない言葉だった。

『……なんで?』

「なんでって……」

朱莉は困ったように笑った。

「だって、奏がいなくなったら困るもん」

『……』

「私がどんなに失敗しても、どんなに面倒くさくても、奏はそばにいてくれるじゃん」

それは、少し違う気がした。

私は朱莉のことを、そんなふうに考えたことはなかった。

面倒だなんて、一度も思ったことがない。

『……私だって、朱莉がいなくなったら私は困るよ』

「え?」

『私だって、朱莉がいなくなったら嫌だもん』

言ってから、少し恥ずかしくなった。

でも、今度は誤魔化さなかった。

『だから、嫌われたくないのは私も一緒』

朱莉は目を丸くして、それから小さく笑った。

「……なにそれ。初めて聞いた」

『そうだっけ』

「そうだよ」

少しだけ、いつもの朱莉に戻った気がした。


でも、次の言葉は思いもよらないものだった。

「……だからさ、私、奏の前ではちゃんとしてたいんだよね」

『……ちゃんと?』

「うん」

朱莉は頷いた。

「いつも明るくて、恋愛の話ばっかしてて、

ちょっと抜けてるけど、なんだかんだ楽しそうな私」

『……』

「そういう私でいたら、奏も安心するでしょ?」

胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。

『……どうして、そう思うの?』

「だって…初めて会った時、すごく寂しそうだったから」

息が止まった。

「あの時のこと、覚えてる?」

『……うん』

忘れるわけがなかった。

ましてや、まさか朱莉が覚えてくれてるだなんて。

あの頃の私は、実緒がいなくなってから、誰とも深く関わろうとしなかった。

誰かと仲良くなっても、どうせいつか離れていく。

そう思っていた。


「私、奏に笑ってほしかったんだよね〜…」

朱莉は少し照れたように笑った。

「だから、いっぱい話しかけたし、くだらないことばっか言ってた」

『……うん』

「奏が笑ってくれると、嬉しかった」

そこで、朱莉は視線を落とした。

「……でも、いつからかな」

『……え?』

「私も、奏に嫌われないようにしなきゃって思うようになったの」

風が吹いて、朱莉の短い髪が揺れた。

「私が彼氏と別れたときも、次に好きな人ができたときも、奏はいつも話を聞いてくれるじゃん」

『……うん』

「でも、たまに思うんだよね」

朱莉は笑った。

「私、こういう話ばっかしてていいのかなって」

『……』

「奏は私の話を聞いてくれるけど、奏自身の話って、あんまりしてくれないじゃん」

何も言えなかった。

「だから、私が楽しくしてたら、奏も楽しいかなって」

『……朱莉』

「もちろん、恋愛も好きだよ?好きな人に可愛いって思われたいし、付き合えたら嬉しいし」

朱莉は慌てたように付け加えた。

「だから、全部が全部、無理してるわけじゃないんだよ?」

『……うん』

「でも、好きな人ができると、その人に好かれることばっかり考えちゃう」

少しだけ、声が小さくなった。

「……それで、気づいたら自分が何したかったのか、わかんなくなってる」

私は、ようやく気付いた気がした。

朱莉はただ、誰かの好みに合わせたいわけじゃない。

誰かに好かれることで、自分がここにいていいと思いたいのかもしれない。

私だって、同じだった。

実緒がいなくなってから、誰かに必要とされるのが怖かった。

また失うくらいなら、最初から踏み込まなければいい。

そうやって、自分の気持ちを隠してきた。

でも、朱莉は違った。

誰かに必要とされたくて、何度も誰かの中に自分の居場所を探していた。


『……私ね』

気づいたら、口が動いていた。

『朱莉が笑ってると、嬉しいよ』

「……うん」

『でも、無理して笑ってほしいわけじゃない』

朱莉が、ゆっくりと顔を上げた。

『好きな人がいても、…いなくても、私は朱莉と一緒にいたいよ』

「……」

『髪が長くても短くても、どんな服を着てても』

一度、息を吸う。

『……ありのままでいてほしい』

言った瞬間、胸の奥に溜め込んでいたものが、少しだけほどけた気がした。

「……ありのままって」

朱莉が呟いた。

「今の私のこと?」

『……うん』

「じゃあ、私がこれからも好きな人に合わせて髪を伸ばしたいって言ったら?」

『……応援するよ』

「また別の人を好きになって、その人の好みに合わせたいって言ったら?」

『……』

「それでも、ありのままでいてほしいって思うの?」

その質問には、すぐに答えられなかった。

朱莉が誰かのために何かを変えること自体が、嫌なわけじゃない。

好きな人の好きなものを知りたいと思う気持ちも、

喜んでもらいたくて努力することも、きっと自然なことだ。

ただ。

『……朱莉が、自分の気持ちを忘れちゃうのは嫌だよ』

「……」

『好きな人のために変わりたいなら、変わってもいいと思う。

でも、朱莉が本当は嫌なのに、嫌われないためだけに変わるなら……私は、悲しい』

言い終わると、朱莉はしばらく黙っていた。

やがて、小さく息を吐いた。

「……そっか」

『……うん』

「私、自分のことばっかり考えてたかも」

『え?』

「奏が何も言わないから、私のことなんてどうでもいいのかなって思ってた」

『……そんなわけないじゃん』

「うん。今ならわかる」

朱莉は少しだけ笑った。

「でも、奏もちゃんと言ってよ」

『……うん』

「私、奏の考えてること、全部わかるわけじゃないんだから」

『……そうだね』

「親友ではあっても、エスパーじゃないんだからさ」

その言葉に、思わず笑ってしまった。

『……なにそれ』

「ほんとだよ!」


朱莉も笑った。

さっきまでの重たい空気が、ほんの少しだけ和らいだ。

けれど、私はまだ伝えなければならないことがあった。

『……朱莉』

「ん?」

『私も、朱莉がいないと寂しい』

朱莉の笑顔が止まった。

『だから、ずっとそばにいてほしいって思ってる』

「……」

『でも、それって、私のわがままなのかもしれない』

朱莉は何も言わなかった。

『朱莉が自分の好きなように生きて、

私の知らないところで新しい友達ができたり、好きな人ができたりするのは、当たり前のことなのに』

喉の奥が熱くなった。

『……それでも、ちょっと寂しいんだよ』

ずっと、言えなかった。

朱莉が誰かを好きになるたびに。

朱莉の世界が、私の知らない誰かでいっぱいになるたびに。

私は、少しずつ置いていかれるような気がしていた。


『ごめんね。私も、朱莉に甘えてた』

「……奏、、謝らないでよ」

朱莉は首を横に振った。

「私だって、奏に甘えてたんだから」

そう言って、私の肩にこつんと自分の頭を乗せてきた。

「……じゃあさ」

『うん?』

「これからは、お互いにちゃんと言おうよ」

『……何を?』

「嫌なことも、嬉しいことも。寂しいときも」

朱莉は覗くように私に視線を向けた。

「私が変な男に引っかかりそうになったら、ちゃんと止めてね?」

『……そこ?』

「そこ大事でしょ!」

『自分で気づいてよ……』

「えー!じゃあ、気付けるように頑張る!」

あまりにも朱莉らしい返事に、私は笑った。


きっと、明日になれば朱莉はまた誰かを好きになるかもしれない。

髪を伸ばしたいと思うかもしれないし、誰かの好みに合わせて服を選ぶかもしれない。

それでもいい。

大事なのは、変わらないことじゃない。

自分がどうしたいのかを、ちゃんと自分で選べること。

そして、その選択について、誰かと話せることなのかもしれない。

「……奏」

『ん?』

「今日、話せてよかった」

『……私も』

朱莉はいつもの笑顔で立ち上がった。

「じゃ、帰ろ!」

『うん』

並んで歩き出す。


夕焼けが、校門から続く道を赤く染めていた。

その景色を見ながら、私は思った。

正解なんて、きっとひとつじゃない。

誰かのために変わることも。

自分のために変わらないことも。

どちらも、間違いだとは言い切れない。

ただ、自分の気持ちを置き去りにしないこと。

それだけは、忘れないでいたいと思った。