泉さん、それってどういう意味ですか?

 あの日以来、本の文字が上手く頭に入ってこない。図書館にいるだけの人になっている。

 ——『泉って呼んでいいから』
 ——『桃ちゃんね』

 …………え、なんで、そうなった⁈
 何回考えても分からない。……それはそうだ。
 僕は何もしていないから。コーヒーを飲みに行っただけだから。
 僕が知りたい答えは、泉さんが握っている。

 今日は、あの店に行く勇気がなかった。
 
 よく行くカフェでテイクアウトしたホットコーヒーを飲みながら、駅までの道を歩いた。
 
 賀茂大橋(かもおおはし)で立ち止まる。
 ユニークな形をした飛び石の間を縫うように流れる川を、ぼーっと眺めながら、コーヒーを一口すする。考えごとをしていたせいで冷めていた。尖った酸味が鼻を突く。
 もーう……考えるのは卒論のことだけでいいのに!
 上を向いて、コーヒーをぐっと飲む。

「美味しい?」
 聞き覚えのある声。

「……泉さん……!」
「あ、ちゃんと呼んでくれた」
 そう言って、目を細め、口角を上げる泉さん。

「……あ、はい、美味しい……嘘です。冷めちゃって、酸味が……」
「あー、そっか、残念。淹れ直してあげよっか? 時間ある?」

 断る選択肢は浮かんでいなかった。僕は泉さんのあとをついて行った。
 店に入ると、若い女性店員さんがカウンターの中にいた。
「店長、おかえりなさ……、あ、いらっしゃいませ!」
「ただいま。桃ちゃん、ちょっと座ってて」
「はい……」

 僕はいつもの席に座り、コーヒーの良い香りだけに集中するように、軽く目を閉じていた。

 何分ぐらい経っただろう。
 机にマグカップが置かれる音で、慌てて目を開けた。

 目の前には、視界いっぱいの泉さん。
 腰をかがめているせいで、顔と顔の距離が近い。

 驚いて、少し後ろに座り直すと、
「びっくりさせてごめんね。できたよ」
 と、マグカップを指差す。

「……いただきます」
 一口飲むと、前回とは違う味だとすぐに分かった。
 味というか、まず香りが違うんだ。
 華やかな香り……お花かな? 飲んでみると、はちみつみたいな甘さが広がった。

 ……また、今の気分にぴったりだった。
 僕の焦りを許してくれるような、そんなコーヒーだった。

「どう?」
 そう聞く泉さんは、もう僕の答えを分かっているような、自信を含んだ笑みを浮かべていた。

「……美味しいです。また……今の気分に合ってる」
「やっぱり」
「……なんで分かるんですか?」
「顔、見れば分かるよ」

 ……どういうこと?
 お客さんの顔を見たら、どんな気分か分かっちゃうってこと? エスパー?
 ……もう、今日は考えるのやめよう。
 そこからは、この美味しいコーヒーをじっくり味わうことに集中した。
 飲み終わる頃には、さっきまでのどうしようもない焦りはすっかり消えていた。

「あ、お会計お願いします」
「え、いいよ。俺が淹れたかっただけだから」
「そんなの! 申し訳ないです」
「いいって。じゃあ、一個だけお願い聞いてよ」
「あ、はい。僕にできることなら……」

「……あんま、俺以外が淹れたコーヒー飲まないで」

 ……え? なんで??
 お代をタダにしてもらった手前、断りづらいというのもあるけど、何より泉さんの圧がすごくて、承諾するしかなかった。