君を、君だと知らなかった

 しばらく歩いていると、古い建物の前に小さな看板が見えてきた。
 「……図書館?」
 「そう。町の図書館」
 「こんなところにあったんだ」
 「昔からあるぞ」
 「へえ」
 建物を見上げる。
 雨に濡れた窓の向こうには、本棚が並んでいるのが見えた。
 「雨も止みそうにないし、入ってみる?」
 「うん」
 朔が傘を閉じる。
 入口の脇にある傘立てへ傘を入れる。
 中に入ると、外の雨音が少し遠くなった。
 静かな館内には、本棚がいくつも並んでいる。
 木の床を踏む足音と、ときどき聞こえてくるページをめくる音だけが響いていた。
 「……落ち着くね」
 「そうだな」
 新刊の棚を眺めながら、私は何冊か手に取っては表紙を確認していた。
 タイトルの文字や装丁、帯のデザイン。
 仕事柄なのか、どうしてもそういうところに目がいってしまう。
 「やっぱりこういうの気になる?」
 隣から朔が小さな声で聞いてくる。
 「うん。職業病かも」
 「休みの日まで仕事してるみたいだな」
 「そう言われると嫌だなぁ」
 そう言いながらも、また一冊手に取ってしまう。
 「……でも、こういうの見るの好きなんだよね」
 「じゃあ仕事も楽しい?」
 「うん。大変だけど、好きだよ」
 そう答えて、本を棚に戻す。
 朔はそれ以上何も言わず、隣の本棚へ歩いていった。
 私も別の棚へ目を向ける。
 図書館の中は静かだった。
 雨の音が窓の向こうからかすかに聞こえてくる。
 ページをめくる音や、遠くで椅子を引く音が、静かな館内に小さく響いていた。
 しばらくして、朔が一冊の本を手に戻ってきた。
 「これ、読んだことある?」
 「ん?」
 表紙を見る。
 「ああ、知ってる。結構前の本だよ」
 「面白い?」
 「私は好きだったよ」
 「じゃあ読んでみようかな」
 「珍しい。朔が本読むなんて」
 「だから読むって言ってるだろ」
 「はいはい」
 思わず笑う。
 声を抑えるように口元に手を当てると、朔も小さく笑った。
 そのあと、私たちはしばらく別々に本を眺めていた。
 話していなくても、なぜか気まずくない。
 雨の日の図書館は、時間の流れまで少し遅くなったように感じた。
 私は本棚の間をゆっくり歩きながら、どんな本があるのか眺めていた。
 小説、エッセイ、旅行の本。
 普段なら手に取らないような本まで、なんとなく目を通していく。
 そんなとき、ひとつの棚に目が止まった。
 本ではなく、写真集や町の資料が並べられている棚だった。
 「夕凪町の昔の写真?」
 背表紙を見て、私は一冊取り出した。
 ページを開くと、昔の町の写真が並んでいる。
 今よりも少し古い商店街。
 昔の駅。
 海沿いに並ぶ家々。
 「懐かしい?」
 いつの間にか傍に来ていた朔が、隣から覗き込む。
 「……うん。でも、覚えてるわけじゃない」
 ページをめくる。
 そこには、今とは少し形の違う灯台が写っていた。
 「これ、昔の灯台?」
 「そう。俺たちが子どもの頃は、まだこの形だったな」
 「へえ……」
 さらにページをめくる。
 古い海の写真。
 その写真だけ、なぜか目が止まった。
 「……この写真、好き」
 「どこが?」
 「分からない。でも……なんとなく」
 自分でも説明できなかった。
 ただの古い海の写真なのに、視線を外せない。
 「昔の海だからじゃない?」
 「そうなのかな」
 「今より何もなかった頃の海だし」
 朔は写真を覗き込みながら、少しだけ笑った。
 「この辺、昔はもっと静かだったんだぞ」
 「今も十分静かだと思うけど」
 「今は観光客も増えたからな」
 「そうなんだ」
 私はもう一度、写真に目を落とした。
 写っているのは、今と変わらない海。
 なのに、どこか違って見える。
 「……不思議」
 「何が?」
 「この写真を見てると、昔ここにいたような気がする」
 「いたじゃん」
 あまりにもあっさり言われて、私は一瞬言葉に詰まった。
 「……いや、そうじゃなくて」
 「ん?」
 「なんていうか……」
 言葉を探す。
 ここに住んでいたことは覚えている。
 この町で子ども時代を過ごしたことだって、ちゃんと分かっている。
 それなのに、この写真を見ていると感じるものは、それとは少し違っていた。
 もっと近くて。
 もっと昔で。
 何かを思い出せそうなのに、その何かだけが霧の向こうに隠れているような。
 「……うまく言えない」
 「そっか」
 朔はしばらく写真を見つめていた。
 何か言おうとして、やめる。
 それから少しだけ考えるように、口を開いた。
 「……昔の茜が、ちゃんとここにいたってことじゃない?」
 「……昔の私?」
 「うん」
 朔は小さく頷く。
 「俺たちと一緒に」
 その言葉だけが、妙に耳に残った。
 「……俺たち?」
 聞き返すと、朔は少しだけ目を伏せた。
 けれど、それ以上は何も言わない。
 「……何でもない」
 「またそれ?」
 思わず笑ってしまう。
 「朔、さっきからそればっかり」
 「そうか?」
 「そうだよ」
 小さく笑い合う。
 けれど、私はもう一度写真に目を落とした。
 海の向こうに、何かがあるような気がする。
 思い出せそうなのに、思い出せない。
 「……誰と見たんだろう」
 自分でも聞こえないくらいの声で呟いた。
 「え?」
 「ううん。何でもない」
 私は写真集を閉じた。
 そのとき、少し離れたところから本が落ちる音がした。
 「びっくりした……」
 顔を上げると、司書の人が落ちた本を拾っているところだった。
 その様子を見ているうちに、さっきまで胸に残っていた感覚が、少しずつ薄れていった。
 「そろそろ行く?」
 「うん」
 朔が写真集を棚に戻す。
 私も最後にもう一度だけ、その表紙を見た。
 なぜ気になったのかは、やっぱり分からなかった。
 ただ、その写真だけが妙に頭に残っていた。


 図書館を出ると、雨は少しだけ弱くなっていた。
 朔が先に傘を開く。
 私も自分の傘を開こうとしたけれど、朔が何も言わずに傘を少しこちらへ寄せる。
 さっきと同じように、自然とその中へ入った。
 二人で並んで歩き始める。
 「……そういえば、昔の私ってどんな子だった?」
 「なんで急に」
 「いや。昔の私がちゃんとここにいたって言われたから、ちょっと気になって」
 朔は少しだけ前を向いたまま歩いた。
 何かを考えているようにも見えたけれど、やがて小さく息を吐く。
 「変なこと気にするんだな」
 「変って……! 朔が意味深なこと言うからでしょ」
 「そうだっけ」
 「そうだよ」
 朔は軽く笑って、傘を持つ手を少しだけ持ち直した。
 「別に、今とそんなに変わらないよ」
 「そうなの?」
 「今みたいに、気になったことは納得するまで聞くところとか」
 「……それ、褒めてる?」
 「たぶん」
 「たぶんなんだ」
 私が笑うと、朔もつられるように笑った。
 「あとはそうだな……よく笑ってた」
 「私が?」
 「うん」
 「どんなとき?」
 「俺が熱いもの食べてるときとか」
 「……なんで?」
 「俺が冷ましてるのが面白かったんじゃない?」
 「ひどいな、昔の私」
 「今も変わらないだろ」
 「えー?」
 笑いながら、私は傘の柄を持ち直す。
 「……でも、海で会ったときは色々変わったって言ってたじゃん」
 「言った」
 「じゃあ、どっちなの?」
 「変わったところもあるし、変わってないところもある」
 「ずるい答え」
 「そう?」
 「そうだよ」
 朔が小さく笑う。
 「そういうどうでもいいことは、よく覚えてるんだな」
 「どうでもいいこと?」
 「猫舌とか」
 「まだ言う?」
 「事実じゃん」
 「そんなことは覚えてるのに?」
 「……うん」
 少しだけ間があった。
 朔は前を向いたまま、静かに続ける。
 「大事なことは、忘れてるのにな」
 「……え?」
 その言葉に、私は朔を見る。
 けれど朔は、少しだけ困ったように笑った。
 「……何でもない」
 「今日の朔、なんか変」
 「そう?」
 「うん。さっきから何でもないばっかり」
 「……そうかもな」
 それだけ言って、朔は前を向いた。
 私はその横顔を見ながら、少しだけ考える。
 何を言いかけたんだろう。
 けれど、聞き返す気にはならなかった。
 雨はまだ降っている。
 二人の傘に当たる音を聞きながら、私たちはゆっくりと町の中を歩いていった。