君を、君だと知らなかった

 目を覚ますと、雨の音が聞こえていた。
 しばらく布団の中で、その音をぼんやりと聞いていた。
 昨日まで聞こえていた蝉の声は、今日はどこか遠い。
 代わりに、屋根を叩く雨の音が一定のリズムで部屋の中まで響いている。
 カーテンの隙間から外を見ると、町全体が薄い灰色の空に包まれていた。
 「……雨か」
 昨日はあんなに晴れていたのに。
 たった一晩で、町の雰囲気まで変わってしまったような気がする。
 窓を少し開けてみると、湿った空気が部屋の中に入り込んできた。
 雨の匂いがする。
 「今日は、どうしようかな」
 昨日は朝から朔と町を歩いて、駄菓子屋に寄って、カフェに行って、それから海を見た。
 思い返してみると、ずいぶん歩いた気がする。
 それなのに、不思議と疲れてはいなかった。
 むしろ、今日もどこかへ行きたいと思っている自分がいた。
 雨だから、昨日みたいには歩けないだろう。
 そう思いながらも、せっかくここまで来たのだから、一日中部屋にいるのももったいない。
 しばらく窓の外を眺めてから、私は布団の中でゆっくり伸びをした。
 もう一度だけ雨音に耳を澄ませて、それからようやく起き上がる。
 洗面所で顔を洗い、朝食を済ませる。
 部屋に戻ってから、着替える服を選び、鏡の前で髪を整えた。
 外へ出るなら傘が必要だ。
 そう思って荷物をまとめ、最後に折りたたみ傘をバッグに入れたところで、ふと足を止める。
 今日も朔と会うのだろうか。
 昨日も、その前も、特に約束なんてしていない。
 それなのに、なぜか会うような気がしていた。
 自分でも少しおかしいと思って、ひとりで小さく笑う。
 「……行ってみよう」
 誰に言うでもなく呟いて、私は部屋を出た。
 階段を下りる。
 廊下の窓から外を見ると、雨はまだ降り続いていた。


 玄関まで来て、靴を履く。
 傘を手に取ったところで、軒下の少し先に見覚えのある人影が見えた。
 「……朔?」
 「おはよう」
 朔がこちらを見る。
 「いつからいたの?」
 「さっき来たところ」
 そう言う朔の肩は少し濡れていた。
 上を見ると、軒先から落ちた雨水が、朔の肩にぽたぽたと落ちている。
 さっき来たって……本当はもっと前にいたんじゃないの?
 私が何も言わずに見つめていると、朔は少し困ったように笑った。
 「……ちょっと嘘ついた。少し前に来て待ってた」
 「雨なのに?」
 「まあ、ちょっとくらいなら」
 「連絡してくれればよかったじゃん」
 そう言ってから、私は言葉を止めた。
 「……あ」
 「ん?」
 「そういえば、朔の連絡先知らないんだった」
 朔が少し呆れたように笑う。
 「今さら気づいたのかよ」
 「だって、十年前は知ってた気がするから」
 「たぶん、知ってたな」
 「でも、スマホ壊れちゃって」
 「じゃあ、今度は消えないようにしとくか」
 「……今度は?」
 「また壊れたら困るだろ」
 そう言って、朔がスマホを取り出す。
 「せっかくだから交換する?」
 「せっかくだからって……」
 「再会記念に」
 そう言って、朔は少し笑った。
 たったそれだけのことなのに、妙に新鮮だった。
 十年前には、きっと当たり前のように知っていた連絡先。
 それを今、もう一度登録しようとしている。
 「……じゃあ、お願い」
 スマホを差し出すと、朔も自分のスマホを取り出した。
 「電話番号でいい?」
 「うん」
 名前を入力する。
 画面に表示された「朔」の文字を見て、指が少しだけ止まった。
 たった一文字なのに、なんとなく見慣れない気がした。
 「これで大丈夫」
 「よし」
 朔はスマホをしまうと、軒下から外を見た。
 「で、今日はどうする?」
 「うーん……」
 私は外を見る。
 雨はまだ降っているけれど、さっきより少し弱くなっている。
 「雨だし、あんまり遠くには行けないね」
 「そうだな」
 「昨日みたいに海は無理かな」
 「さすがに今日は濡れるな」
 「じゃあ、近くを歩きながら考える?」
 「それならいいんじゃない?」
 「うん」
 朔が傘を開いた。
 「じゃあ、行こうか」
 「うん」
 朔が先に軒下から出る。
 私はその後を追おうとしたけれど、朔が足を止めて振り返った。
 「茜」
 「ん?」
 朔が傘を少しこちらへ寄せる。
 「こっち来いよ」
 「……え?」
 「濡れるだろ」
 「でも、私も傘あるよ」
 バッグに入れた折りたたみ傘に手を伸ばしかける。
 すると朔が、少しだけ笑った。
 「いいじゃん。一緒に入れば」
 「でも……」
 「ほら」
 そう言って、朔が傘をこちらへ傾ける。
 私は少し迷ってから、朔の傘の中へ入った。
 二人分には少し大きめの傘だったけれど、並んで歩くにはちょうどいいくらいだった。
 肩が触れそうなくらい近い。
 「……なんか、久しぶりだね」
 「何が?」
 「こうやって一緒の傘に入るの」
 そう口にした瞬間、胸の奥で何かが小さく揺れた。
 初めてじゃない。
 そんな気がした。
 けれど、いつのことだったのかは思い出せない。
 「……昔も、こうしてた?」
 何気なく聞くと、朔は一瞬だけ黙った。
 「……あったかもな」
 それだけ言って、朔は前を向いた。
 私はそれ以上聞かなかった。
 しばらく歩いていると、雨が少しずつ強くなってきた。
 「……さっきより降ってない?」
 「そうだな」
 傘を打つ雨音が大きくなる。
 風に煽られて、横から雨が吹き込んできた。
 朔が傘を少しこちらへ寄せる。
 「茜、もう少しこっち」
 「え?」
 「そっち濡れてる」
 私は少しだけ朔の方へ近づいた。
 二人の肩が、さっきより近くなる。
 雨音が、少し遠くなった。
 その音を聞きながら、私はぼんやりと考えていた。
 誰と一緒にいたのだろう。
 朔とだったのか。
 それとも――。
 そこまで考えたところで、前から子どもの声が聞こえてきた。
 「今日、お父さん帰ってくるの?」
 「ええ。今日の夕方には帰ってくるって」
 「じゃあ、港まで迎えに行く?」
 「そうね。一緒に行こうか」
 母親らしい女性の声に、子どもが嬉しそうに答える。
 「やった!」
 そのまま二人は、私たちの横を通り過ぎていった。
 「……みなと」
 自分でも気づかないうちに、口から言葉がこぼれていた。
 「ん?」
 朔がこちらを見る。
 「……何でもない」
 なぜ、そんな言葉が出てきたのだろう。
 港。
 この町に住んでいれば、何度も耳にする言葉だ。
 別に珍しい言葉でもない。
 それなのに。
 「みなと」
 もう一度、その響きを確かめるように心の中で呟いてみる。
 どこかで聞いたことがあるような。
 ずっと昔から知っているような。
 けれど、それが何なのかは分からない。
 「茜?」
 「……ごめん。ちょっとぼーっとしてた」
 「疲れた?」
 「ううん。大丈夫」
 朔は何か言いたそうにこちらを見たけれど、それ以上は聞かなかった。
 再び歩き始める。
 傘に落ちる雨の音だけが、二人の間に続いていた。
 さっき聞いたばかりの言葉が、なぜか頭の中に残っている。
 意味なんて、何もないはずなのに。
 それでも、その響きだけが妙に引っかかっていた。
 私はもう一度だけ、その言葉を心の中でなぞる。
 「……みなと」
 雨の向こうへ溶けていくように、その音は静かに消えていった。