君を、君だと知らなかった

 「この後どうする?」
 「どうしよう」
 「特に行きたいところない?」
 「うーん……」
 行き先を決めないまま、商店街の外れを歩いていく。
 しばらくすると、見覚えのある道が目に入った。
 「……あれ?」
 道の先には、昨日も見た海があった。
 「また海?」
 「別に。たまたまこっちに来ただけ」
 「ふーん」
 朔はそう言いながら、海の方へ歩いていく。
 砂浜には、海から上がってきた子どもたちや、日陰で話している家族の姿があった。
 少し離れたところでは、犬を連れて歩いている人もいる。
 昨日とは違う海だった。
 「なんか、昨日より明るい」
 「時間が違うからな」
 「そうだけど」
 私は海を眺めながら、ゆっくり息を吐いた。
 潮の匂い。
 波の音。
 照りつける太陽。
 昨日も同じものを感じたはずなのに、今日は少しだけ違って感じる。
 「茜」
 朔に呼ばれて振り返る。
 「何?」
 「暑いなら、あっちの日陰行くか」
 「うん」
 私たちは砂浜から少し離れたベンチに腰を下ろした。
 「いつ見てもこの海は綺麗だよな」
 「そうだね」
 「俺、この海好きだな」
 「……知ってる」
 昨日、女将さんが話していたことを思い出す。
 「よくここに来てるの?」
 「まあな。仕事が終わった後とか、休日の何もない日とか」
 「昨日も?」
 「うん。仕事帰り。そしたら茜を見つけた」
 昨日、海にいたとき。
 まさかあの場所で、朔も同じ海を見ていたなんて思わなかった。
 「茜は? 昨日どうして海にいたんだ?」
 「特に理由はないよ。ただ……窓から海が見えたから」
 「何だ、その理由」
 そう言いながら、朔は小さく笑った。
 今日の朔は、よく笑う。
 昔から、こんなに笑う人だったのかな。
 「……あ」
 私は海を眺めたまま、ふと思い出したように口を開く。
 「この辺で写真撮ってる人、最近見た?」
 「写真?」
 「うん。海とか町とか撮ってる人」
 朔が少しだけ考える。
 「……どうだろうな」
 「知らない?」
 「最近は、あんまり気にして見てないから」
 「そっか」
 朔はそれ以上何も言わず、海へ視線を戻した。
 私も何となく、そのまま海を見る。
 「朔って昔から写真撮ってたっけ?」
 「なんで急に?」
 「いや、よく写真撮ってた人がいたなぁって思って」
 「……俺はそんなに」
 「私の勘違いなのかなぁ」
 「かもね」
 かもねって……。
 相変わらず適当な返事だな。
 「ねえ、じゃあ昔の海ってどんな感じだった?」
 「昔の海?」
 「うん。今と変わらない?」
 「まあ、海は海だろ」
 「そうだけど」
 朔が少し笑う。
 「質問多いな」
 「だって、気になることたくさんあるんだもん」
 「そんなに?」
 「うん」
 少し考えてから、私はまた海を見る。
 「私たちって、昔ここによく来てた?」
 「まあな。夏になると結構来てたと思う」
 「何してたの?」
 「泳いだり、砂浜で遊んだり……いろいろ」
 「そっか」
 その言葉を聞いても、具体的な光景は浮かばなかった。
 それでも、どこかで同じ海を見ていたような気がする。
 それがとこで見た海なのか、いつ見た海なのか思い出せないことが、少し悲しかった。
 しばらく、何も話さなかった。
 目の前では、子どもたちが波打ち際ではしゃいでいる。
 時間が経つにつれて、少しずつ人が減っていく。
 さっきまで聞こえていた子どもたちの声も、いつの間にか遠くなっていた。
 空が少しずつ、夕方の色に変わっていく。
 「……きれい」
 思わず呟いた。
 海に夕焼けが映っている。
 昨日も見たはずなのに、今日は隣に朔がいる。
 それだけのことが、少し不思議だった。
 「昨日は少し曇ってたからな」
 「そうだね」
 朔はしばらく海を眺めていた。
 「……茜の色だな」
 「え……?」
 「どうした?」
 「いや……なんでもない」
 この人は、無自覚でこんなことを言っているのだろうか。
 でも確かに、この夕日は茜色。
 私の名前と同じだった。
 「この夕日も好きだけどさ、私はピンク色の夕日がもっと好きだな」
 「ピンク色?」
 「うん。日が沈む前後の、ほんの短い時間。空が少しだけピンクになるの」
 「マジックアワーだっけ?」
 「そう、それ」
 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に何かが引っかかった。
 ピンク色の空。
 海の向こうに沈んでいく太陽。
 誰かと並んで見ていたような気がする。
 「……昔、ここで見た気がする」
 「そうかもな」
 「朔は最近見た?」
 「最近は見てないな」
 「そっか……」
 私はもう一度、海の向こうを見る。
 その光景を思い浮かべようとすると、胸の奥が少しだけ苦しくなった。
 誰と見たのか。
 何を話していたのか。
 思い出せそうなのに、そこだけがぼんやりしている。
 「……約束、したのに」
 「何か言ったか?」
 「えっ……! なんでもない!」
 思わず口から出た言葉に、自分で驚く。
 約束?
 私は何を約束したの?
 誰と約束したの?
 考えようとすると、頭の奥に薄い霧がかかったようになる。
 何かがそこにある。
 けれど、手を伸ばしても届かない。
 「……疲れたのかな」
 自分に言い聞かせるように呟いた。
 今日は朝から歩き回った。
 きっとそのせいだ。
 そう思えば、それ以上考える必要はなかった。
 「そろそろ戻るか」
 「……うん」
 朔が立ち上がる。
 私もベンチから立ち上がった。
 しばらく歩いてから、ふと振り返る。
 夕焼けに染まった海は、昨日と同じように静かだった。
 なのに、今日はどこか懐かしく感じた。
 「茜、置いてくぞ」
 「待ってよ」
 慌てて朔の後を追う。
 帰り道は、行きよりも少し静かだった。


 商店街を抜ける頃には、店先の明かりがぽつぽつと灯り始めていた。
 「今日は結構歩いたな」
 「うん。疲れた」
 「明日はどうする?」
 「まだ決めてない」
 「じゃあ、明日考えればいい」
 「そうだね」
 そんな話をしながら、宿までの道を歩いた。
 部屋に戻ると、着替えて簡単に身支度を済ませた。
 ベッドに入って、布団を引き寄せる。
 今日はよく歩いた。
 目を閉じれば、すぐに眠れそうだった。
 それなのに、頭の中には夕方の海が浮かんでいた。
 「……約束、したのに」
 その言葉だけが、なぜか頭から離れなかった。