店の前まで来たところで、ふと足が止まる。
自分でも、どうして立ち止まったのか分からない。
ただ、入口の向こうを見つめていた。
「入らないの?」
「……入る」
そう答えて、私は一度だけ店の中を覗き込んだ。
何かを確かめるように、ゆっくりと足を踏み入れる。
店の中に入ると、甘い匂いがした。
駄菓子の匂いなのか、古い木の匂いなのか分からない。
けれど、その匂いを嗅いだ瞬間、ふっと懐かしい気持ちになった。
「あ……」
思わず声が漏れる。
この匂い、知っている。
そんな気がした。
「何か買う?」
「まずは見て回ろうかな」
そう言って、ゆっくりと商品棚を見て回る。
色とりどりのお菓子を眺めていると、なんだか楽しくなってくる。
普段ならこんなものを買うこともないのに、今日はどれにしようかと真剣に悩んでいた。
「あ、これ……」
ふと目に入ったお菓子に手を伸ばす。
「あら、それ好きだったわねぇ」
「そうなんですか?」
声の方を見ると、店の奥からおばあちゃんがこちらを見ていた。
「えぇ……」
おばあちゃんは私の顔をじっと見つめる。
「……もしかして、茜ちゃん?」
「はい」
「やっぱり! まあ、大きくなったわねぇ」
嬉しそうに笑うおばあちゃんを見て、私は少し戸惑った。
「……すみません。私、おばあちゃんのこと……」
「あら、いいのよ。十年も経ってるもの」
そう言って、おばあちゃんは笑った。
「でも、顔を見たらすぐ分かったわ」
「そうなんですか?」
「ええ。昔と同じところがあるもの」
同じところって、どこだろう。
昨日、朔にも「変わった」と言われた。
でも、町の人には昔と同じだと言われる。
自分の何が変わって、何が変わっていないのか。
私にはまだよく分からなかった。
「そういえば……」
おばあちゃんは私の手元にあるお菓子を見る。
「朔くんは、こっちだったかしら?」
棚を指差す。
「ああ、これ。まだあったんだな」
朔が懐かしそうにお菓子を手に取った。
「よく覚えてましたね」
「あんたたちとは長い付き合いだったからね」
そう言われて、私はもう一度、手の中のお菓子を見る。
自分では覚えていないのに、誰かが覚えていてくれている。
それが、なんだか少し不思議だった。
「もう一人の子は、いつも何を買おうか迷ってたわね」
「……ああ」
朔が小さく笑う。
「その子ったら不思議な子でね。そんなに悩むなら全部買えば? って茜ちゃんが言っても、今日は一つだけって決めてる! って言って聞かなかったのよ。変なところで頑固だったのね」
おばあちゃんは楽しそうに笑った。
私もなんとなく笑う。
それなのに、「もう一人」という言葉だけが、なぜか耳に残った。
「これ、買う?」
朔に声をかけられて、私は手元のお菓子を見る。
「……うん。せっかくだし」
お菓子を手に取って、レジへ向かう。
「じゃあ、これください」
「はいはい」
おばあちゃんが笑いながら袋に入れてくれる。
「またいつでも寄ってちょうだいね」
「はい。ありがとうございました」
店を出ると、外の空気が少しだけ暑く感じられた。
「……暑い」
「今さら?」
「店の中が涼しかったから」
「じゃあ、もう少し歩く?」
「うん」
そう答えて、私たちはまた商店街を歩き始めた。
しばらく歩いていると、さっきまで店の中にいたせいか、外の暑さが少しずつ身体に戻ってくる。
手の中のお菓子の袋が、歩くたびに小さく揺れた。
「……不思議」
「何が?」
「この町のこと、知ってる気がするのに、知らないことばっかり」
さっきまで見ていた商店街を振り返る。
「お店のことも、昔の私のことも、みんな知ってるのに」
「十年も離れてたんだから、そんなもんだろ」
「そっか」
朔の言葉に、なぜか納得してしまう。
「この町で、私ってどんなふうに過ごしてたんだろう」
「それは、これから少しずつ思い出せばいいんじゃないか」
「……うん」
そう答えたものの、さっきのおばあちゃんの言葉が頭から離れなかった。
もう一人。
あの言い方は、私たちのことを三人として知っている人の言葉だった。
「そういえば」
私は朔を見る。
「さっきのおばあちゃん、『もう一人』って言ってたよね?」
「……うん」
「もう一人って、誰のこと?」
何気なく聞いたつもりだった。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、朔の足が止まった。
「……?」
私も足を止める。
朔は何かを考えるように、少しだけ目を伏せた。
「……別に、覚えてないならいい」
「なんでよ。教えてくれてもいいじゃん」
「そのうち思い出すよ」
「……私が?」
「うん」
朔はそれだけ言って、また歩き始めた。
「……そうかな」
私もその後を追う。
商店街のざわめきの中で、さっきの言葉だけが、なぜか耳の奥に残っていた。
もう一人。
私と朔のほかに、もう一人。
その名前は、まだ思い出せなかった。
しばらく歩いていると、朝食を食べたばかりなのに、少しお腹が空いてきた。
商店街を歩きながら、さっき食べたアジの塩焼きを思い出す。
あれだけ食べたのに、もうお昼のことを考えている自分がおかしくて、思わず小さく笑った。
「ねえ、朔」
「ん?」
「お昼、何食べる?」
「もう昼の話?」
「だって、お腹空いた」
「早いな」
「歩いてるから」
「そんな理由ある?」
「あるよ」
朔が小さく笑う。
「じゃあ、何か食べに行くか」
「うん」
「何食べたい?」
「なんでもいい」
「それ一番困る」
「じゃあ歩きながら考える?」
「それもそうだな」
商店街を抜けても、私たちは特に行き先を決めないまま歩いていた。
昨日なら、海へ行くという目的があった。
今日はそれもない。
それなのに、不思議と足取りは軽かった。
どこへ行くのかも決まっていないのに、こうして誰かと歩いていることが妙に楽しい。
「あれ、こんなお店あったっけ?」
少し先に、小さな店が見えた。
古い商店が並ぶ通りの中で、そこだけ少し雰囲気が違う。
「いや、初めて見るな」
「朔でも知らない店あるんだ」
「俺を何だと思ってるんだよ」
「この町が大好きなお兄さん」
「何だよそれ」
朔が笑う。
その笑い方が、昨日より少しだけ自然に見えた。
店の前まで行くと、ガラス越しに店内が見えた。
木のテーブルと椅子が並んでいて、窓際には小さな観葉植物が置かれている。
外から見ても、どこか落ち着いた雰囲気の店だった。
「入ってみる?」
「うん」
扉を開けると、小さなベルが鳴った。
外の蝉の声が、一瞬だけ遠くなる。
店内には静かな音楽が流れていて、窓から差し込む夏の光が床に細長く落ちていた。
「いらっしゃいませ」
店員さんに声をかけられ、私たちは少しだけ顔を見合わせる。
「……こういう店、初めてだな」
「私も」
「空いてるところ、座っていいのかな」
「たぶん」
「たぶんって」
「俺も初めてだから」
思わず笑ってしまう。
店員さんに案内された席に座ると、私はメニューを開いた。
ページをめくるたびに、料理の写真が目に入る。
パスタ、カレー、サンドイッチ。
どれも美味しそうで、さっきまで「なんでもいい」と言っていたのに、いざ選ぶとなると迷ってしまう。
「……どれにしよう」
「茜、これは?」
そう言って朔が指を差したのは、一ページ目に大きく写真が載っているナポリタンだった。
写真の下には「おすすめ」と書かれている。
「好きだったろ。ナポリタン」
「よく覚えてたね」
「いつも同じものばっか頼んでたからな」
メニューから顔を上げて、朔を見る。
そんな昔のことまで覚えているんだ。
ほんの少し感心して、私はまた写真に目を落とした。
「じゃあ朔はキーマカレーかな。好きだったでしょ?」
「……」
なぜか一瞬、朔が黙った。
「朔?」
「……あ、うん。俺も好きだよ」
「俺も?」
その言葉に少し引っかかったけれど、朔は何でもないようにメニューを見ている。
深い意味はないのかもしれない。
「じゃあ、これにしようかな」
ナポリタンの写真を指でなぞる。
その横に載っていたメニューが目に入り、私は思わず声を上げた。
「あとは……あ! クリームソーダ!」
その言葉を聞いて、朔が笑い出す。
「やっぱり頼むと思った。好きなものは昔から変わらないんだな」
「そんなに好きだった?」
「かなり」
「……全然覚えてない」
「でも、今も頼むんだから好きなんだろ」
「それもそうか」
メニューを閉じようとしたところで、店員さんがやってきた。
「ご注文はお決まりですか?」
「私はナポリタンとクリームソーダで」
「俺はキーマカレー。あと、アイスコーヒーをお願いします」
「かしこまりました」
店員さんがメニューを下げていく。
「楽しみだな」
「そんなに?」
「だって、朝ご飯食べたけどお腹空いてるから」
「さっき聞いた」
「大事なことだから」
朔がまた小さく笑う。
「ていうか朔、コーヒー飲めたんだ」
「失礼だな。俺ももう大人だぞ」
「ごめんごめん」
昔の朔は、苦いものが苦手だった気がする。
コーヒーを飲んでいる姿が、なんとなく新鮮だった。
十年もあれば、こういう小さなことだって変わる。
そんなことを考えながら、私は窓の外へ目を向けた。
店の前を自転車が通り過ぎる。
その向こうでは、蝉が変わらず鳴いていた。
しばらくすると、注文した料理が運ばれてきた。
「お待たせしました。ナポリタンとキーマカレー、クリームソーダ、それからアイスコーヒーです」
目の前に料理が並べられる。
「わぁ……」
思わず声が漏れた。
ナポリタンからは、トマトソースの香りと湯気がふわりと立ち上っている。
その隣には、鮮やかな緑色のクリームソーダ。
大きなグラスの上に、白いアイスがちょこんと乗っていた。
見ているだけで、少し気分が上がる。
「いただきます」
「いただきます」
私はフォークを手に取った。
一口食べる。
「どう?」
「おいしい」
「ナポリタン好きだったもんな」
「うん……」
もう一口食べる。
「なんか、懐かしいかも」
「クリームソーダも飲んでみなよ」
朔の言葉に頷いて、グラスに手を伸ばす。
ストローから一口飲むと、冷たい甘さが口の中に広がった。
「……おいしい」
「だろ?」
「朔が作ったわけじゃないでしょ」
「そうだけど」
「なんで得意げなの」
「昔から好きだったから」
「それ、朔が得意げになる理由?」
「なるだろ」
「ならないよ」
二人で小さく笑う。
私はもう一口クリームソーダを飲んだ。
ふと顔を上げると、朔がこちらを見ていた。
「……何見てるのよ」
「いや、美味しそうに食べるなと思って」
「何言ってるのよ。私のことはいいから、朔も早く食べたら? 冷めちゃうでしょ」
照れ隠しに、少し強い口調になってしまう。
「はいはい」
そう言いながら、朔はカレーをすくう。
一度ふうふうと息を吹きかけてから、口に運んだ。
その仕草を見て、ふと思う。
そういえば、朔は猫舌だった。
「……やっぱり」
「何が?」
「昔も、そうやって冷ましてた気がする」
「そうだっけ?」
「うん。なんとなく覚えてる」
全部忘れてしまったわけじゃないのかもしれない。
こういう何気ない仕草だけは、ちゃんと残っている。
「昔から変わってないね」
朔は少しだけ笑った。
私はその顔を見ながら、昔の朔を思い浮かべようとする。
けれど、浮かんでくるのは断片ばかりだった。
「……でも、朔はずっとこの町にいたんだよね」
「うん」
「じゃあ、私が知らない十年も、ここで過ごしてたんだ」
「まあな」
朔はそう言って、アイスコーヒーを一口飲んだ。
「茜は?」
「え?」
「東京では、どんなふうに過ごしてた?」
「……普通だよ」
そう答えてから、少し考える。
「仕事して、帰ってきて。また仕事して……って感じ」
「そんなに?」
「まあね」
私は苦笑する。
「でも、最近はプロジェクトのリーダーを任せてもらうことも増えてきたし、それなりに順調かな」
「へえ」
「大変だけど、嫌いじゃないよ」
「そっか」
朔はそれ以上は聞かず、カレーを口に運ぶ。
私はそんな朔を見ながら、ふと思う。
昔は、こんなふうにお互いの今の話をすることなんてなかった。
三人でいた頃は、今日何をするかとか、どこへ行くかとか。
そんなことばかり話していた気がする。
「朔は?」
「俺?」
「うん。ずっとこの町にいたなら、今は何してるの?」
「建物の修繕とかする仕事」
「へえ」
「なんだよ、その反応」
「いや。なんか朔らしいなぁって」
「俺らしいって何だよ」
「昔から手先器用だったじゃん」
「ほら、ちゃんと覚えてるじゃん」
「そういうことだけね」
「ひどいな」
朔が笑う。
私もつられて笑った。
ナポリタンを食べながら、しばらく他愛のない話を続けた。
昔の話だったり、今の仕事の話だったり。
どちらかが話して、もう片方が相槌を打つ。
そんなやり取りをしているうちに、いつの間にか肩の力が抜けていた。
窓の外では、相変わらず蝉が鳴いている。
店内には食器の触れ合う音と、小さな音楽。
特別なことなんて何もない。
それなのに、こうして誰かと昼食を食べている時間が、妙に心地よかった。
「そういえば」
朔がカレーを食べながら、ふと思い出したように口を開く。
「茜って、昔から忙しかったっけ?」
「昔?」
「うん。なんか、いつも何かしてた気がする」
「そうかな」
「学校帰りも寄り道してたし」
「それは忙しいとは違うでしょ」
「まあ、そうだけど」
朔が少し笑う。
「でも、今もそんな感じなのかなって」
「今は……」
私は少し考える。
「昔よりは、ずっと余裕ないかも」
「そうなんだ」
「仕事のこと考えてる時間が多いし。休みの日も、気づいたら仕事のこと考えてる」
「それ、休みじゃないだろ」
「そうなんだけどね」
苦笑する。
「でも、東京にいると、そういうのが普通になっちゃうんだよ」
朔は少し黙ってから、アイスコーヒーを一口飲んだ。
「……茜らしいな」
「何それ」
「なんとなく」
「よく分かんない」
「俺も分かってない」
「何それ」
また二人で笑った。
しばらくして、目の前の皿はすっかり空になっていた。
「……そろそろ出る?」
「うん」
会計を済ませ、私たちは店を出た。
扉を開けた瞬間、外の暑さが戻ってくる。
「……暑い」
「店の中、涼しかったからな」
「もう一回入る?」
「入らないよ」
「なんで?」
「もう食べ終わっただろ」
「そっか」
思わず笑ってしまう。
朔も笑った。
そのまま私たちは、また商店街の先へ向かって歩き始めた。
自分でも、どうして立ち止まったのか分からない。
ただ、入口の向こうを見つめていた。
「入らないの?」
「……入る」
そう答えて、私は一度だけ店の中を覗き込んだ。
何かを確かめるように、ゆっくりと足を踏み入れる。
店の中に入ると、甘い匂いがした。
駄菓子の匂いなのか、古い木の匂いなのか分からない。
けれど、その匂いを嗅いだ瞬間、ふっと懐かしい気持ちになった。
「あ……」
思わず声が漏れる。
この匂い、知っている。
そんな気がした。
「何か買う?」
「まずは見て回ろうかな」
そう言って、ゆっくりと商品棚を見て回る。
色とりどりのお菓子を眺めていると、なんだか楽しくなってくる。
普段ならこんなものを買うこともないのに、今日はどれにしようかと真剣に悩んでいた。
「あ、これ……」
ふと目に入ったお菓子に手を伸ばす。
「あら、それ好きだったわねぇ」
「そうなんですか?」
声の方を見ると、店の奥からおばあちゃんがこちらを見ていた。
「えぇ……」
おばあちゃんは私の顔をじっと見つめる。
「……もしかして、茜ちゃん?」
「はい」
「やっぱり! まあ、大きくなったわねぇ」
嬉しそうに笑うおばあちゃんを見て、私は少し戸惑った。
「……すみません。私、おばあちゃんのこと……」
「あら、いいのよ。十年も経ってるもの」
そう言って、おばあちゃんは笑った。
「でも、顔を見たらすぐ分かったわ」
「そうなんですか?」
「ええ。昔と同じところがあるもの」
同じところって、どこだろう。
昨日、朔にも「変わった」と言われた。
でも、町の人には昔と同じだと言われる。
自分の何が変わって、何が変わっていないのか。
私にはまだよく分からなかった。
「そういえば……」
おばあちゃんは私の手元にあるお菓子を見る。
「朔くんは、こっちだったかしら?」
棚を指差す。
「ああ、これ。まだあったんだな」
朔が懐かしそうにお菓子を手に取った。
「よく覚えてましたね」
「あんたたちとは長い付き合いだったからね」
そう言われて、私はもう一度、手の中のお菓子を見る。
自分では覚えていないのに、誰かが覚えていてくれている。
それが、なんだか少し不思議だった。
「もう一人の子は、いつも何を買おうか迷ってたわね」
「……ああ」
朔が小さく笑う。
「その子ったら不思議な子でね。そんなに悩むなら全部買えば? って茜ちゃんが言っても、今日は一つだけって決めてる! って言って聞かなかったのよ。変なところで頑固だったのね」
おばあちゃんは楽しそうに笑った。
私もなんとなく笑う。
それなのに、「もう一人」という言葉だけが、なぜか耳に残った。
「これ、買う?」
朔に声をかけられて、私は手元のお菓子を見る。
「……うん。せっかくだし」
お菓子を手に取って、レジへ向かう。
「じゃあ、これください」
「はいはい」
おばあちゃんが笑いながら袋に入れてくれる。
「またいつでも寄ってちょうだいね」
「はい。ありがとうございました」
店を出ると、外の空気が少しだけ暑く感じられた。
「……暑い」
「今さら?」
「店の中が涼しかったから」
「じゃあ、もう少し歩く?」
「うん」
そう答えて、私たちはまた商店街を歩き始めた。
しばらく歩いていると、さっきまで店の中にいたせいか、外の暑さが少しずつ身体に戻ってくる。
手の中のお菓子の袋が、歩くたびに小さく揺れた。
「……不思議」
「何が?」
「この町のこと、知ってる気がするのに、知らないことばっかり」
さっきまで見ていた商店街を振り返る。
「お店のことも、昔の私のことも、みんな知ってるのに」
「十年も離れてたんだから、そんなもんだろ」
「そっか」
朔の言葉に、なぜか納得してしまう。
「この町で、私ってどんなふうに過ごしてたんだろう」
「それは、これから少しずつ思い出せばいいんじゃないか」
「……うん」
そう答えたものの、さっきのおばあちゃんの言葉が頭から離れなかった。
もう一人。
あの言い方は、私たちのことを三人として知っている人の言葉だった。
「そういえば」
私は朔を見る。
「さっきのおばあちゃん、『もう一人』って言ってたよね?」
「……うん」
「もう一人って、誰のこと?」
何気なく聞いたつもりだった。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、朔の足が止まった。
「……?」
私も足を止める。
朔は何かを考えるように、少しだけ目を伏せた。
「……別に、覚えてないならいい」
「なんでよ。教えてくれてもいいじゃん」
「そのうち思い出すよ」
「……私が?」
「うん」
朔はそれだけ言って、また歩き始めた。
「……そうかな」
私もその後を追う。
商店街のざわめきの中で、さっきの言葉だけが、なぜか耳の奥に残っていた。
もう一人。
私と朔のほかに、もう一人。
その名前は、まだ思い出せなかった。
しばらく歩いていると、朝食を食べたばかりなのに、少しお腹が空いてきた。
商店街を歩きながら、さっき食べたアジの塩焼きを思い出す。
あれだけ食べたのに、もうお昼のことを考えている自分がおかしくて、思わず小さく笑った。
「ねえ、朔」
「ん?」
「お昼、何食べる?」
「もう昼の話?」
「だって、お腹空いた」
「早いな」
「歩いてるから」
「そんな理由ある?」
「あるよ」
朔が小さく笑う。
「じゃあ、何か食べに行くか」
「うん」
「何食べたい?」
「なんでもいい」
「それ一番困る」
「じゃあ歩きながら考える?」
「それもそうだな」
商店街を抜けても、私たちは特に行き先を決めないまま歩いていた。
昨日なら、海へ行くという目的があった。
今日はそれもない。
それなのに、不思議と足取りは軽かった。
どこへ行くのかも決まっていないのに、こうして誰かと歩いていることが妙に楽しい。
「あれ、こんなお店あったっけ?」
少し先に、小さな店が見えた。
古い商店が並ぶ通りの中で、そこだけ少し雰囲気が違う。
「いや、初めて見るな」
「朔でも知らない店あるんだ」
「俺を何だと思ってるんだよ」
「この町が大好きなお兄さん」
「何だよそれ」
朔が笑う。
その笑い方が、昨日より少しだけ自然に見えた。
店の前まで行くと、ガラス越しに店内が見えた。
木のテーブルと椅子が並んでいて、窓際には小さな観葉植物が置かれている。
外から見ても、どこか落ち着いた雰囲気の店だった。
「入ってみる?」
「うん」
扉を開けると、小さなベルが鳴った。
外の蝉の声が、一瞬だけ遠くなる。
店内には静かな音楽が流れていて、窓から差し込む夏の光が床に細長く落ちていた。
「いらっしゃいませ」
店員さんに声をかけられ、私たちは少しだけ顔を見合わせる。
「……こういう店、初めてだな」
「私も」
「空いてるところ、座っていいのかな」
「たぶん」
「たぶんって」
「俺も初めてだから」
思わず笑ってしまう。
店員さんに案内された席に座ると、私はメニューを開いた。
ページをめくるたびに、料理の写真が目に入る。
パスタ、カレー、サンドイッチ。
どれも美味しそうで、さっきまで「なんでもいい」と言っていたのに、いざ選ぶとなると迷ってしまう。
「……どれにしよう」
「茜、これは?」
そう言って朔が指を差したのは、一ページ目に大きく写真が載っているナポリタンだった。
写真の下には「おすすめ」と書かれている。
「好きだったろ。ナポリタン」
「よく覚えてたね」
「いつも同じものばっか頼んでたからな」
メニューから顔を上げて、朔を見る。
そんな昔のことまで覚えているんだ。
ほんの少し感心して、私はまた写真に目を落とした。
「じゃあ朔はキーマカレーかな。好きだったでしょ?」
「……」
なぜか一瞬、朔が黙った。
「朔?」
「……あ、うん。俺も好きだよ」
「俺も?」
その言葉に少し引っかかったけれど、朔は何でもないようにメニューを見ている。
深い意味はないのかもしれない。
「じゃあ、これにしようかな」
ナポリタンの写真を指でなぞる。
その横に載っていたメニューが目に入り、私は思わず声を上げた。
「あとは……あ! クリームソーダ!」
その言葉を聞いて、朔が笑い出す。
「やっぱり頼むと思った。好きなものは昔から変わらないんだな」
「そんなに好きだった?」
「かなり」
「……全然覚えてない」
「でも、今も頼むんだから好きなんだろ」
「それもそうか」
メニューを閉じようとしたところで、店員さんがやってきた。
「ご注文はお決まりですか?」
「私はナポリタンとクリームソーダで」
「俺はキーマカレー。あと、アイスコーヒーをお願いします」
「かしこまりました」
店員さんがメニューを下げていく。
「楽しみだな」
「そんなに?」
「だって、朝ご飯食べたけどお腹空いてるから」
「さっき聞いた」
「大事なことだから」
朔がまた小さく笑う。
「ていうか朔、コーヒー飲めたんだ」
「失礼だな。俺ももう大人だぞ」
「ごめんごめん」
昔の朔は、苦いものが苦手だった気がする。
コーヒーを飲んでいる姿が、なんとなく新鮮だった。
十年もあれば、こういう小さなことだって変わる。
そんなことを考えながら、私は窓の外へ目を向けた。
店の前を自転車が通り過ぎる。
その向こうでは、蝉が変わらず鳴いていた。
しばらくすると、注文した料理が運ばれてきた。
「お待たせしました。ナポリタンとキーマカレー、クリームソーダ、それからアイスコーヒーです」
目の前に料理が並べられる。
「わぁ……」
思わず声が漏れた。
ナポリタンからは、トマトソースの香りと湯気がふわりと立ち上っている。
その隣には、鮮やかな緑色のクリームソーダ。
大きなグラスの上に、白いアイスがちょこんと乗っていた。
見ているだけで、少し気分が上がる。
「いただきます」
「いただきます」
私はフォークを手に取った。
一口食べる。
「どう?」
「おいしい」
「ナポリタン好きだったもんな」
「うん……」
もう一口食べる。
「なんか、懐かしいかも」
「クリームソーダも飲んでみなよ」
朔の言葉に頷いて、グラスに手を伸ばす。
ストローから一口飲むと、冷たい甘さが口の中に広がった。
「……おいしい」
「だろ?」
「朔が作ったわけじゃないでしょ」
「そうだけど」
「なんで得意げなの」
「昔から好きだったから」
「それ、朔が得意げになる理由?」
「なるだろ」
「ならないよ」
二人で小さく笑う。
私はもう一口クリームソーダを飲んだ。
ふと顔を上げると、朔がこちらを見ていた。
「……何見てるのよ」
「いや、美味しそうに食べるなと思って」
「何言ってるのよ。私のことはいいから、朔も早く食べたら? 冷めちゃうでしょ」
照れ隠しに、少し強い口調になってしまう。
「はいはい」
そう言いながら、朔はカレーをすくう。
一度ふうふうと息を吹きかけてから、口に運んだ。
その仕草を見て、ふと思う。
そういえば、朔は猫舌だった。
「……やっぱり」
「何が?」
「昔も、そうやって冷ましてた気がする」
「そうだっけ?」
「うん。なんとなく覚えてる」
全部忘れてしまったわけじゃないのかもしれない。
こういう何気ない仕草だけは、ちゃんと残っている。
「昔から変わってないね」
朔は少しだけ笑った。
私はその顔を見ながら、昔の朔を思い浮かべようとする。
けれど、浮かんでくるのは断片ばかりだった。
「……でも、朔はずっとこの町にいたんだよね」
「うん」
「じゃあ、私が知らない十年も、ここで過ごしてたんだ」
「まあな」
朔はそう言って、アイスコーヒーを一口飲んだ。
「茜は?」
「え?」
「東京では、どんなふうに過ごしてた?」
「……普通だよ」
そう答えてから、少し考える。
「仕事して、帰ってきて。また仕事して……って感じ」
「そんなに?」
「まあね」
私は苦笑する。
「でも、最近はプロジェクトのリーダーを任せてもらうことも増えてきたし、それなりに順調かな」
「へえ」
「大変だけど、嫌いじゃないよ」
「そっか」
朔はそれ以上は聞かず、カレーを口に運ぶ。
私はそんな朔を見ながら、ふと思う。
昔は、こんなふうにお互いの今の話をすることなんてなかった。
三人でいた頃は、今日何をするかとか、どこへ行くかとか。
そんなことばかり話していた気がする。
「朔は?」
「俺?」
「うん。ずっとこの町にいたなら、今は何してるの?」
「建物の修繕とかする仕事」
「へえ」
「なんだよ、その反応」
「いや。なんか朔らしいなぁって」
「俺らしいって何だよ」
「昔から手先器用だったじゃん」
「ほら、ちゃんと覚えてるじゃん」
「そういうことだけね」
「ひどいな」
朔が笑う。
私もつられて笑った。
ナポリタンを食べながら、しばらく他愛のない話を続けた。
昔の話だったり、今の仕事の話だったり。
どちらかが話して、もう片方が相槌を打つ。
そんなやり取りをしているうちに、いつの間にか肩の力が抜けていた。
窓の外では、相変わらず蝉が鳴いている。
店内には食器の触れ合う音と、小さな音楽。
特別なことなんて何もない。
それなのに、こうして誰かと昼食を食べている時間が、妙に心地よかった。
「そういえば」
朔がカレーを食べながら、ふと思い出したように口を開く。
「茜って、昔から忙しかったっけ?」
「昔?」
「うん。なんか、いつも何かしてた気がする」
「そうかな」
「学校帰りも寄り道してたし」
「それは忙しいとは違うでしょ」
「まあ、そうだけど」
朔が少し笑う。
「でも、今もそんな感じなのかなって」
「今は……」
私は少し考える。
「昔よりは、ずっと余裕ないかも」
「そうなんだ」
「仕事のこと考えてる時間が多いし。休みの日も、気づいたら仕事のこと考えてる」
「それ、休みじゃないだろ」
「そうなんだけどね」
苦笑する。
「でも、東京にいると、そういうのが普通になっちゃうんだよ」
朔は少し黙ってから、アイスコーヒーを一口飲んだ。
「……茜らしいな」
「何それ」
「なんとなく」
「よく分かんない」
「俺も分かってない」
「何それ」
また二人で笑った。
しばらくして、目の前の皿はすっかり空になっていた。
「……そろそろ出る?」
「うん」
会計を済ませ、私たちは店を出た。
扉を開けた瞬間、外の暑さが戻ってくる。
「……暑い」
「店の中、涼しかったからな」
「もう一回入る?」
「入らないよ」
「なんで?」
「もう食べ終わっただろ」
「そっか」
思わず笑ってしまう。
朔も笑った。
そのまま私たちは、また商店街の先へ向かって歩き始めた。



