君を、君だと知らなかった

 店の前まで来たところで、ふと足が止まる。
 自分でも、どうして立ち止まったのか分からない。
 ただ、入口の向こうを見つめていた。
 「入らないの?」
 「……入る」
 そう答えて、私は一度だけ店の中を覗き込んだ。
 何かを確かめるように、ゆっくりと足を踏み入れる。
 店の中に入ると、甘い匂いがした。
 駄菓子の匂いなのか、古い木の匂いなのか分からない。
 けれど、その匂いを嗅いだ瞬間、ふっと懐かしい気持ちになった。
 「あ……」
 思わず声が漏れる。
 この匂い、知っている。
 そんな気がした。
 「何か買う?」
 「まずは見て回ろうかな」
 そう言って、ゆっくりと商品棚を見て回る。
 色とりどりのお菓子を眺めていると、なんだか楽しくなってくる。
 普段ならこんなものを買うこともないのに、今日はどれにしようかと真剣に悩んでいた。
 「あ、これ……」
 ふと目に入ったお菓子に手を伸ばす。
 「あら、それ好きだったわねぇ」
 「そうなんですか?」
 声の方を見ると、店の奥からおばあちゃんがこちらを見ていた。
 「えぇ……」
 おばあちゃんは私の顔をじっと見つめる。
 「……もしかして、茜ちゃん?」
 「はい」
 「やっぱり! まあ、大きくなったわねぇ」
 嬉しそうに笑うおばあちゃんを見て、私は少し戸惑った。
 「……すみません。私、おばあちゃんのこと……」
 「あら、いいのよ。十年も経ってるもの」
 そう言って、おばあちゃんは笑った。
 「でも、顔を見たらすぐ分かったわ」
 「そうなんですか?」
 「ええ。昔と同じところがあるもの」
 同じところって、どこだろう。
 昨日、朔にも「変わった」と言われた。
 でも、町の人には昔と同じだと言われる。
 自分の何が変わって、何が変わっていないのか。
 私にはまだよく分からなかった。
 「そういえば……」
 おばあちゃんは私の手元にあるお菓子を見る。
 「朔くんは、こっちだったかしら?」
 棚を指差す。
 「ああ、これ。まだあったんだな」
 朔が懐かしそうにお菓子を手に取った。
 「よく覚えてましたね」
 「あんたたちとは長い付き合いだったからね」
 そう言われて、私はもう一度、手の中のお菓子を見る。
 自分では覚えていないのに、誰かが覚えていてくれている。
 それが、なんだか少し不思議だった。
 「もう一人の子は、いつも何を買おうか迷ってたわね」
 「……ああ」
 朔が小さく笑う。
 「その子ったら不思議な子でね。そんなに悩むなら全部買えば? って茜ちゃんが言っても、今日は一つだけって決めてる! って言って聞かなかったのよ。変なところで頑固だったのね」
 おばあちゃんは楽しそうに笑った。
 私もなんとなく笑う。
 それなのに、「もう一人」という言葉だけが、なぜか耳に残った。
 「これ、買う?」
 朔に声をかけられて、私は手元のお菓子を見る。
 「……うん。せっかくだし」
 お菓子を手に取って、レジへ向かう。
 「じゃあ、これください」
 「はいはい」
 おばあちゃんが笑いながら袋に入れてくれる。
 「またいつでも寄ってちょうだいね」
 「はい。ありがとうございました」


 店を出ると、外の空気が少しだけ暑く感じられた。
 「……暑い」
 「今さら?」
 「店の中が涼しかったから」
 「じゃあ、もう少し歩く?」
 「うん」
 そう答えて、私たちはまた商店街を歩き始めた。
 しばらく歩いていると、さっきまで店の中にいたせいか、外の暑さが少しずつ身体に戻ってくる。
 手の中のお菓子の袋が、歩くたびに小さく揺れた。
 「……不思議」
 「何が?」
 「この町のこと、知ってる気がするのに、知らないことばっかり」
 さっきまで見ていた商店街を振り返る。
 「お店のことも、昔の私のことも、みんな知ってるのに」
 「十年も離れてたんだから、そんなもんだろ」
 「そっか」
 朔の言葉に、なぜか納得してしまう。
 「この町で、私ってどんなふうに過ごしてたんだろう」
 「それは、これから少しずつ思い出せばいいんじゃないか」
 「……うん」
 そう答えたものの、さっきのおばあちゃんの言葉が頭から離れなかった。
 もう一人。
 あの言い方は、私たちのことを三人として知っている人の言葉だった。
 「そういえば」
 私は朔を見る。
 「さっきのおばあちゃん、『もう一人』って言ってたよね?」
 「……うん」
 「もう一人って、誰のこと?」
 何気なく聞いたつもりだった。
 けれど、その言葉を聞いた瞬間、朔の足が止まった。
 「……?」
 私も足を止める。
 朔は何かを考えるように、少しだけ目を伏せた。
 「……別に、覚えてないならいい」
 「なんでよ。教えてくれてもいいじゃん」
 「そのうち思い出すよ」
 「……私が?」
 「うん」
 朔はそれだけ言って、また歩き始めた。
 「……そうかな」
 私もその後を追う。
 商店街のざわめきの中で、さっきの言葉だけが、なぜか耳の奥に残っていた。
 もう一人。
 私と朔のほかに、もう一人。
 その名前は、まだ思い出せなかった。


 しばらく歩いていると、朝食を食べたばかりなのに、少しお腹が空いてきた。
 商店街を歩きながら、さっき食べたアジの塩焼きを思い出す。
 あれだけ食べたのに、もうお昼のことを考えている自分がおかしくて、思わず小さく笑った。
 「ねえ、朔」
 「ん?」
 「お昼、何食べる?」
 「もう昼の話?」
 「だって、お腹空いた」
 「早いな」
 「歩いてるから」
 「そんな理由ある?」
 「あるよ」
 朔が小さく笑う。
 「じゃあ、何か食べに行くか」
 「うん」
 「何食べたい?」
 「なんでもいい」
 「それ一番困る」
 「じゃあ歩きながら考える?」
 「それもそうだな」
 商店街を抜けても、私たちは特に行き先を決めないまま歩いていた。
 昨日なら、海へ行くという目的があった。
 今日はそれもない。
 それなのに、不思議と足取りは軽かった。
 どこへ行くのかも決まっていないのに、こうして誰かと歩いていることが妙に楽しい。
 「あれ、こんなお店あったっけ?」
 少し先に、小さな店が見えた。
 古い商店が並ぶ通りの中で、そこだけ少し雰囲気が違う。
 「いや、初めて見るな」
 「朔でも知らない店あるんだ」
 「俺を何だと思ってるんだよ」
 「この町が大好きなお兄さん」
 「何だよそれ」
 朔が笑う。
 その笑い方が、昨日より少しだけ自然に見えた。
 店の前まで行くと、ガラス越しに店内が見えた。
 木のテーブルと椅子が並んでいて、窓際には小さな観葉植物が置かれている。
 外から見ても、どこか落ち着いた雰囲気の店だった。
 「入ってみる?」
 「うん」
 扉を開けると、小さなベルが鳴った。
 外の蝉の声が、一瞬だけ遠くなる。
 店内には静かな音楽が流れていて、窓から差し込む夏の光が床に細長く落ちていた。
 「いらっしゃいませ」
 店員さんに声をかけられ、私たちは少しだけ顔を見合わせる。
 「……こういう店、初めてだな」
 「私も」
 「空いてるところ、座っていいのかな」
 「たぶん」
 「たぶんって」
 「俺も初めてだから」
 思わず笑ってしまう。
 店員さんに案内された席に座ると、私はメニューを開いた。
 ページをめくるたびに、料理の写真が目に入る。
 パスタ、カレー、サンドイッチ。
 どれも美味しそうで、さっきまで「なんでもいい」と言っていたのに、いざ選ぶとなると迷ってしまう。
 「……どれにしよう」
 「茜、これは?」
 そう言って朔が指を差したのは、一ページ目に大きく写真が載っているナポリタンだった。
 写真の下には「おすすめ」と書かれている。
 「好きだったろ。ナポリタン」
 「よく覚えてたね」
 「いつも同じものばっか頼んでたからな」
 メニューから顔を上げて、朔を見る。
 そんな昔のことまで覚えているんだ。
 ほんの少し感心して、私はまた写真に目を落とした。
 「じゃあ朔はキーマカレーかな。好きだったでしょ?」
 「……」
 なぜか一瞬、朔が黙った。
 「朔?」
 「……あ、うん。俺も好きだよ」
 「俺も?」
 その言葉に少し引っかかったけれど、朔は何でもないようにメニューを見ている。
 深い意味はないのかもしれない。
 「じゃあ、これにしようかな」
 ナポリタンの写真を指でなぞる。
 その横に載っていたメニューが目に入り、私は思わず声を上げた。
 「あとは……あ! クリームソーダ!」
 その言葉を聞いて、朔が笑い出す。
 「やっぱり頼むと思った。好きなものは昔から変わらないんだな」
 「そんなに好きだった?」
 「かなり」
 「……全然覚えてない」
 「でも、今も頼むんだから好きなんだろ」
 「それもそうか」
 メニューを閉じようとしたところで、店員さんがやってきた。
 「ご注文はお決まりですか?」
 「私はナポリタンとクリームソーダで」
 「俺はキーマカレー。あと、アイスコーヒーをお願いします」
 「かしこまりました」
 店員さんがメニューを下げていく。
 「楽しみだな」
 「そんなに?」
 「だって、朝ご飯食べたけどお腹空いてるから」
 「さっき聞いた」
 「大事なことだから」
 朔がまた小さく笑う。
 「ていうか朔、コーヒー飲めたんだ」
 「失礼だな。俺ももう大人だぞ」
 「ごめんごめん」
 昔の朔は、苦いものが苦手だった気がする。
 コーヒーを飲んでいる姿が、なんとなく新鮮だった。
 十年もあれば、こういう小さなことだって変わる。
 そんなことを考えながら、私は窓の外へ目を向けた。
 店の前を自転車が通り過ぎる。
 その向こうでは、蝉が変わらず鳴いていた。
 しばらくすると、注文した料理が運ばれてきた。
 「お待たせしました。ナポリタンとキーマカレー、クリームソーダ、それからアイスコーヒーです」
 目の前に料理が並べられる。
 「わぁ……」
 思わず声が漏れた。
 ナポリタンからは、トマトソースの香りと湯気がふわりと立ち上っている。
 その隣には、鮮やかな緑色のクリームソーダ。
 大きなグラスの上に、白いアイスがちょこんと乗っていた。
 見ているだけで、少し気分が上がる。
 「いただきます」
 「いただきます」
 私はフォークを手に取った。
 一口食べる。
 「どう?」
 「おいしい」
 「ナポリタン好きだったもんな」
 「うん……」
 もう一口食べる。
 「なんか、懐かしいかも」
 「クリームソーダも飲んでみなよ」
 朔の言葉に頷いて、グラスに手を伸ばす。
 ストローから一口飲むと、冷たい甘さが口の中に広がった。
 「……おいしい」
 「だろ?」
 「朔が作ったわけじゃないでしょ」
 「そうだけど」
 「なんで得意げなの」
 「昔から好きだったから」
 「それ、朔が得意げになる理由?」
 「なるだろ」
 「ならないよ」
 二人で小さく笑う。
 私はもう一口クリームソーダを飲んだ。
 ふと顔を上げると、朔がこちらを見ていた。
 「……何見てるのよ」
 「いや、美味しそうに食べるなと思って」
 「何言ってるのよ。私のことはいいから、朔も早く食べたら? 冷めちゃうでしょ」
 照れ隠しに、少し強い口調になってしまう。
 「はいはい」
 そう言いながら、朔はカレーをすくう。
 一度ふうふうと息を吹きかけてから、口に運んだ。
 その仕草を見て、ふと思う。
 そういえば、朔は猫舌だった。
 「……やっぱり」
 「何が?」
 「昔も、そうやって冷ましてた気がする」
 「そうだっけ?」
 「うん。なんとなく覚えてる」
 全部忘れてしまったわけじゃないのかもしれない。
 こういう何気ない仕草だけは、ちゃんと残っている。
 「昔から変わってないね」
 朔は少しだけ笑った。
 私はその顔を見ながら、昔の朔を思い浮かべようとする。
 けれど、浮かんでくるのは断片ばかりだった。
 「……でも、朔はずっとこの町にいたんだよね」
 「うん」
 「じゃあ、私が知らない十年も、ここで過ごしてたんだ」
 「まあな」
 朔はそう言って、アイスコーヒーを一口飲んだ。
 「茜は?」
 「え?」
 「東京では、どんなふうに過ごしてた?」
 「……普通だよ」
 そう答えてから、少し考える。
 「仕事して、帰ってきて。また仕事して……って感じ」
 「そんなに?」
 「まあね」
 私は苦笑する。
 「でも、最近はプロジェクトのリーダーを任せてもらうことも増えてきたし、それなりに順調かな」
 「へえ」
 「大変だけど、嫌いじゃないよ」
 「そっか」
 朔はそれ以上は聞かず、カレーを口に運ぶ。
 私はそんな朔を見ながら、ふと思う。
 昔は、こんなふうにお互いの今の話をすることなんてなかった。
 三人でいた頃は、今日何をするかとか、どこへ行くかとか。
 そんなことばかり話していた気がする。
 「朔は?」
 「俺?」
 「うん。ずっとこの町にいたなら、今は何してるの?」
 「建物の修繕とかする仕事」
 「へえ」
 「なんだよ、その反応」
 「いや。なんか朔らしいなぁって」
 「俺らしいって何だよ」
 「昔から手先器用だったじゃん」
 「ほら、ちゃんと覚えてるじゃん」
 「そういうことだけね」
 「ひどいな」
 朔が笑う。
 私もつられて笑った。
 ナポリタンを食べながら、しばらく他愛のない話を続けた。
 昔の話だったり、今の仕事の話だったり。
 どちらかが話して、もう片方が相槌を打つ。
 そんなやり取りをしているうちに、いつの間にか肩の力が抜けていた。
 窓の外では、相変わらず蝉が鳴いている。
 店内には食器の触れ合う音と、小さな音楽。
 特別なことなんて何もない。
 それなのに、こうして誰かと昼食を食べている時間が、妙に心地よかった。
 「そういえば」
 朔がカレーを食べながら、ふと思い出したように口を開く。
 「茜って、昔から忙しかったっけ?」
 「昔?」
 「うん。なんか、いつも何かしてた気がする」
 「そうかな」
 「学校帰りも寄り道してたし」
 「それは忙しいとは違うでしょ」
 「まあ、そうだけど」
 朔が少し笑う。
 「でも、今もそんな感じなのかなって」
 「今は……」
 私は少し考える。
 「昔よりは、ずっと余裕ないかも」
 「そうなんだ」
 「仕事のこと考えてる時間が多いし。休みの日も、気づいたら仕事のこと考えてる」
 「それ、休みじゃないだろ」
 「そうなんだけどね」
 苦笑する。
 「でも、東京にいると、そういうのが普通になっちゃうんだよ」
 朔は少し黙ってから、アイスコーヒーを一口飲んだ。
 「……茜らしいな」
 「何それ」
 「なんとなく」
 「よく分かんない」
 「俺も分かってない」
 「何それ」
 また二人で笑った。
 しばらくして、目の前の皿はすっかり空になっていた。
 「……そろそろ出る?」
 「うん」
 会計を済ませ、私たちは店を出た。
 扉を開けた瞬間、外の暑さが戻ってくる。
 「……暑い」
 「店の中、涼しかったからな」
 「もう一回入る?」
 「入らないよ」
 「なんで?」
 「もう食べ終わっただろ」
 「そっか」
 思わず笑ってしまう。
 朔も笑った。
 そのまま私たちは、また商店街の先へ向かって歩き始めた。