君を、君だと知らなかった

 朝、蝉の声で目が覚めた。
 しばらく目を開けたまま、天井を眺めていた。
 夢の中で、誰かと話していたような気がする。
 どんな話をしたのかも、相手が誰だったのかも分からない。
 「……なんだったんだろう」
 ぼんやり考えていると、お腹が小さく鳴った。
 時計を見ると、針は八時を指している。
 「……寝すぎた」
 まだ少し眠い目をこすりながら、ゆっくりと起き上がった。
 着替えを済ませてから、部屋を出る。
 廊下には朝の光が差し込んでいて、昨日よりも少し明るく感じた。
 一階へ降りると、食堂から味噌汁の香りが漂ってくる。
 その匂いにつられるように、私は食堂へ向かった。
 「おはようございます」
 「あら、おはよう。よく眠れた?」
 「はい。ちょっと寝すぎちゃいました」
 「ふふ。朝ごはん、できてるわよ」
 席につくと、目の前に朝食が並べられた。
 「いただきます」
 小さく手を合わせる。
 今日の朝食は、アジの塩焼きだった。
 隣には大根おろしが添えられていて、味噌汁からは湯気が立っている。
 他のおかずも、どれも美味しそうだった。
 ひとり暮らしをしていると、朝食はどうしても簡単なものになる。
 コーヒーだけで済ませることも珍しくない。
 こういう朝ごはんを食べるのは、いつ以来だろう。
 箸を進めながら、そんなことを考えた。
 「今日はどこかへ行くの?」
 そろそろ食べ終わる頃、女将さんが声をかけてきた。
 「まだ決めてなくて……」
 そう答えてから、昨日のことを思い出す。
 そういえば、今日は朔と町を歩くんだった。
 でも、待ち合わせの時間も場所も決めていない。
 「……まあ、いいか」
 町を歩いていれば、そのうち会うかもしれない。
 「商店街でも行ってみたら? 駅の向こうよ」
 「商店街……」
 少し考える。
 「うん。行ってみようかな」
 昨日は海へ行った。
 今日は、町を見てみるのもいいかもしれない。
 「ご馳走様でした。美味しかったです」
 「あら、ありがとう。食器はそのままでいいわよ」
 「ありがとうございます」
 食堂を出て、部屋へ戻る。
 昨日とは違う場所へ行ってみる。
 そう思うと、少しだけ楽しみになってきた。
 部屋に戻ってスマホを手に取ったところで、ふと思う。
 ……そういえば、朔の連絡先を知らない。
 昨日は会えたけれど、今日はどうするんだろう。
 待ち合わせの時間も、場所も決めていない。
 「……そのうち会うでしょ」
 そう呟いて、スマホをポケットにしまった。


 旅館を出ると、昨日とは町の様子が違っていた。
 店先には商品が並び、通りには人の姿も増えている。
 「おはよう」
 道の向こうから声が聞こえた。
 店先では開店準備をする人たちが忙しそうに動いている。
 夏休みだからか、子どもたちの笑い声もあちこちから聞こえてきた。
 足を止めて、その景色を眺める。
 昨日歩いたときには気づかなかったものが、いくつも目に入ってきた。
 朝になると、町はこんなふうに動き始めるんだ。
 そんな当たり前のことが、少し新鮮だった。
 「……懐かしい」
 思わず、そんな言葉がこぼれた。
 何が懐かしいのか、自分でもよく分からない。
 ただ、目の前の景色を見ていると、昔もこんな朝があったような気がした。
 私はそのまま、ゆっくりと商店街を歩いていく。
 「おじちゃん、この荷物ここでいい?」
 少し歩いたところで、聞き覚えのある声が耳に入った。
 顔を上げる。
 通りの先で、朔が大きな箱を抱えていた。
 「あぁ、ありがとね。今朝腰を痛めちゃって、この荷物どうしようか悩んでたところだったよ」
 「何言ってるんですか。こういう時はお互い様ですよ」
 朔は荷物を店先へ運ぶと、何事もなかったようにおじさんと話している。
 「最近ちょっと無理しすぎなんじゃないですか?」
 「お前に言われたくないねえ」
 「俺はまだ若いんで」
 「はいはい」
 二人で笑っている。
 その姿を見ていると、昨日海で会ったときとは少し違って見えた。
 町の中にいる朔は、ずっと自然だった。
 「……朔?」
 声をかけると、朔が振り返る。
 「ああ。来たか」
 昨日より少し明るい声だった。
 その声を聞いて、私も自然と笑う。
 「ガールフレンドかい?」
 おじさんが楽しそうにこちらを見る。
 「何言ってるんですか。茜ですよ」
 「なんだ! 茜ちゃんかい! すっかり大きくなって」
 「昨日帰ってきたんだってさ」
 「そうなのかい。なんか、こうして並んでみると昔を思い出すね。学校の帰り道、よくここを通っていただろ」
 「そうでしたっけ?」
 「ああ。いつも元気に挨拶してくれてたからな。よく覚えているよ」
 「あ……」
 そんなこともあった気がする。
 言われてみれば、店先で立ち止まって誰かに挨拶をしている自分の姿が、ぼんやり浮かんだ。
 「照れることはないさ。おっちゃん、茜ちゃんの声でいつも元気もらってたからね」
 「……そうですか」
 少し恥ずかしくなって、私は小さく笑った。
 「じゃあ、またな」
 「はい。おじさんも腰、無理しないでください」
 「おう。朔も茜ちゃんも、ゆっくりしていきな」
 「ありがとうございます」
 おじさんに手を振って、私たちは再び歩き始めた。
 「どうしてここにいたの?」
 少し歩いてから、何気なく聞いてみる。
 とりあえず歩いていれば、そのうち会うだろうと思っていた。
 でも、本当に会えるとは思っていなかった。
 「何となく、今日は商店街の気分」
 「……どんな気分なのよ」
 「そんな気分」
 「相変わらず適当」
 「そうか?」
 「そうだよ」
 朔は小さく笑った。
 「さっきみたいなこと、よくあるの?」
 「さっきのって?」
 「街の人の手助けをする……みたいな」
 「まあな」
 「町の人と話す朔って、あんな感じなんだね」
 「どんな感じ?」
 「なんていうか……慣れてる」
 「そりゃ、この町にいるからな」
 「昨日会ったときより、ちょっと違って見えた」
 「そんな変わらないだろ」
 「そうかな」
 「うん」
 「……でも、昨日よりは話しやすい」
 「そりゃあどうも」
 朔が少し笑う。
 私もつられて笑った。
 そんなことを話しながら、私たちは商店街を歩いていく。
 昔ながらの八百屋や魚屋が並んでいる。
 十年前から変わっていない店もあれば、見たことのない店もあった。
 「あれ、昔からあった?」
 少し先の店を指差す。
 「ああ。昔からあるよ」
 「全然覚えてない」
 「茜、昔からあんまり周り見てなかったからな」
 「そうだっけ?」
 「何か決めたら、そこに向かって一直線」
 「……そんなだった?」
 「うん」
 そう言われて、少しだけ考える。
 今の私は、そんなふうに何かに向かって走ることなんて、いつからしなくなったんだろう。
 仕事でも、何かを始める前にいろいろ考えてしまう。
 失敗しないように。
 迷惑をかけないように。
 いつの間にか、そういうことばかり気にするようになっていた。
 「……昔の私って、そんなに子どもだった?」
 「子どもだっただろ」
 「それはそうだけど」
 「今も、そんなに変わってないと思うけどな」
 「ほんと?」
 「うん」
 その言葉が、少し意外だった。
 何かを聞き返そうとしたところで、少し先に見覚えのある小さな看板が目に入った。
 「駄菓子屋……」
 ぽつりと呟く。
 古い木の看板。
 色褪せた文字。
 その前に立っただけで、胸の奥がほんの少しだけざわついた。
 「まだあったんだ」
 「ああ。昔からずっとあるよ」
 「入ってみようかな」
 「好きだったもんな」
 「……私が?」
 「うん」
 朔は当たり前のように答えた。
 私は少しだけ首を傾げながら、店の方へ歩いていった。