君を、君だと知らなかった

 宿に戻ると、女将さんが食堂へ料理を運んでいるところだった。
 私の姿に気づくと、顔を上げて笑う。
 「あら、おかえりなさい」
 「すみません。遅くなってしまって」
 「いいのよ。ちょうどこれから夕ご飯の用意をするところだから」
 女将さんが料理を運びながら、ふと思い出したようにこちらを見る。
 「それより、海はどうだった?」
 「とてもいい場所でした」
 「そうでしょう?」
 女将さんは嬉しそうに笑う。
 「今日は少し曇っていたから分かりにくかったでしょうけど、あそこは夕日がとても綺麗に見えるのよ」
 「夕日……」
 「ええ。海岸から少し離れたところに、灯台が見えたでしょう?」
 「はい。白凪灯台(しらなぎとうだい)……でしたっけ」
 「そうそう。白凪灯台ね」
 「さっき見ただけですけど」
 「あそこから見る夕日が一番綺麗なの。私、あそこ好きなのよ」
 女将さんが懐かしそうに海の方へ目を向ける。
 「……そういえば」
 何か思い出したように、こちらを見る。
 「朔くんに会った?」
 「……どうして分かったんですか?」
 「あの子、海が好きなのよ」
 女将さんはくすっと笑った。
 「しょっちゅう海岸に行ってるみたいだから、もしかしたら今日もいるんじゃないかと思って」
 「そうだったんですね」
 答えながら、私はさっき海で会った朔の姿を思い出した。
 そういえば、彼はどうしてあそこにいたんだろう。
 海が好きだから。
 女将さんの言葉を思い出す。
 それなら、別に不思議なことじゃない。
 そう思うと、それ以上考える気にはならなかった。
 今日は、いろんなことがあった。
 十年ぶりに町へ帰ってきて、海を見て、朔にも会った。
 分からないことは、まだたくさんある。
 けれど、今すぐ答えを出さなくてもいい気がした。
 夕食を終えて部屋に戻ると、窓の外はすっかり暗くなっていた。
 窓を少し開ける。
 昼間はあれほど大きく聞こえていた蝉の声も、今は遠い。
 代わりに、かすかな波の音が聞こえてくる。
 部屋の明かりを落とし、布団に入る。
 東京にいた頃は、眠る前まで明日の仕事のことを考えていた。
 けれど今日は、明日のことは明日になってから考えればいい。
 「……おやすみ」
 誰に言うでもなく、小さく呟いた。