君を、君だと知らなかった

 ◇◇◇◇◇
 茜を乗せた電車が見えなくなっても、しばらくその先を見ていた。
 やがて、車輪の音も聞こえなくなる。
 「……行ったか」
 小さく呟いて、駅を出る。
 海へ向かって歩き始めた。
 歩き慣れた道を、いつものように進んでいく。
 海で久しぶりに見た茜は、記憶の中の姿とは少し違っていた。
 髪も伸びていたし、話し方も昔よりずっと大人になっていた。
 初めて会ったときは、少しだけ遠い人に見えた。
 十年も離れていれば、当然なのかもしれない。
 俺の知らないところで、茜は茜の時間を過ごしてきた。
 それが、少しだけ寂しかった。
 もう、自分の知っている茜じゃないのかもしれない。
 そんなことを思った。
 でも、この七日間を一緒に過ごしてみて、少しずつ分かってきた。
 笑うときに少しだけ目を細めるところも。
 気になるものを見つけると、すぐ夢中になるところも。
 昔と変わらない。
 「……やっぱり、茜だな」
 そう呟くと、少しだけ可笑しくなった。
 十年も経ってるのに。
 変わったところばかり探していた自分の方が、何も変わっていないのかもしれない。
 坂道を下っていく。
 その先に、海が見えてきた。
 朝の海は静かだった。
 波が寄せては、ゆっくりと戻っていく。
 夕焼けの日もあれば、雨の日もある。
 風が強い日も、今日みたいに穏やかな日もある。
 昔から、ここに来るたびに違う顔を見せてくれる。
 だから、何度見ても飽きなかった。
 この海が好きだった。
 海の前で足を止める。
 しばらく眺めてから、スマホを取り出した。
 画面を開く。
 連絡先をゆっくりスクロールしていく。
 上の方に、茜の名前がある。
 つい最近まで、ここにはなかった名前だ。
 そのことが、少しだけ不思議だった。
 名前を見て、ほんの少し笑う。
 そのまま下へスクロールしていく。
 いくつもの名前を通り過ぎて、かなり下まで来たところで、指が止まった。
 湊。
 「……あった」
 思わず声が漏れる。
 こんなに下まで来ないと見つからない。
 それだけ、長いこと連絡を取っていなかった。
 最後に名前を見たのがいつだったのかも、もうよく覚えていない。
 向こうのスマホにも、まだ俺の名前が残っているだろうか。
 「……湊も俺の連絡先、消してたりしてな」
 そう呟いて、また少し笑った。
 少しだけ迷ってから、写真を一枚選ぶ。
 海を見ている茜の後ろ姿だった。
 少し前まで、この海を見ていた茜。
 その写真と一緒に、ひと言だけ送った。
 『元気そうだったよ』
 送信すると、スマホをポケットにしまった。
 返事が来るかどうかは、考えなかった。
 もう一度、海を見る。
 波は変わらず、静かに寄せては返している。
 「……東京か」
 その先には、俺の知らない世界が広がっている。
 茜が十年かけて歩いてきた場所も、きっとその先にある。
 海は何も答えない。
 ただ、いつもと変わらず、遠くまで続いていた。