宿を出ると、朝の町はまだ静かだった。
通りを歩く人も少なく、開店前の店にはシャッターが下りている。
昨日まで何度も歩いた道なのに、今日は少しだけ違って見えた。
「東京に戻ったら、仕事か?」
しばらく歩いたところで、朔がふと口を開いた。
「……やめてよ」
「何が?」
「急に現実に戻った感じするじゃん」
「でも、帰ったら仕事だろ」
「そうだけど」
私は少し笑う。
「この七日間くらい、忘れさせてよ」
「七日間も忘れてたのか?」
「うん。仕事のこと、ほとんど考えなかった」
「それはそれですごいな」
「でしょ?」
少し笑ってから、私は前を向く。
「東京にいるとさ、いつの間にか仕事のことばっかり考えてたんだよね」
「そんなに?」
「うん。仕事して、帰って、また次の日のこと考えて……って」
「それは疲れそうだな」
「だから、たまに嫌になってた」
私は少しだけ間を置く。
「でも、ここに来て久しぶりに仕事から離れてみたら……」
「うん」
「やっぱり、私、仕事好きなんだなって思った」
朔が少し意外そうな顔をする。
「そうなのか?」
「うん。離れてみると分かるんだね」
「じゃあ、戻るのは嫌じゃない?」
「うん。むしろ、ちょっと楽しみ」
「そっか」
「ちゃんと休んで、仕事以外のことも考える時間があれば、また頑張れる気がする」
「それならよかったな」
「うん」
私は少し笑う。
「それに、旅行もしてみたい」
「旅行?」
「うん。今回みたいに、知らない町を歩くのも結構楽しかったから」
「また海のある町?」
「それもいいね」
「海ばっかりだな」
「だって好きなんだもん」
「そうか」
朔が小さく笑う。
「じゃあ、次は夕凪町じゃない海だな」
「うん。どこがいいかな」
「俺に聞くなよ」
「地元民なのに?」
「地元民だからって、旅行先まで詳しいわけじゃない」
「そっか」
私は少し考えてから笑った。
「じゃあ、自分で探してみる」
「そうしろ」
「今度は、ちゃんと休みを取って」
「それがいいな」
「うん」
そんな話をしているうちに、商店街の角まで来た。
店先では、開店準備をしている人がいる。
軒先の鉢植えに水をやっている人もいた。
「お、朔くん。おはよう」
店先から声が飛んでくる。
「おはようございます」
朔が足を止めて、軽く頭を下げる。
「今日は駅まで?」
「そうです」
「気をつけてな」
「ありがとうございます」
短いやり取りを終えて、また歩き出す。
「……やっぱり、顔が広いね」
「そうか?」
「そうだよ」
「この町が狭いだけだろ」
「それでもすごいと思うけど」
朔が小さく笑う。
私も笑った。
そんな何気ない会話をしながら、駅へ向かう。
隣を歩く朔の横顔を見る。
十年の間、朔がどんなことを考えて、この町で過ごしてきたのか。
私が知らないことも、まだたくさんある。
それは、朔も同じなんだと思う。
私が東京でどんなふうに過ごしてきたのか、朔は知らない。
十年も離れていれば、それは当たり前のことだった。
でも、こうしてまた並んで歩けることが、少しだけ不思議だった。
「……やり残したこと、ない?」
朔がふいに聞いた。
「やり残したこと?」
「うん。まだ行きたいところとか、見ておきたい場所とか」
私は少し考える。
この町に来てからの七日間を思い返した。
海。
灯台。
秘密基地。
図書館。
実家。
そして、タイムカプセル。
いろんな場所へ行った。
いろんな人と話した。
まだ知らないことは、きっとたくさんある。
それでも、今はもう、それを探そうとは思わなかった。
「……うん。今は、ないかな」
「そっか」
朔はそれ以上聞かなかった。
しばらく、二人とも何も話さなかった。
朝の町を並んで歩く。
しばらくすると、駅が見えてきた。
朝の駅はまだ人も少なく、ホームには数人の乗客がいるだけだった。
「着いたな」
「うん」
駅の入口で立ち止まる。
朔が時刻表を確認する。
「あと十分くらいだな」
「そっか」
「切符、大丈夫?」
「うん。昨日買っておいた」
「ならよかった」
それだけ確認すると、朔は黙った。
私も、何を話せばいいのか分からなかった。
今日は、今までよりも会話が少ない。
でも、不思議と気まずくはなかった。
無理に何かを話さなくても、隣にいることが自然に感じられる。
七日前なら、こんなふうに思うこともなかったのかもしれない。
「……七日間、ありがとう」
私が言うと、朔は少しだけ笑った。
「こちらこそ」
「何それ」
「いや、俺も結構楽しかったから」
「……そっか」
少しだけ笑う。
久しぶりに帰ってきた夕凪町は、最初はどこか知らない町のように感じていた。
知っているはずの道も、見覚えのある景色も、どこか遠くにあるものみたいだった。
でも、この七日間を過ごしているうちに、少しずつその距離が近くなっていた。
今では、ここを離れることを考えると、少しだけ寂しい。
それでも、来たときのような不安はなかった。
「また……」
言いかけて、言葉が止まる。
また来る。
また会おう。
どちらも、今は簡単には言えなかった。
私は少し考えてから、別の言葉を口にした。
「今度はさ、朔が東京に来なよ」
「俺が?」
「うん。朔はずっとここにいたでしょ。たまには外の世界から夕凪町を見るのもいいんじゃない?」
朔は少し考えるように黙った。
それから、ふっと笑う。
「……じゃあ、そのうち行くか」
「ほんと?」
「たぶん」
「またそれ?」
「まだ分かんないだろ」
「もう」
思わず笑ってしまう。
そのとき、遠くから電車の音が聞こえてきた。
「来たみたい」
「うん」
ホームに電車が入ってくる。
ドアが開く。
私は荷物を持ち直して、朔を見る。
「じゃあ……」
「うん」
少しだけ迷ってから、私は笑った。
「またね」
今度は、ちゃんと言えた。
「またな」
電車に乗り込む。
ドアの前で振り返ると、朔はホームに立ったまま、こちらを見ていた。
私は小さく手を振る。
朔も、ほんの少し手を上げた。
やがてドアが閉まる。
電車がゆっくり動き出す。
窓の向こうで、朔の姿が少しずつ小さくなっていく。
駅を離れると、町の景色がゆっくり後ろへ流れていった。
海が見える。
家々が見える。
何度も歩いた道も、少しずつ遠ざかっていく。
私は窓の外を眺めながら、この町に帰ってきた日のことを思い出していた。
最初は、知っているはずの町が知らない町のように見えた。
帰ってきたはずなのに、どこか遠い場所にいるような気がしていた。
けれど、今は少し違う。
窓の外に、最後に海が見えた。
私はその景色を、静かに見つめる。
初めてこの町に帰ってきたときは、海がずっと遠くにあるように感じていた。
けれど今は、電車が離れていっても、そうは思わなかった。
またいつか、この海を見に来ればいい。
そう思いながら、私は窓の外へ目を向けた。
帰ってきてよかった。
今度は、確かにそう思えた。
通りを歩く人も少なく、開店前の店にはシャッターが下りている。
昨日まで何度も歩いた道なのに、今日は少しだけ違って見えた。
「東京に戻ったら、仕事か?」
しばらく歩いたところで、朔がふと口を開いた。
「……やめてよ」
「何が?」
「急に現実に戻った感じするじゃん」
「でも、帰ったら仕事だろ」
「そうだけど」
私は少し笑う。
「この七日間くらい、忘れさせてよ」
「七日間も忘れてたのか?」
「うん。仕事のこと、ほとんど考えなかった」
「それはそれですごいな」
「でしょ?」
少し笑ってから、私は前を向く。
「東京にいるとさ、いつの間にか仕事のことばっかり考えてたんだよね」
「そんなに?」
「うん。仕事して、帰って、また次の日のこと考えて……って」
「それは疲れそうだな」
「だから、たまに嫌になってた」
私は少しだけ間を置く。
「でも、ここに来て久しぶりに仕事から離れてみたら……」
「うん」
「やっぱり、私、仕事好きなんだなって思った」
朔が少し意外そうな顔をする。
「そうなのか?」
「うん。離れてみると分かるんだね」
「じゃあ、戻るのは嫌じゃない?」
「うん。むしろ、ちょっと楽しみ」
「そっか」
「ちゃんと休んで、仕事以外のことも考える時間があれば、また頑張れる気がする」
「それならよかったな」
「うん」
私は少し笑う。
「それに、旅行もしてみたい」
「旅行?」
「うん。今回みたいに、知らない町を歩くのも結構楽しかったから」
「また海のある町?」
「それもいいね」
「海ばっかりだな」
「だって好きなんだもん」
「そうか」
朔が小さく笑う。
「じゃあ、次は夕凪町じゃない海だな」
「うん。どこがいいかな」
「俺に聞くなよ」
「地元民なのに?」
「地元民だからって、旅行先まで詳しいわけじゃない」
「そっか」
私は少し考えてから笑った。
「じゃあ、自分で探してみる」
「そうしろ」
「今度は、ちゃんと休みを取って」
「それがいいな」
「うん」
そんな話をしているうちに、商店街の角まで来た。
店先では、開店準備をしている人がいる。
軒先の鉢植えに水をやっている人もいた。
「お、朔くん。おはよう」
店先から声が飛んでくる。
「おはようございます」
朔が足を止めて、軽く頭を下げる。
「今日は駅まで?」
「そうです」
「気をつけてな」
「ありがとうございます」
短いやり取りを終えて、また歩き出す。
「……やっぱり、顔が広いね」
「そうか?」
「そうだよ」
「この町が狭いだけだろ」
「それでもすごいと思うけど」
朔が小さく笑う。
私も笑った。
そんな何気ない会話をしながら、駅へ向かう。
隣を歩く朔の横顔を見る。
十年の間、朔がどんなことを考えて、この町で過ごしてきたのか。
私が知らないことも、まだたくさんある。
それは、朔も同じなんだと思う。
私が東京でどんなふうに過ごしてきたのか、朔は知らない。
十年も離れていれば、それは当たり前のことだった。
でも、こうしてまた並んで歩けることが、少しだけ不思議だった。
「……やり残したこと、ない?」
朔がふいに聞いた。
「やり残したこと?」
「うん。まだ行きたいところとか、見ておきたい場所とか」
私は少し考える。
この町に来てからの七日間を思い返した。
海。
灯台。
秘密基地。
図書館。
実家。
そして、タイムカプセル。
いろんな場所へ行った。
いろんな人と話した。
まだ知らないことは、きっとたくさんある。
それでも、今はもう、それを探そうとは思わなかった。
「……うん。今は、ないかな」
「そっか」
朔はそれ以上聞かなかった。
しばらく、二人とも何も話さなかった。
朝の町を並んで歩く。
しばらくすると、駅が見えてきた。
朝の駅はまだ人も少なく、ホームには数人の乗客がいるだけだった。
「着いたな」
「うん」
駅の入口で立ち止まる。
朔が時刻表を確認する。
「あと十分くらいだな」
「そっか」
「切符、大丈夫?」
「うん。昨日買っておいた」
「ならよかった」
それだけ確認すると、朔は黙った。
私も、何を話せばいいのか分からなかった。
今日は、今までよりも会話が少ない。
でも、不思議と気まずくはなかった。
無理に何かを話さなくても、隣にいることが自然に感じられる。
七日前なら、こんなふうに思うこともなかったのかもしれない。
「……七日間、ありがとう」
私が言うと、朔は少しだけ笑った。
「こちらこそ」
「何それ」
「いや、俺も結構楽しかったから」
「……そっか」
少しだけ笑う。
久しぶりに帰ってきた夕凪町は、最初はどこか知らない町のように感じていた。
知っているはずの道も、見覚えのある景色も、どこか遠くにあるものみたいだった。
でも、この七日間を過ごしているうちに、少しずつその距離が近くなっていた。
今では、ここを離れることを考えると、少しだけ寂しい。
それでも、来たときのような不安はなかった。
「また……」
言いかけて、言葉が止まる。
また来る。
また会おう。
どちらも、今は簡単には言えなかった。
私は少し考えてから、別の言葉を口にした。
「今度はさ、朔が東京に来なよ」
「俺が?」
「うん。朔はずっとここにいたでしょ。たまには外の世界から夕凪町を見るのもいいんじゃない?」
朔は少し考えるように黙った。
それから、ふっと笑う。
「……じゃあ、そのうち行くか」
「ほんと?」
「たぶん」
「またそれ?」
「まだ分かんないだろ」
「もう」
思わず笑ってしまう。
そのとき、遠くから電車の音が聞こえてきた。
「来たみたい」
「うん」
ホームに電車が入ってくる。
ドアが開く。
私は荷物を持ち直して、朔を見る。
「じゃあ……」
「うん」
少しだけ迷ってから、私は笑った。
「またね」
今度は、ちゃんと言えた。
「またな」
電車に乗り込む。
ドアの前で振り返ると、朔はホームに立ったまま、こちらを見ていた。
私は小さく手を振る。
朔も、ほんの少し手を上げた。
やがてドアが閉まる。
電車がゆっくり動き出す。
窓の向こうで、朔の姿が少しずつ小さくなっていく。
駅を離れると、町の景色がゆっくり後ろへ流れていった。
海が見える。
家々が見える。
何度も歩いた道も、少しずつ遠ざかっていく。
私は窓の外を眺めながら、この町に帰ってきた日のことを思い出していた。
最初は、知っているはずの町が知らない町のように見えた。
帰ってきたはずなのに、どこか遠い場所にいるような気がしていた。
けれど、今は少し違う。
窓の外に、最後に海が見えた。
私はその景色を、静かに見つめる。
初めてこの町に帰ってきたときは、海がずっと遠くにあるように感じていた。
けれど今は、電車が離れていっても、そうは思わなかった。
またいつか、この海を見に来ればいい。
そう思いながら、私は窓の外へ目を向けた。
帰ってきてよかった。
今度は、確かにそう思えた。



