君を、君だと知らなかった

 『荷物、これだけでいいのか?』
 『うん。あとはアパートに送ってもらうし、必要なものは向こうで買うから』
 『そっか……』
 そう言いながら、湊が私の荷物を見る。
 『何、そんな悲しそうな顔してるのよ』
 『別に悲しくねぇし』
 『それはそれで、私が悲しいなぁ』
 『……なんだよ、それ』
 少しだけ笑って、私は駅のホームを見渡した。
 もうすぐ、電車が来る。
 『永遠の別れじゃないんだから』
 『分かってるって』
 そう言った湊が、少しだけ黙る。
 それから、ぽつりと言った。
 『……いつでも、帰ってきていいからな』
 『……』
 あのとき、私は何て答えたんだろう。
 ちゃんと返事をしたんだろうか。
 それとも――。


 朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
 帰る日の朝だった。
 目を覚ましてからしばらく、私はベッドの上でぼんやりしていた。
 昨日までなら、目を覚ました瞬間から今日の予定を考えていたかもしれない。
 けれど今日は、急ぐ理由もなかった。
 ゆっくり起き上がり、部屋を見回す。
 七日間過ごした部屋も、今日で最後だった。
 ベッドの上の服を畳む。
 机の上に置いていた本をバッグに入れる。
 窓際に置いていたスマホをポケットにしまう。
 七日間、ここで過ごした痕跡が、ひとつずつ消えていく。
 最後に、日記をバッグの中にしまった。
 今度は、置いていく気にはならなかった。
 荷物をまとめ終えてから、私はカーテンを開けた。
 少し先に、海が見える。
 この宿に着いた初日、ここから見た海は、ずっと近くにあるように感じていた。
 けれど今は、同じ景色なのに、少しだけ違って見える。
 この七日間で、もっと近くで海を見たからかもしれない。
 波の音を聞いて。
 夕焼けを見て。
 何度も、その前に立った。
 遠くから眺めていた海が、いつの間にか、自分の知っている場所になっていた。
 もうすぐ、この景色とも離れる。
 それでも、不思議と寂しさだけが残っているわけではなかった。
 またいつか、この海を見ることがあるような気がしていた。
 朝の海は、静かに揺れている。
 私はしばらく、その景色を眺めていた。
 最後に、部屋を見回す。
 来たときと同じ部屋だった。
 それなのに、今は少しだけ、自分の部屋のように感じる。
 窓から見える海も。
 机の上に置いた本も。
 この七日間に何度も開け閉めしたドアも。
 ここで過ごした時間が、部屋のどこかに残っている気がした。
 私は小さく笑って、部屋を出た。


 一階へ降りると、女将さんが帳場にいた。
 「おはようございます」
 「おはよう。もう出る時間なのね」
 「はい。お世話になりました」
 荷物を置き、チェックアウトの手続きをする。
 女将さんが宿帳を確認しながら、ふと顔を上げた。
 「ゆっくり休めたかしら?」
 「はい。すごく」
 「それならよかった」
 女将さんがにこりと笑う。
 「……なんだか、あっという間でした」
 「七日間なんて、過ぎてしまえば早いものよ」
 「そうですね」
 私は少しだけ笑った。
 「でも……やっぱり、いい町ですね」
 口にしてから、窓の外を見る。
 「そうでしょう?」
 女将さんも、窓の外へ目を向けた。
 その表情はどこか嬉しそうだった。
 「あら?」
 そのとき、女将さんが私の後ろへ目を向けた。
 「おはようございます」
 後ろから、聞き慣れた声がした。
 振り返ると、朔が入口に立っていた。
 「あら、朔くん。わざわざ来てくれたの?」
 「まあ、駅まで」
 「そう。ありがとうね」
 女将さんがそう言うのを聞いて、私は少しだけ驚いた。
 やっぱり、朔のことを知っていたんだ。
 この町にいると、どこへ行っても朔の名前を聞く。
 「そうそう、この前はありがとうね。二階の手すり、すっかり綺麗になって」
 「ああ、あれ。よかったです」
 「ほんと助かったわ。工務店の人に頼んだら、朔くんが来てくれてね」
 「いえ。仕事なんで」
 「それでも助かったわよ」
 女将さんが笑う。
 そういえば、二階の手すりが綺麗になっていたことを思い出す。
 宿に来たばかりの頃は気にも留めなかったけれど、こういうところにも、朔がこの町で暮らしていることが残っていたんだ。
 私は二人のやり取りを見ながら、自然と笑っていた。
 私が十年離れていた間も、朔はずっと、この町にいた。
 私の知らないところで、誰かの困りごとを直したり、頼られたりしながら。
 そんなことを考えていると、女将さんがふと口を開いた。
 「そういえば朔くん、昔よく話してたわよね。海に行ってた友達のこと」
 「その話はいいですって……」
 朔が少し困ったように笑って、視線を逸らす。
 耳がほんの少し赤くなっているのが見えた。
 「海に行ってた友達?」
 思わず聞き返すと、女将さんが朔を見る。
 「ほら、写真を撮るのが好きだった子と、もう一人……」
 女将さんはそう言いながら、何かを思い出すように少し考える。
 それから、ゆっくりと私へ視線を向けた。
 「……もしかして、茜ちゃんのこと?」
 朔が少しだけ照れたように笑う。
 「……そうです」
 そうだったんだ。
 朔は、ちゃんと覚えていた。
 私たち三人で過ごした時間を。
 湊の手紙に書いてあったとおりだった。
 私たちがこの町を離れている間も、朔はずっとここにいて、三人で過ごした時間を覚えていた。
 海も、秘密基地も、この町で過ごした何気ない日々も。
 きっと、誰に言うでもなく、大切に抱えてきたんだ。
 「そうだったのね」
 女将さんが、私たちを見ながら嬉しそうに笑う。
 「じゃあ、今度は三人で泊まりにおいでね」
 「……そうですね」
 私は自然にそう答えていた。
 その言葉を口にしてから、少しだけ間が空く。
 三人。
 その言葉が、今は不思議と遠く感じなかった。
 私は隣にいる朔を見る。
 「……いつか、また三人で来られたらいいですね。朔」
 朔は一瞬だけ私を見る。
 それから、静かに笑った。
 「……そうだな」
 女将さんにもう一度お礼を言って、私はバッグを肩にかけた。
 「それじゃあ、行こうか」
 「うん」
 朔が先に玄関の扉を開ける。
 外へ出ると、朝の空気が頬に触れた。
 「……お世話になりました」
 振り返って、もう一度頭を下げる。
 「またいつでもいらっしゃい」
 背中から女将さんの声が聞こえた。
 「はい」
 私は振り返って笑った。