君を、君だと知らなかった

 タイムカプセルを埋め終えると、私たちはその場所を離れた。
 坂道を少し上っていく。
 さっきまで見えていた海が、建物の向こうへ少しずつ隠れていく。
 しばらく歩いたところで、木々の間から急に視界が開けた。
 小さな丘の上だった。
 海沿いに並ぶ家々。
 その向こうに見える商店街。
 遠くには、駅のあたりも見える。
 町全体を見渡せるような場所だった。
 「……こんなに見えるんだ」
 「ここ、町がよく見えるんだよ」
 朔が隣に立つ。
 私はしばらく黙って、町を眺めていた。
 ずっとここにあった町。
 私たちが笑っていた場所も。
 三人で走った道も。
 湊が先に行ってしまった坂道も。
 全部、この景色のどこかにある。
 「……ねえ、朔」
 「ん?」
 「……私、今まで勘違いしてた気がする」
 「どういうこと?」
 朔がこちらを見る。
 「ここに帰ってきて、周りの人たちはみんな私のことを覚えてるのに、私は何も覚えてなくて」
 言葉を選びながら、ゆっくり話す。
 「ずっと、何かを忘れてる気がしてた。それが何なのか見つけないとって思ってた」
 朔は何も言わなかった。
 ただ、静かに私の話を聞いている。
 「でも……たぶん、全部を忘れてたわけじゃなかったんだよね」
 私は町を見る。
 「ここに帰ってきてから、いろんな場所を見て、いろんな人と話して……。思い出せないのに、なんとなく知ってることがたくさんあった」
 秘密基地も。
 海までの道も。
 三つ並んだ石も。
 そして――。
 「湊のことだってそう」
 その名前を口にしても、もう昨日ほど胸が苦しくなることはなかった。
 「私の中では、湊はずっと過去の人になってたんだと思う」
 少しだけ間を置く。
 「なのに私、朔のことを湊と重ねてた」
 朔がわずかに目を伏せる。
 「朔が優しくしてくれるのも、私のことを気にかけてくれるのも……湊に似てるからだと思ってた」
 「……」
 「でも、違った」
 私は朔を見る。
 「朔の優しさは、朔のものだった」
 言葉にしてみると、今までどうして気づかなかったんだろうと思う。
 「昔も今も、朔はずっと私のそばにいてくれたんだよね」
 「……そうだな」
 朔が小さく頷く。
 「俺は俺だし」
 その言い方が少しだけ可笑しくて、私は笑った。
 「うん。そうだね」
 「湊と同じじゃなくても、隣にはいられるだろ」
 「……うん」
 その言葉が、静かに胸に残った。
 「湊の方が、ずっと前から気づいてたみたいだけどね。私は今になって、やっと気づいた」
 自分で言っておいて、少し恥ずかしくなる。
 「……何言ってるんだろ、私」
 「……別に」
 朔が小さく笑う。
 私はもう一度、町を見る。
 「私、きっと……過去の私を、今の自分から切り離してたんだと思う」
 少し長い沈黙が落ちた。
 風が、丘の上をゆっくり吹き抜けていく。
 やがて、朔が口を開いた。
 「……それも、無理ないんじゃないか」
 「え?」
 「十年って、長かったからな」
 朔は海を見たまま続ける。
 「今の生活があって、今の自分がいて。昔のことなんて、もう昔のことだって思うだろ」
 「……うん」
 「俺も、そうだった」
 「朔も?」
 「うん」
 朔は少し笑う。
 「昔のことは昔のことだって、勝手に決めつけてた」
 少し間を置いて、私を見る。
 「茜も、俺も、あの頃とは違う。だから、あの頃のことはもう別の時間なんだって」
 「……」
 「でも、そうでもなかったな」
 その言葉に、私は少しだけ朔を見る。
 「すぐ分かったよ」
 「何が?」
 「茜だって」
 思わず目を瞬く。
 「……どういう意味?」
 「昔から、誰かが先に行けば追いかけるし。自分が遅れてても、置いていかれると嫌がるくせに、意地だけは張るし」
 「……何それ」
 「そのまんまだろ」
 「ひどい」
 思わず笑ってしまう。
 朔も笑った。
 「変わったところもあるけど、そういうところは変わってない」
 その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
 「それに……」
 朔が少しだけ海へ視線を戻す。
 「お前の中には、ずっと湊との時間が残ってたんだろ」
 私は黙った。
 「今も。昔も。俺たちが離れてた間も」
 その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
 「……うん」
 小さく頷く。
 「たぶん、そうなんだと思う」
 朔はしばらく黙っていた。
 それから、海を見たままぽつりと言った。
 「……俺だって、湊のこと忘れたわけじゃないよ」
 私は何も言わず、朔を見る。
 「いなくなったあとも、たまに思い出した。あいつなら今、何してるんだろうなって」
 少しだけ笑う。
 「たぶん、相変わらずどこかで勝手に面白いもの見つけてるんだろうなって」
 その言葉に、私も少し笑った。
 「……そうかも」
 「だから、茜が思い出せないことを、俺が覚えてなきゃって思ってたわけじゃない」
 朔は少し考えてから続ける。
 「ただ……忘れたくなかったんだと思う」
 その声は、いつもより少しだけ小さかった。
 「三人でいた時間まで、なかったことになるのは嫌だったから」
 私は黙って聞いていた。
 「でも、今は……茜が少しずつ思い出してくれたから、それだけで十分だよ」
 朔がこちらを見る。
 「無理に全部、俺が覚えてなくてもいいのかもしれないな」
 その言葉に、私は少しだけ笑った。
 「……うん」
 少しだけ迷ってから、私は言った。
 「でも……今は、朔と一緒だよ」
 朔がこちらを見る。
 「朔のことも、ちゃんと見てる」
 自分で言うと、少し恥ずかしかった。
 それでも、今は伝えたかった。
 「今、私のそばにいるのは朔だから」
 一瞬、朔が黙る。
 それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。
 「……そりゃあ、どうも」
 照れ隠しみたいな言い方だった。
 「何それ」
 「いや。ちゃんと見てもらえてるなら、よかったなと思って」
 「……ふふ」
 私も笑った。
 少しだけ空気が軽くなったところで、私は海へ目を向ける。
 「でも……」
 「ん?」
 「三人で、また海を見ようっていう約束は……約束どおりにはならなかったね」
 朔の表情が少しだけ変わる。
 「結局、三人では見られなかった」
 しばらく、朔は黙っていた。
 それから、海を見たまま静かに言う。
 「……約束どおりじゃなくても、三人で過ごした時間までなくなるわけじゃないだろ」
 「……」
 私は朔を見る。
 「今日だって、ちゃんとここに残ってる」
 その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなった。
 さっき埋めたタイムカプセルを思い出す。
 昔の私たちが残したもの。
 今日、私たちが新しく残したもの。
 「……そうだね」
 私は小さく笑った。
 「約束が果たせなかったからって、あの時間までなかったことにはならないもんね」
 「うん」
 朔が頷く。
 「それに、俺たちがこうして覚えてるなら、それでいいだろ」
 私は海へ視線を戻す。
 全部を思い出せるわけじゃない。
 湊の顔だって、まだはっきりとは浮かばない。
 それでも、こうして話していると、少しずつ輪郭だけが戻ってくるような気がした。
 顔は思い出せないのに。
 こういうところは、少し分かる気がする。
 「……不思議だね」
 「何が?」
 「湊の顔は思い出せないのに、こういうこと言いそうだなって思える」
 朔が少しだけ笑う。
 「……ああ」
 「変なの」
 「でも、湊らしいだろ」
 「……うん」
 今度は、自然にそう思えた。
 海の向こうで、夕方の光がゆっくりと揺れている。
 私はその光を眺めながら、ふと思った。
 忘れていた時間も。
 思い出した時間も。
 今日ここで過ごしたことも。
 きっと全部、今の私の中にある。
 「……帰ろうか」
 「うん」
 立ち上がる。
 坂道を下りながら、私は一度だけ振り返った。
 丘の向こうに、夕凪町の景色が広がっている。
 思い出せないものがあってもいい。
 今の私が知っていることを、大切にしていけばいい。
 そんなふうに思いながら、私は朔と並んで坂道を下りていった。