君を、君だと知らなかった

 ***
 十年後の俺たちへ。
 ちゃんと三人でこれ開けてる?
 もし誰か一人でもいなかったら、約束破りだからな。
 まあ、そんなことないと思うけど。
 十年後って、どんな感じなんだろうな。
 俺はたぶん、いろんなところに行ってる。
 ここじゃない海も見て、知らない町にも行って、今まで見たことないものをいっぱい見てると思う。
 でも、いろんなところを見たあとで、またここに帰ってきて、
 やっぱりここが一番いいなって思えたらいい。
 そしたら、三人でまた海を見よう。

 ――朔へ。
 十年経っても、まだ生意気なこと言ってるか?
 昔から、朔に何か言われると、言い返したくなるんだよな。
 なんかムカつくけど、だいたい合ってるし。
 そういうところ、昔から妙に大人びてたよな。
 俺にとっては弟みたいなもんだと思ってたけど、気づいたら朔の方がしっかりしてることも多かった。
 俺が調子に乗ると止めるし、茜が困ってるとすぐ気づくし。
 三人でいると、なんだかんだ朔が一番周りを見てたよな。
 まあ、ちょっとうるさいけど。
 十年経っても、朔は朔のままでいいからな。
 あと、たまには俺のことも思い出せよ。
 忘れてたら普通にムカつくからな。

 ――茜へ。
 茜は十年後、何してるんだろうな。
 正直、全然想像つかない。
 俺が面白いと思ったものは、茜にも見てほしかった。
 「ここ行こうぜ」って言えば、なんだかんだついてきてくれたし。
 ……もしかして、茜が一番好きなのって俺なんじゃないかって、ちょっと思ったこともある。
 なんてな。
 まあ、そうだったらいいなーとは思ってたけど。
 ……今思うと、ちょっと調子乗ってたな。
 でも、これだけは忘れないで。
 茜の帰ってくる場所は、ちゃんとここにあるから。
 だから、どこに行ってもいいけど、たまには帰ってこいよ。

 じゃあ、また三人で会おう。

 P.S.
 朔も、まあ……大好きだぞ。
 ***

 最後まで読み終えて、私はしばらく手紙を見つめていた。
 紙の上に並ぶ文字を、もう一度ゆっくり目で追う。
 知らないはずの言葉なのに。
 読んでいるうちに、胸の奥で何かが小さく引っかかった。
 「……なんか、変な感じ」
 「何が?」
 「この手紙」
 私は少し考える。
 「初めて読んだはずなのに、初めて読んだ気がしない」
 朔が手紙を覗き込む。
 「……そうか?」
 「うん」
 もう一度、自分へ宛てた部分を見る。
 「『ここ行こうぜ』って、なんか……」
 言葉の続きを探す。
 「……そういえば、こんな感じだった気がする」
 「湊が?」
 「うん」
 自分で言ってから、少し驚いた。
 顔はまだ、はっきりと思い出せない。
 それなのに、声や言い方だけが、ぼんやり浮かんでくる。
 「なんか、勝手に先に行っちゃう感じ」
 「それは合ってる」
 朔が笑う。
 「やっぱり?」
 「昔からそうだった」
 「……そっか」
 私も少し笑った。
 手紙の最後に目を落とす。
 「『まあ……大好きだぞ』って、すごい付け足し方だね」
 「だろ?」
 朔が苦笑する。
 「俺の扱い、最後まで雑すぎない?」
 「でも……」
 私は手紙を見る。
 「ちゃんと朔のこと、大事に思ってたんだね」
 「……まあ、それは分かるけど」
 朔は少し照れたように、手紙から目を逸らした。
 私はその横顔を見ながら、ふと口にする。
 「そういえば、湊って……こういうところあったな」
 「どういうところ?」
 「言いたいことは好き勝手書くくせに、最後だけちょっと恥ずかしくなるところ」
 「……ああ」
 朔が小さく笑う。
 「確かに、あったな」
 その言葉を聞いて、私も少し笑った。
 手紙に書かれていることを読んでいると、知らなかったはずの湊の輪郭が、少しずつ見えてくる。
 明るくて。
 先に行って。
 面白いものを見つけると、誰かに教えたくなる。
 そんな姿が、ぼんやりと浮かんでは消えていく。
 「……不思議」
 「何が?」
 「顔は思い出せないのに」
 私は手紙の文字に目を落とす。
 「こういうところは、少し分かる気がする」
 朔は何も言わなかった。
 ただ、静かに手紙を見ていた。
 私は最初の方へ戻る。
 いろんな海を見て。
 知らない町へ行って。
 それでも、いつかここへ帰ってきたい。
 そんな言葉が書かれている。
 「……十年後のことなんて、本当に考えてたんだね」
 「まあ、あの頃は十年なんてずっと先だったからな」
 「うん」
 今の私からすれば、十年はあっという間だったようにも思う。
 でも、あの頃の私たちにとっては、きっとずっと遠い未来だった。
 「……三人でまた海を見よう、か」
 小さく呟く。
 その言葉が、胸の奥に静かに残った。
 「まだ、見てないね」
 朔がこちらを見る。
 「……そうだな」
 私は手紙をそっと閉じる。
 三人で見た海のことは、少しずつ思い出してきた。
 それでも、もう一度三人で見る海は、まだ知らない。
 そんなことを考えながら、私は手紙を封筒に戻そうとした。
 そのとき、ふと気づく。
 「……あれ?」
 「ん?」
 「まだ何か入ってる」
 封筒を傾ける。
 手紙の下から、もう一枚、紙が滑り落ちてきた。
 最初に読んだ手紙より、ひと回り小さい。
 二つ折りにされている。
 「これ……」
 私は紙を拾い上げる。
 「もう一枚、あったんだ」
 「最初から入ってたのか?」
 「どうだろ」
 二つ折りの紙を手の中で眺めていると、朔がふと口を開いた。
 「これさ、封筒開ける前に見つけたメモに似てないか?」
 「……ほんとだ」
 言われてみれば、確かにそうだった。
 紙の色も、折り目の感じも、どちらもまだ新しい。
 十年前の手紙は少し黄ばんでいるのに、この紙とさっきのメモだけは、ほとんど変わっていなかった。
 「……これ、いつ入れたんだろう」
 「いつって……」
 朔が紙を見る。
 「まさか」
 たぶん、考えていることは同じだった。
 「……そんなわけないだろ」
 「……だよね」
 私も頷く。
 そんなこと、あるはずがない。
 そう思いながらも、私はもう一度、二つ折りの紙を見つめた。
 「でも……」
 私は紙をそっと指でなぞる。
 「『読んでね』って、もしかしてこのこと?」
 朔が黙った。
 私も、その言葉の意味を考える。
 さっきのメモも。
 この紙も。
 まるで、私たちがこの手紙を読むことを知っていたみたいだった。
 「……そうかもしれないな」
 朔が小さく呟く。
 私は手の中の紙を見つめたまま、しばらく動けなかった。
 何が書いてあるのか分からない。
 開いてしまえば、それを知ることになる。
 「……気になるね」
 「うん」
 朔も紙を見る。
 「開けてみる?」
 私は少しだけ迷った。
 けれど、ここまで気になってしまったら、もう確かめずにはいられない。
 「……うん」
 私はゆっくりと二つ折りの紙を開いた。

 ***
 十年前の俺へ。
 ただいま。
 思ってたより町が変わってなくて、ちょっと驚いた。
 なんだか、十年前に戻ったみたいだった。
 俺は、あの頃の俺が思い描いてた場所まで、ちゃんと来られたよ。
 たくさんの海を見た。
 いろんな町にも行った。
 知らない場所を歩いて、知らない景色を見るのは、やっぱり楽しい。
 まだ見たことのないものが、こんなにたくさんあるんだって思った。
 でも、いろんな海を見てきて、やっぱりこの町が、この海が一番好きだって思った。
 それにしても、十年前の俺、こんなこと書いてたんだな。
 読み返してたら、ちょっと恥ずかしくなった。
 二人は、どんなことを書いたんだろう。
 せっかくだから、二人にもちゃんとメッセージを残しておく。

 ――朔へ。
 朔が約束を忘れるとは思ってないよ。
 たぶん、三人で開けないと意味がないって思ってたんだよな。
 約束の日だって、連絡すればよかったかな。
 俺が忘れてると思ったのかもしれない。
 実際は、俺が一人で開けちゃったわけだから、これじゃ俺の方が約束を破ったみたいだな。
 今もこの町に残ってるのかな。
 俺がいなくなったあとも、俺たちのことを覚えてるのは、たぶん朔なんだろうな。
 茜って、どうでもいいことは覚えてるくせに、大事なことは意外と忘れっぽいからな。
 俺も記憶力はいいとは言えないしさ。
 これから先、俺たちが忘れてしまったことを、朔だけが覚えてることも増えていくのかもしれない。
 今までみたいにさ。
 ……それって、結構しんどいよな。
 でも、俺は朔なら心配ないと思ってる。
 朔は昔から、俺たち三人のことをちゃんと見てくれてたから。
 俺が気づかないことにも気づいてたし、茜が困ってたら、いつの間にか隣にいた。
 俺にはできないことを、朔はできる。
 だから、茜のことを頼みたい。
 茜が何かを忘れても、無理に思い出させなくていい。
 あいつが自分で選んだ道を、ちゃんと見ていてやってくれ。
 でも、俺の代わりになろうとしなくていいからな。
 俺がいなくなったあとまで、俺たちのことを背負わなくていい。
 朔は朔のままでいてくれ。
 茜のことも、自分のことも、朔が思うようにすればいい。
 俺が勝手にいなくなったくせに、こんなこと言うのも変だけどさ。
 それでも、朔には朔自身の時間を生きてほしい。
 それが、俺の願いだ。

 ――茜へ。
 もしかして、怒ってるのかな。
 あの日、帰ってくるって約束したのに、守らなかったから。
 ちゃんと帰ってくるつもりだったんだけどな。
 俺、あのとき笑ってたけど、本当は伝えたいことがたくさんあった。
 でも、伝えたら今度は俺が茜から離れられなくなると思った。
 あの頃は、茜がそばにいることが当たり前だった。
 何か面白いものを見つけたら茜にも見せたかったし、どこかに行くときも、自然と茜が一緒にいるような気がしてた。
 たぶん、茜も同じだったんじゃないかな。
 だから、俺がいなくても、茜自身の世界を見つけてほしいと思った。
 そう考えたら、あのタイミングで離れるのも悪くないのかもしれないって思った。
 でも、もっとちゃんと話しておくべきだったな。
 茜がどんな気持ちで待ってたのか、ちゃんと考えてなかった。
 約束したのに帰ってこなくて、ごめんな。
 今さら謝っても、許してもらえるかは分からない。
 もし昔のことを忘れてしまっていても、それは悪いことじゃないと思う。
 茜が覚えてなくても、この町はちゃんと覚えてるから。
 海も、坂道も、秘密基地も。
 俺たちが笑ってたことも、くだらないことで騒いでたことも。
 久しぶりに帰ってきたら、最初は知らない町みたいに感じるかもしれない。
 でも、少し歩いてみれば、きっと分かるよ。
 変わってないものも、ちゃんとあるって。
 思い出せなくても、焦らなくていい。
 疲れたら、たまには立ち止まってもいい。
 帰ってくる場所は、ちゃんとここにあるから。

 思ったより長くなっちゃったな。
 本当はまだまだ言いたいことがあるけど、このくらいにしておく。
 二人とも、これからも元気で。
 それぞれの場所で、ちゃんと楽しくやってくれ。
 離れていても、俺たちは三人だから。
 たまには、三人でいた時間のことを思い出してくれたら嬉しい。
 それくらいでいいよ。

 七月二十八日 湊
 ***

 しばらく、何も話せなかった。
 朔から話を聞いた時も、日記を読んだ時も、夢の中で三人で過ごした時も、湊がいたことをどこか遠くに感じていた。
 思い出せそうなのに、手を伸ばしても届かない。
 そんな感覚だった。
 でも、この手紙には、湊がここに帰ってきたことが、ちゃんと残っている。
 十年前の約束を覚えていて、実際にこの場所まで来ていた。
 「……湊、来てたんだ」
 自分の声を聞いて、もう一度、手紙を見る。
 「ちゃんと……来てたんだ」
 十年前に約束した場所に。
 私が知らないところで。
 私の知らない十年間を過ごした湊が。
 今の私のことなんて知るはずもないのに、それでも手紙の中では、昔の私だけじゃなく、今の私に向けるような言葉まで残してくれていた。
 『この町はちゃんと覚えてるから』
 その言葉が、胸の奥に残った。
 帰ってきたはずなのに、知らない町みたいに感じていた。
 自分がここにいたことさえ、どこか遠いことのように思えていた。
 そんな私に、湊は「忘れていてもいい」と言ってくれた。
 それでいいんだと、少しだけ許してもらえたような気がした。
 それでも、湊はこの町に帰ってきていた。
 そう思ったら、急に視界が滲んだ。
 「……なんで」
 自分でも気づかないうちに、涙が頬を伝っていた。
 どうして泣いているのかは、分からなかった。
 約束を破られたことなのか。
 手紙を残してくれたことなのか。
 それとも――。
 一度拭ったはずなのに、また涙が落ちた。
 「……茜、泣いてる?」
 朔の声に、顔を上げる。
 「え?」
 慌てて頬を拭う。
 「大袈裟じゃない?」
 朔が少し困ったように笑う。
 「でも……」
 私は朔の顔を見る。
 「……朔も泣いてる」
 「……え?」
 朔は一瞬、意味が分からないような顔をした。
 それから、自分の頬に触れる。
 指先が濡れているのを見て、少しだけ目を見開いた。
 「……ほんとだ」
 自分でも気づいていなかったらしい。
 朔は困ったように笑って、手の甲で涙を拭った。
 「……なんでだろ。手紙、読んだだけじゃん」
 「……うん」
 朔の言うとおりだった。
 ただ手紙を読んだだけだ。
 そこに湊がいるわけでもない。
 声が聞こえたわけでもない。
 それなのに、二人とも泣いていた。
 「……変なの」
 私が小さく笑うと、朔も笑った。
 「ほんとにな」
 少しだけ笑って、それから二人でまた手紙を見る。
 もう一度、そこに書かれた文字を追う。
 十年前の湊が残した言葉。
 そして、十年後に湊がここへ帰ってきて残した言葉。
 どちらも、ちゃんとここにある。
 「……湊、ほんとにいたんだね」
 ぽつりと呟くと、朔は少しだけ黙ってから、
 「うん」
 と答えた。
 「……ずっと、いたよ」
 その言葉を聞いて、私は小さく頷いた。
 しばらく、二人とも何も言わなかった。
 手紙を見つめたまま、私はゆっくり息を吐く。
 泣いたせいか、胸の奥にあったものが少しだけ軽くなった気がした。
 「……ねえ、朔」
 「ん?」
 「これ、どうする?」
 私は手の中の手紙を見る。
 朔も少し考えるように手紙を見た。
 「どうするって?」
 「タイムカプセル」
 「ああ……」
 朔が、少しだけ困ったように笑う。
 「もう一回、埋める?」
 「……もう一回?」
 「うん」
 「また十年後に開けるの?」
 「さあ」
 朔が肩をすくめる。
 「別に、十年後じゃなくてもいいんじゃないか」
 「じゃあ、いつ?」
 「さあな」
 「適当だなあ」
 「茜が決めればいいだろ」
 「私?」
 「うん」
 そう言われて、私は少し考える。
 「うーん……。今回は湊の誕生日に開けるって決めてたから……」
 私は少し考えてから、笑った。
 「次は私の誕生日とか?」
 「じゃあ、その次は俺の誕生日な」
 「え?」
 「三人分、順番にすればいいだろ」
 「ああ……そっか」
 私は少し笑った。
 「それなら、忘れなさそう」
 「どうだろうな」
 朔も笑う。
 私は少し離れたところに置いてあった古い缶を見る。
 十年前の手紙は、もう全部取り出してある。
 「……じゃあ、また未来の自分に向けて手紙を書こうかな」
 「そうだな」
 朔が頷く。
 私はバッグからノートとペンを取り出した。
 少し考えてから、ページを開く。
 『ちょっと遅れたけど、ちゃんと手紙を読んだよ。
 帰ってこられる場所があるって、なんだか安心するね。』
 「……こんなものかな」
 それだけ書いて、私はペンを置いた。
 「……それだけ?」
 「うん」
 「短いな」
 「いいの」
 私は紙を小さく折る。
 「これだけでも、ちゃんとここにいたって残せるでしょ?」
 朔は少しだけ考えてから、頷いた。
 「うん。十分だと思う」
 「じゃあ、朔も書いて」
 「俺も?」
 「だって、二人で埋めるんだから」
 「……分かった」
 私はペンと紙を朔に渡した。
 朔は少し考えてから、静かに文字を書き始める。
 何を書いているのかは、見ないことにした。
 十年前と同じだ。
 きっと、こういうのは読まない方がいい。
 「書けた?」
 「ああ」
 朔が紙を折る。
 「何書いたの?」
 「秘密」
 「えー」
 「いつか読めばいいだろ」
 「そのとき、覚えてるかな」
 「覚えてなかったら、そのとき考えればいい」
 「何それ」
 二人で笑った。
 それから、二人で古いタイムカプセルを開けた場所まで戻る。
 もう一度、土を掘る。
 今度は、十年前の約束を果たすためじゃない。
 未来の誰かに、何かを残すためでもない。
 ただ、今日ここにいたことを、少しだけ残しておきたかった。
 缶を土の中に戻して、二人で土をかぶせる。
 「……これでいいかな」
 「うん」
 朔が立ち上がる。
 私も土のついた手を見て、少し笑った。
 「今度は、ちゃんと二人で開けようね」
 「……ああ」
 「三人でもいいけど」
 そう言ってから、自分で少し笑う。
 朔も、何も言わずに笑った。
 私はもう一度、埋めた場所を見る。
 十年前の私たちが残したものは、もう手元にはない。
 でも、それでいい気がした。
 今日ここで見つけたものも。
 今日ここで残したものも。
 いつか誰かが見つけるまで、ここに置いておけばいい。