君を、君だと知らなかった

 「次は夕凪――夕凪――」

 車内アナウンスを聞きながら、私は窓の外を眺めていた。
 新幹線と在来線を乗り継ぎ、ようやく夕凪町(ゆうなぎちょう)へたどり着いた。
 朝に東京を出発したのに、すっかり昼を回っている。
 瀬戸内海に面した、小さな港町――夕凪町。
 人口も少なく、町にある高校はひとつだけ。
 大学へ進学するためにこの町を離れてから、十年。
 私は久しぶりに、故郷へ帰ってきた。
 電車がゆっくりとホームへ滑り込む。
 窓の外に見えるのは、昔と変わらないような、少しだけ違うような町並みだった。
 駅のホームには人影がほとんどない。
 東京なら、昼間でも人の流れが途切れることなんてないのに。
 電車のドアが開く。
 私は荷物を持ち上げ、ホームへ降りた。
 途端に、東京とは違う静けさが耳に入ってくる。
 電車が去っていくと、その音さえ遠ざかっていった。
 目を閉じて、小さく息を吸う。
 ほのかに潮の香りがした。
 その匂いだけは、覚えている気がした。
 「久しぶりかい?」
 周囲を見回していると、低めの声で声をかけられた。
 「え?」
 振り向くと、駅員さんがこちらを見ていた。
 「そんな感じがしたから」
 そう言って、少し笑う。
 「……なんだか、懐かしいような、知らない場所に来たような。不思議な気持ちです」
 ここが自分の故郷だということは、頭では分かっている。
 それなのに、初めてこの場所に来たような気がした。
 「この辺りって、こんなに静かでしたっけ?」
 思わず尋ねる。
 駅員さんは少し考えるようにしてから、笑った。
 「昔からこんなもんだよ」
 「そうですか」
 「東京から来たら、余計そう感じるかもしれないね」
 「……そうかもしれません」
 自分でも、少しよそよそしい返事だと思った。
 駅員さんは気にした様子もなく、穏やかに続ける。
 「せっかくここまで来たんだ。ゆっくりしていくといいよ」
 「ありがとうございます」
 その言葉を聞いて、私は少しだけ首を傾げた。
 私がどこから来たのか、駅員さんは知っているのだろうか。
 それとも、ただの気遣いなのだろうか。
 考えても分からなかった。


 駅を出ると、強い日差しが照りつけてきた。
 東京とは違う暑さだった。
 気温が低いわけではない。
 むしろ、十分暑い。
 それでも、建物や車に囲まれていた東京の暑さとは少し違って感じられた。
 空が広い。
 それだけで、こんなにも違うものなのかと思う。
 私はスマホを取り出し、地図アプリを開いた。
 「旅館は確か……こっち側だったかな」
 画面に表示された地図と、かすかに残っている記憶を頼りに歩き始める。
 駅前には小さな商店がいくつか並んでいた。
 昔、ここに何があったのか。
 思い出そうとしてみる。
 けれど、すぐには何も浮かばなかった。
 覚えているような気もする。
 でも、それが本当に自分の記憶なのか、昔見た写真や聞いた話なのかは分からない。
 私はそれ以上考えず、旅館へ向かった。
 駅前の角を曲がると、古い文房具店があった。
 店先には色褪せたポスターと、子ども向けの花火が並んでいる。
 その隣には、小さな八百屋があった。
 店先に積まれたトマトを見ていると、奥からおばあさんが顔を出した。
 「暑いねえ」
 「……そうですね」
 「東京から来たの?」
 突然そう聞かれて、私は少し驚いた。
 「え?」
 「その荷物と格好じゃ、この辺の人には見えないから」
 「ああ……はい。東京からです」
 「そう。気をつけてね」
 それだけ言うと、おばあさんは店の奥へ戻っていった。
 私は少しだけ立ち止まって、その背中を見送る。
 東京なら、知らない人にこんなふうに声をかけられることはほとんどない。
 けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
 蝉の鳴き声が、町のあちこちから聞こえてくる。
 その声を聞いていると、遠い昔の夏が、ほんの少しだけ近づいてくるような気がした。