「次は夕凪――夕凪――」
車内アナウンスを聞きながら、私は窓の外を眺めていた。
新幹線と在来線を乗り継ぎ、ようやく夕凪町へたどり着いた。
朝に東京を出発したのに、すっかり昼を回っている。
瀬戸内海に面した、小さな港町――夕凪町。
人口も少なく、町にある高校はひとつだけ。
大学へ進学するためにこの町を離れてから、十年。
私は久しぶりに、故郷へ帰ってきた。
電車がゆっくりとホームへ滑り込む。
窓の外に見えるのは、昔と変わらないような、少しだけ違うような町並みだった。
駅のホームには人影がほとんどない。
東京なら、昼間でも人の流れが途切れることなんてないのに。
電車のドアが開く。
私は荷物を持ち上げ、ホームへ降りた。
途端に、東京とは違う静けさが耳に入ってくる。
電車が去っていくと、その音さえ遠ざかっていった。
目を閉じて、小さく息を吸う。
ほのかに潮の香りがした。
その匂いだけは、覚えている気がした。
「久しぶりかい?」
周囲を見回していると、低めの声で声をかけられた。
「え?」
振り向くと、駅員さんがこちらを見ていた。
「そんな感じがしたから」
そう言って、少し笑う。
「……なんだか、懐かしいような、知らない場所に来たような。不思議な気持ちです」
ここが自分の故郷だということは、頭では分かっている。
それなのに、初めてこの場所に来たような気がした。
「この辺りって、こんなに静かでしたっけ?」
思わず尋ねる。
駅員さんは少し考えるようにしてから、笑った。
「昔からこんなもんだよ」
「そうですか」
「東京から来たら、余計そう感じるかもしれないね」
「……そうかもしれません」
自分でも、少しよそよそしい返事だと思った。
駅員さんは気にした様子もなく、穏やかに続ける。
「せっかくここまで来たんだ。ゆっくりしていくといいよ」
「ありがとうございます」
その言葉を聞いて、私は少しだけ首を傾げた。
私がどこから来たのか、駅員さんは知っているのだろうか。
それとも、ただの気遣いなのだろうか。
考えても分からなかった。
駅を出ると、強い日差しが照りつけてきた。
東京とは違う暑さだった。
気温が低いわけではない。
むしろ、十分暑い。
それでも、建物や車に囲まれていた東京の暑さとは少し違って感じられた。
空が広い。
それだけで、こんなにも違うものなのかと思う。
私はスマホを取り出し、地図アプリを開いた。
「旅館は確か……こっち側だったかな」
画面に表示された地図と、かすかに残っている記憶を頼りに歩き始める。
駅前には小さな商店がいくつか並んでいた。
昔、ここに何があったのか。
思い出そうとしてみる。
けれど、すぐには何も浮かばなかった。
覚えているような気もする。
でも、それが本当に自分の記憶なのか、昔見た写真や聞いた話なのかは分からない。
私はそれ以上考えず、旅館へ向かった。
駅前の角を曲がると、古い文房具店があった。
店先には色褪せたポスターと、子ども向けの花火が並んでいる。
その隣には、小さな八百屋があった。
店先に積まれたトマトを見ていると、奥からおばあさんが顔を出した。
「暑いねえ」
「……そうですね」
「東京から来たの?」
突然そう聞かれて、私は少し驚いた。
「え?」
「その荷物と格好じゃ、この辺の人には見えないから」
「ああ……はい。東京からです」
「そう。気をつけてね」
それだけ言うと、おばあさんは店の奥へ戻っていった。
私は少しだけ立ち止まって、その背中を見送る。
東京なら、知らない人にこんなふうに声をかけられることはほとんどない。
けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
蝉の鳴き声が、町のあちこちから聞こえてくる。
その声を聞いていると、遠い昔の夏が、ほんの少しだけ近づいてくるような気がした。
駅から二十分ほど歩いたところで、目的の旅館が見えてきた。
木造の二階建て。
入口には、少し古びた木の看板が掛かっている。
『夕凪荘』
築四十年から五十年ほどだろうか。
潮風にさらされて、ところどころ木が傷んでいる。
それでも、窓はきれいに磨かれ、軒下にもほこりひとつ見当たらない。
古さを残したまま、丁寧に手入れされているのが分かった。
私は一度だけ外観を見上げ、それから玄関へ向かった。
カラ……ン。
引き戸を開けると、小さなベルが鳴った。
入口の下駄箱の上には、小さなひまわりが一輪飾られている。
「いらっしゃいませ」
奥から、夏らしい涼しげな着物を着た女性が出てきた。
「こんにちは」
「はい、こんにちは」
柔らかい笑顔を向けられる。
「今日からお世話になりたいんですけど……予約はしていなくて」
「まあ。お名前を伺ってもいいかしら?」
「山本茜です」
そう名乗った瞬間、女将さんの目が少し大きくなった。
「あら……もしかして、茜ちゃん?」
「……はい?」
まるで私のことを知っているかのような口ぶりに、思わず聞き返す。
すると女将さんは、納得したように笑った。
「やっぱり。まあ……こんなに大きくなって」
「私のこと、ご存じなんですか?」
「昔、ご家族でうちに泊まってくれたでしょう? 確か、茜ちゃんが五歳くらいの頃だったかしら」
「五歳……」
言われて、記憶を探る。
畳の部屋。
家族で泊まった旅館。
そんな断片が、ぼんやり浮かんだ。
でも、それだけだった。
「覚えてないかしら?」
「すみません……。あまり覚えてなくて」
正直に答えると、女将さんは少しも気にした様子を見せなかった。
「まあ、小さい頃の話だもの。無理もないわ」
そう言ってから、私の顔をじっと見る。
「でも、優しそうな表情とか、そのきれいな目は昔のままね」
「……そうですか?」
「ええ」
女将さんは嬉しそうに笑った。
その言葉を聞いて、胸の奥がほんの少しだけざわつく。
昔の自分のことを知っている人が、目の前にいる。
それが嬉しいのか、少し居心地が悪いのか、自分でもよく分からなかった。
「いけないわ。立ち話もなんだから、部屋へ案内するわね」
女将さんはそう言って、廊下の奥へ歩き出した。
「茜ちゃんには、とっておきの部屋を用意してあるの」
「とっておき……?」
「ふふ。来てからのお楽しみ」
私は女将さんの後ろをついて歩いた。
廊下を進むにつれて、建物の中の様子がよく見えてくる。
外観だけでなく、内部も隅々まで丁寧に手入れされていた。
古い階段には新しい木材が使われていて、二階の廊下にある手すりもきれいに直されている。
「ここ、最近直したんですか?」
「ええ。少しずつね。古い旅館だから、手を入れないとすぐ傷んじゃうのよ」
女将さんは手すりに軽く触れながら笑った。
「昔のものを残すのも、結構大変なのよ」
「そうなんですね」
「でも、ここまで続けてきたんだもの。できるだけ長く残したいでしょう?」
「……素敵ですね」
何気なくそう言うと、女将さんは嬉しそうに笑った。
「そう言ってもらえると嬉しいわ」
案内されたのは、八畳ほどの小さな和室だった。
畳の匂いが、ふわりと鼻をくすぐる。
その匂いに、なぜか少しだけ心が緩んだ。
「この部屋ね、少しだけど海が見えるのよ」
女将さんが窓の方へ歩いていき、固そうな窓を両手で開ける。
「ほんとだ……」
目の前に海が広がっているわけではない。
屋根や電線の向こうに、ほんの少し見えるだけだ。
それでも、その先にずっと海が続いているように感じられた。
「ふふっ。気に入ってくれたみたいね」
「……はい」
窓から入ってきた風に、潮の香りが混じっている。
耳を澄ますと、遠くから波の音も聞こえた。
「あの海岸は、ここから歩いて行けるのよ。時間があったら行ってみるといいわ」
「そうですね……」
私はもう一度、窓の外へ目を向けた。
海は、思っていたより近くにある。
「じゃあ、夕ご飯は十八時からね。ゆっくりしてちょうだい」
「はい。ありがとうございます」
女将さんは部屋を出ていった。
一人になると、部屋が急に静かに感じられた。
私は荷物を開き、必要なものを取り出していく。
着替えを出して、化粧道具を洗面所へ置く。
スマホの充電器をコンセントにつなぐ。
東京の部屋と同じように、いつもの順番で荷物を片づけていく。
ひととおり終えると、布団の横に腰を下ろした。
スマホを開き、仕事のメールを確認する。
引き継ぎ内容をまとめた事務的なやり取りの中に、後輩からの短いメッセージが混ざっていた。
『楽しんできてください!』
その文字を見て、小さな笑みがこぼれる。
仕事を離れてから、まだ数時間しか経っていない。
それでも、少しだけ遠いことのように感じた。
時計を見る。
夕食まで、まだ時間がある。
せっかくだから、少し外を歩いてみようと思った。
荷物を軽く整え、部屋を出る。
一階へ下り、玄関へ向かっていると、女将さんが帳場から顔を上げた。
「あら、外出するの?」
「……ちょっと海に行ってみようかと。夕ご飯までには戻ります」
「そう。いってらっしゃい」
「……はい」
小さく返事をして、玄関の引き戸を開ける。
外へ出る直前、背中から声が追いかけてきた。
「気をつけてね」
「はい」
引き戸を閉める。
外の暑さが、また肌にまとわりついてきた。
私は一度だけ振り返り、閉じた旅館の扉を見る。
「いってらっしゃい……か」
小さく呟く。
この言葉を聞いたのは、いつぶりだろう。
静かな家に帰ることに慣れてから、こういう言葉をかけられることはほとんどなかった。
少しくすぐったい。
「行ってきます、って言えばよかったかな」
そんなことを考えて、すぐに小さく笑う。
家族でもないのに、変なの。
そう思いながら歩き出す。
けれど、しばらく歩いていると、さっきの言葉がなぜか残っていることに気づいた。
この町では、こういう何気ない言葉を普通に交わすのだろうか。
知らない人にも声をかける。
困っていれば手を貸す。
昔から、そういう町だったのかもしれない。
私はゆっくりと歩きながら、町の景色を眺めた。
東京では見慣れなかった、低い家々。
道の端に並ぶ植木鉢。
店先に置かれた小さな椅子。
軒先で昼寝をしている猫。
蝉の声。
潮の匂い。
どれも特別なものではない。
それなのに、ひとつひとつが妙に目に残った。
猫が私の方を一度だけ見る。
「……こんにちは」
なんとなく声をかける。
もちろん、猫は何も答えない。
そのまま、ゆっくりと塀の向こうへ消えていった。
私は少しだけ笑って、また歩き出した。
こういうところも、東京とは違う。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか駅の方へ戻ってきていた。
そのまま駅前を抜け、海岸へ続く道へ入る。
女将さんに教えてもらった近道ではない。
けれど、急ぐ必要もなかった。
持ってきたのはスマホだけ。
時計代わりにポケットへ入れ、ゆっくりと歩く。
「……静かだな」
東京では、どこにいても何かしら音がしていた。
車の音、人の話し声、電車の音。
ここでは、蝉の声がやけに大きく聞こえる。
駅で聞いた駅員さんの言葉を思い出す。
――昔からこんなもんだよ。
そういえば、昔もこんなふうに歩いていた気がする。
どこへ向かうでもなく、友達とくだらない話をしながら。
ふと、潮の匂いが強くなった。
建物の間から、青い海が覗いている。
その先に見えた防波堤に、なぜか目が止まった。
「……海だ」
さっき窓から見た海が、今は目の前に広がっている。
十年ぶりに見る海なのに、思っていたほど遠いものには感じなかった。
波の音も、潮の匂いも、夏の光も。
何も変わっていないように見える。
「……こんな海だったっけ」
そう呟いてみる。
答えてくれる人はいない。
ただ、波が何度も砂浜に打ち寄せている。
懐かしい。
そう思った。
けれど、それだけじゃなかった。
胸の奥が、ほんの少しだけ苦しい。
何かを思い出しそうなのに、あと少しのところで手が届かない。
その理由が分からないことが、少し怖かった。
その感覚を落ち着かせるように、私はゆっくりと目を閉じた。
最近、考え事をするときに目を閉じることが増えている気がする。
波の音を聞きながら、ゆっくり呼吸する。
何度か繰り返しているうちに、少しずつ肩の力が抜けていった。
『茜』
あぁ……。
また、この声だ。
波の音に混じって、うっすらと声が聞こえた。
この声を聞くと、あの日のことを思い出す。
「……あの日って?」
自分でも分からない気持ちが、胸の奥からゆっくりと浮かんでくる。
この場所で聞く声は、いつも以上に懐かしい。
だけど、この声が誰のものなのかは分からない。
そもそも、本当に私の知っている声なんだろうか。
答えの出ない疑問が、頭の中をゆっくり回る。
ここに来れば、何か分かる気がしていた。
でも、それもただの勘だったのかもしれない。
「……そろそろ戻ろうかな」
海に背を向けたところで、少し離れた場所に人影が見えた。
こちらへ歩いてくる。
私はなんとなく道の端へ寄り、俯き気味に歩き出した。
「やっと来たんだな」
すれ違う直前、声をかけられた。
聞き覚えのある声だった。
私は足を止める。
あの頃より少し低くなっている。
それでも、どこか懐かしい。
何より、変わらないこの話し方。
私はこの声を知っている。
「……朔」
振り返る。
そこには、記憶の中よりもずっと大人になった朔が立っていた。
顔を見た瞬間、懐かしさがこみ上げる。
けれど、それと同時に、また胸の奥が少しだけ痛んだ。
懐かしい。
それだけのはずなのに。
どうして、こんなふうに胸が苦しくなるんだろう。
雲の隙間から差し込んだ淡い光が、朔の顔を照らしていた。
今、この人は何を考えているんだろう。
嬉しいのか、寂しいのか。
それとも、何も考えていないのか。
私には分からなかった。
「今日こっちに来たのか?」
ぼんやりしていた私に、朔が声をかける。
「なんで分かったの?」
「いや……なんとなく」
「そっか」
それだけで、会話が途切れる。
再会した幼馴染とは思えないくらい、他人行儀な会話だった。
十年の空白は、思っていたより大きいのかもしれない。
「会いたかった」
「……え?」
朔が少しだけ笑う。
「って、茜の母さんが言ってた」
「あぁ……お母さんね」
「誰のことだと思ったんだよ」
「……別に」
また会話が途切れる。
昔は、もっと気軽に話せていた気がする。
何を話していたのかは思い出せない。
でも、こんなふうに言葉を探すことはなかったような気がした。
「……あのさ」
「何?」
何か話したい。
けれど、何を話せばいいのか分からない。
そんなとき、ふと思いついたことを口にした。
「朔って、昔からこの町にいたんだっけ?」
「……うん。ずっといたよ」
返事まで、ほんの少し間があった。
「そっか」
また短い返事になる。
それでも、不思議とその沈黙は嫌じゃなかった。
「茜は、どのくらいいるんだ?」
朔が海の方を見ながら聞く。
「一週間くらいかな」
「思ったより長いな」
「十年間離れてたことを考えれば、短い時間だよ」
口にしてから、自分でも少し変なことを言った気がした。
十年。
その言葉だけが、思った以上に重く残る。
「……それもそうか」
朔はそれ以上何も言わなかった。
「なんか、変わらないね」
「俺が?」
「うん」
思わず口から出た。
朔は少しだけこちらを見る。
けれど、「どこが?」とは聞かなかった。
そういうところも、昔と同じなのかもしれない。
「茜は……なんか変わったな」
「そう?」
「うん。なんか、いろいろ」
「いろいろ?」
聞き返したけれど、朔は少しだけ笑っただけだった。
その「いろいろ」が気になった。
でも、詳しく聞くのはやめた。
理由は分からない。
ただ、答えを聞くのが少しだけ怖かった。
「引き止めて悪かったな。そろそろ帰るところだろ」
「うん」
思ったより長く話していたらしい。
ポケットからスマホを取り出して時間を確認すると、夕食の時間が近づいていた。
「……じゃあ」
朔が言いかける。
私は、もうここで別れるのだと思った。
けれど、朔は少し考えてから、もう一度こちらを見る。
「明日、何か予定ある?」
「明日?」
「うん」
突然のことに、少しだけ戸惑う。
「特にないよ」
「友達とかと会ったりは?」
「こっち、知り合いそんなにいないし」
「じゃあ、俺も時間があれば付き合うよ」
予想していなかった言葉に、少しだけ驚いた。
「いいの?」
思ったより、嬉しそうな声が出た。
朔は気にした様子もなく、肩をすくめる。
「別に。こっちにいるし」
「じゃあ……お願いします」
「お願いしますって、固すぎだろ」
そう言って、朔の口元が少しだけ緩む。
私もつられて笑った。
その笑い方だけは、昔とあまり変わっていないような気がした。
「じゃあ、また明日」
「うん」
それだけ言って、私たちは別れた。
来た道を戻りながら、さっきの会話を思い返す。
まだ、昔みたいには話せない。
朔のことも、思っていた以上に知らない。
それでも、完全に知らない人というわけでもない。
そのくらいの距離が、今はちょうどよかった。
宿に戻ると、女将さんが食堂へ料理を運んでいるところだった。
私の姿に気づくと、顔を上げて笑う。
「あら、おかえりなさい」
「すみません。遅くなってしまって」
「いいのよ。ちょうどこれから夕ご飯の用意をするところだから」
女将さんが料理を運びながら、ふと思い出したようにこちらを見る。
「それより、海はどうだった?」
「とてもいい場所でした」
「そうでしょう?」
女将さんは嬉しそうに笑う。
「今日は少し曇っていたから分かりにくかったでしょうけど、あそこは夕日がとても綺麗に見えるのよ」
「夕日……」
「ええ。海岸から少し離れたところに、灯台が見えたでしょう?」
「はい。白凪灯台……でしたっけ」
「そうそう。白凪灯台ね」
「さっき見ただけですけど」
「あそこから見る夕日が一番綺麗なの。私、あそこ好きなのよ」
女将さんが懐かしそうに海の方へ目を向ける。
「……そういえば」
何か思い出したように、こちらを見る。
「朔くんに会った?」
「……どうして分かったんですか?」
「あの子、海が好きなのよ」
女将さんはくすっと笑った。
「しょっちゅう海岸に行ってるみたいだから、もしかしたら今日もいるんじゃないかと思って」
「そうだったんですね」
答えながら、私はさっき海で会った朔の姿を思い出した。
そういえば、彼はどうしてあそこにいたんだろう。
海が好きだから。
女将さんの言葉を思い出す。
それなら、別に不思議なことじゃない。
そう思うと、それ以上考える気にはならなかった。
今日は、いろんなことがあった。
十年ぶりに町へ帰ってきて、海を見て、朔にも会った。
分からないことは、まだたくさんある。
けれど、今すぐ答えを出さなくてもいい気がした。
夕食を終えて部屋に戻ると、窓の外はすっかり暗くなっていた。
窓を少し開ける。
昼間はあれほど大きく聞こえていた蝉の声も、今は遠い。
代わりに、かすかな波の音が聞こえてくる。
部屋の明かりを落とし、布団に入る。
東京にいた頃は、眠る前まで明日の仕事のことを考えていた。
けれど今日は、明日のことは明日になってから考えればいい。
「……おやすみ」
誰に言うでもなく、小さく呟いた。
車内アナウンスを聞きながら、私は窓の外を眺めていた。
新幹線と在来線を乗り継ぎ、ようやく夕凪町へたどり着いた。
朝に東京を出発したのに、すっかり昼を回っている。
瀬戸内海に面した、小さな港町――夕凪町。
人口も少なく、町にある高校はひとつだけ。
大学へ進学するためにこの町を離れてから、十年。
私は久しぶりに、故郷へ帰ってきた。
電車がゆっくりとホームへ滑り込む。
窓の外に見えるのは、昔と変わらないような、少しだけ違うような町並みだった。
駅のホームには人影がほとんどない。
東京なら、昼間でも人の流れが途切れることなんてないのに。
電車のドアが開く。
私は荷物を持ち上げ、ホームへ降りた。
途端に、東京とは違う静けさが耳に入ってくる。
電車が去っていくと、その音さえ遠ざかっていった。
目を閉じて、小さく息を吸う。
ほのかに潮の香りがした。
その匂いだけは、覚えている気がした。
「久しぶりかい?」
周囲を見回していると、低めの声で声をかけられた。
「え?」
振り向くと、駅員さんがこちらを見ていた。
「そんな感じがしたから」
そう言って、少し笑う。
「……なんだか、懐かしいような、知らない場所に来たような。不思議な気持ちです」
ここが自分の故郷だということは、頭では分かっている。
それなのに、初めてこの場所に来たような気がした。
「この辺りって、こんなに静かでしたっけ?」
思わず尋ねる。
駅員さんは少し考えるようにしてから、笑った。
「昔からこんなもんだよ」
「そうですか」
「東京から来たら、余計そう感じるかもしれないね」
「……そうかもしれません」
自分でも、少しよそよそしい返事だと思った。
駅員さんは気にした様子もなく、穏やかに続ける。
「せっかくここまで来たんだ。ゆっくりしていくといいよ」
「ありがとうございます」
その言葉を聞いて、私は少しだけ首を傾げた。
私がどこから来たのか、駅員さんは知っているのだろうか。
それとも、ただの気遣いなのだろうか。
考えても分からなかった。
駅を出ると、強い日差しが照りつけてきた。
東京とは違う暑さだった。
気温が低いわけではない。
むしろ、十分暑い。
それでも、建物や車に囲まれていた東京の暑さとは少し違って感じられた。
空が広い。
それだけで、こんなにも違うものなのかと思う。
私はスマホを取り出し、地図アプリを開いた。
「旅館は確か……こっち側だったかな」
画面に表示された地図と、かすかに残っている記憶を頼りに歩き始める。
駅前には小さな商店がいくつか並んでいた。
昔、ここに何があったのか。
思い出そうとしてみる。
けれど、すぐには何も浮かばなかった。
覚えているような気もする。
でも、それが本当に自分の記憶なのか、昔見た写真や聞いた話なのかは分からない。
私はそれ以上考えず、旅館へ向かった。
駅前の角を曲がると、古い文房具店があった。
店先には色褪せたポスターと、子ども向けの花火が並んでいる。
その隣には、小さな八百屋があった。
店先に積まれたトマトを見ていると、奥からおばあさんが顔を出した。
「暑いねえ」
「……そうですね」
「東京から来たの?」
突然そう聞かれて、私は少し驚いた。
「え?」
「その荷物と格好じゃ、この辺の人には見えないから」
「ああ……はい。東京からです」
「そう。気をつけてね」
それだけ言うと、おばあさんは店の奥へ戻っていった。
私は少しだけ立ち止まって、その背中を見送る。
東京なら、知らない人にこんなふうに声をかけられることはほとんどない。
けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
蝉の鳴き声が、町のあちこちから聞こえてくる。
その声を聞いていると、遠い昔の夏が、ほんの少しだけ近づいてくるような気がした。
駅から二十分ほど歩いたところで、目的の旅館が見えてきた。
木造の二階建て。
入口には、少し古びた木の看板が掛かっている。
『夕凪荘』
築四十年から五十年ほどだろうか。
潮風にさらされて、ところどころ木が傷んでいる。
それでも、窓はきれいに磨かれ、軒下にもほこりひとつ見当たらない。
古さを残したまま、丁寧に手入れされているのが分かった。
私は一度だけ外観を見上げ、それから玄関へ向かった。
カラ……ン。
引き戸を開けると、小さなベルが鳴った。
入口の下駄箱の上には、小さなひまわりが一輪飾られている。
「いらっしゃいませ」
奥から、夏らしい涼しげな着物を着た女性が出てきた。
「こんにちは」
「はい、こんにちは」
柔らかい笑顔を向けられる。
「今日からお世話になりたいんですけど……予約はしていなくて」
「まあ。お名前を伺ってもいいかしら?」
「山本茜です」
そう名乗った瞬間、女将さんの目が少し大きくなった。
「あら……もしかして、茜ちゃん?」
「……はい?」
まるで私のことを知っているかのような口ぶりに、思わず聞き返す。
すると女将さんは、納得したように笑った。
「やっぱり。まあ……こんなに大きくなって」
「私のこと、ご存じなんですか?」
「昔、ご家族でうちに泊まってくれたでしょう? 確か、茜ちゃんが五歳くらいの頃だったかしら」
「五歳……」
言われて、記憶を探る。
畳の部屋。
家族で泊まった旅館。
そんな断片が、ぼんやり浮かんだ。
でも、それだけだった。
「覚えてないかしら?」
「すみません……。あまり覚えてなくて」
正直に答えると、女将さんは少しも気にした様子を見せなかった。
「まあ、小さい頃の話だもの。無理もないわ」
そう言ってから、私の顔をじっと見る。
「でも、優しそうな表情とか、そのきれいな目は昔のままね」
「……そうですか?」
「ええ」
女将さんは嬉しそうに笑った。
その言葉を聞いて、胸の奥がほんの少しだけざわつく。
昔の自分のことを知っている人が、目の前にいる。
それが嬉しいのか、少し居心地が悪いのか、自分でもよく分からなかった。
「いけないわ。立ち話もなんだから、部屋へ案内するわね」
女将さんはそう言って、廊下の奥へ歩き出した。
「茜ちゃんには、とっておきの部屋を用意してあるの」
「とっておき……?」
「ふふ。来てからのお楽しみ」
私は女将さんの後ろをついて歩いた。
廊下を進むにつれて、建物の中の様子がよく見えてくる。
外観だけでなく、内部も隅々まで丁寧に手入れされていた。
古い階段には新しい木材が使われていて、二階の廊下にある手すりもきれいに直されている。
「ここ、最近直したんですか?」
「ええ。少しずつね。古い旅館だから、手を入れないとすぐ傷んじゃうのよ」
女将さんは手すりに軽く触れながら笑った。
「昔のものを残すのも、結構大変なのよ」
「そうなんですね」
「でも、ここまで続けてきたんだもの。できるだけ長く残したいでしょう?」
「……素敵ですね」
何気なくそう言うと、女将さんは嬉しそうに笑った。
「そう言ってもらえると嬉しいわ」
案内されたのは、八畳ほどの小さな和室だった。
畳の匂いが、ふわりと鼻をくすぐる。
その匂いに、なぜか少しだけ心が緩んだ。
「この部屋ね、少しだけど海が見えるのよ」
女将さんが窓の方へ歩いていき、固そうな窓を両手で開ける。
「ほんとだ……」
目の前に海が広がっているわけではない。
屋根や電線の向こうに、ほんの少し見えるだけだ。
それでも、その先にずっと海が続いているように感じられた。
「ふふっ。気に入ってくれたみたいね」
「……はい」
窓から入ってきた風に、潮の香りが混じっている。
耳を澄ますと、遠くから波の音も聞こえた。
「あの海岸は、ここから歩いて行けるのよ。時間があったら行ってみるといいわ」
「そうですね……」
私はもう一度、窓の外へ目を向けた。
海は、思っていたより近くにある。
「じゃあ、夕ご飯は十八時からね。ゆっくりしてちょうだい」
「はい。ありがとうございます」
女将さんは部屋を出ていった。
一人になると、部屋が急に静かに感じられた。
私は荷物を開き、必要なものを取り出していく。
着替えを出して、化粧道具を洗面所へ置く。
スマホの充電器をコンセントにつなぐ。
東京の部屋と同じように、いつもの順番で荷物を片づけていく。
ひととおり終えると、布団の横に腰を下ろした。
スマホを開き、仕事のメールを確認する。
引き継ぎ内容をまとめた事務的なやり取りの中に、後輩からの短いメッセージが混ざっていた。
『楽しんできてください!』
その文字を見て、小さな笑みがこぼれる。
仕事を離れてから、まだ数時間しか経っていない。
それでも、少しだけ遠いことのように感じた。
時計を見る。
夕食まで、まだ時間がある。
せっかくだから、少し外を歩いてみようと思った。
荷物を軽く整え、部屋を出る。
一階へ下り、玄関へ向かっていると、女将さんが帳場から顔を上げた。
「あら、外出するの?」
「……ちょっと海に行ってみようかと。夕ご飯までには戻ります」
「そう。いってらっしゃい」
「……はい」
小さく返事をして、玄関の引き戸を開ける。
外へ出る直前、背中から声が追いかけてきた。
「気をつけてね」
「はい」
引き戸を閉める。
外の暑さが、また肌にまとわりついてきた。
私は一度だけ振り返り、閉じた旅館の扉を見る。
「いってらっしゃい……か」
小さく呟く。
この言葉を聞いたのは、いつぶりだろう。
静かな家に帰ることに慣れてから、こういう言葉をかけられることはほとんどなかった。
少しくすぐったい。
「行ってきます、って言えばよかったかな」
そんなことを考えて、すぐに小さく笑う。
家族でもないのに、変なの。
そう思いながら歩き出す。
けれど、しばらく歩いていると、さっきの言葉がなぜか残っていることに気づいた。
この町では、こういう何気ない言葉を普通に交わすのだろうか。
知らない人にも声をかける。
困っていれば手を貸す。
昔から、そういう町だったのかもしれない。
私はゆっくりと歩きながら、町の景色を眺めた。
東京では見慣れなかった、低い家々。
道の端に並ぶ植木鉢。
店先に置かれた小さな椅子。
軒先で昼寝をしている猫。
蝉の声。
潮の匂い。
どれも特別なものではない。
それなのに、ひとつひとつが妙に目に残った。
猫が私の方を一度だけ見る。
「……こんにちは」
なんとなく声をかける。
もちろん、猫は何も答えない。
そのまま、ゆっくりと塀の向こうへ消えていった。
私は少しだけ笑って、また歩き出した。
こういうところも、東京とは違う。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか駅の方へ戻ってきていた。
そのまま駅前を抜け、海岸へ続く道へ入る。
女将さんに教えてもらった近道ではない。
けれど、急ぐ必要もなかった。
持ってきたのはスマホだけ。
時計代わりにポケットへ入れ、ゆっくりと歩く。
「……静かだな」
東京では、どこにいても何かしら音がしていた。
車の音、人の話し声、電車の音。
ここでは、蝉の声がやけに大きく聞こえる。
駅で聞いた駅員さんの言葉を思い出す。
――昔からこんなもんだよ。
そういえば、昔もこんなふうに歩いていた気がする。
どこへ向かうでもなく、友達とくだらない話をしながら。
ふと、潮の匂いが強くなった。
建物の間から、青い海が覗いている。
その先に見えた防波堤に、なぜか目が止まった。
「……海だ」
さっき窓から見た海が、今は目の前に広がっている。
十年ぶりに見る海なのに、思っていたほど遠いものには感じなかった。
波の音も、潮の匂いも、夏の光も。
何も変わっていないように見える。
「……こんな海だったっけ」
そう呟いてみる。
答えてくれる人はいない。
ただ、波が何度も砂浜に打ち寄せている。
懐かしい。
そう思った。
けれど、それだけじゃなかった。
胸の奥が、ほんの少しだけ苦しい。
何かを思い出しそうなのに、あと少しのところで手が届かない。
その理由が分からないことが、少し怖かった。
その感覚を落ち着かせるように、私はゆっくりと目を閉じた。
最近、考え事をするときに目を閉じることが増えている気がする。
波の音を聞きながら、ゆっくり呼吸する。
何度か繰り返しているうちに、少しずつ肩の力が抜けていった。
『茜』
あぁ……。
また、この声だ。
波の音に混じって、うっすらと声が聞こえた。
この声を聞くと、あの日のことを思い出す。
「……あの日って?」
自分でも分からない気持ちが、胸の奥からゆっくりと浮かんでくる。
この場所で聞く声は、いつも以上に懐かしい。
だけど、この声が誰のものなのかは分からない。
そもそも、本当に私の知っている声なんだろうか。
答えの出ない疑問が、頭の中をゆっくり回る。
ここに来れば、何か分かる気がしていた。
でも、それもただの勘だったのかもしれない。
「……そろそろ戻ろうかな」
海に背を向けたところで、少し離れた場所に人影が見えた。
こちらへ歩いてくる。
私はなんとなく道の端へ寄り、俯き気味に歩き出した。
「やっと来たんだな」
すれ違う直前、声をかけられた。
聞き覚えのある声だった。
私は足を止める。
あの頃より少し低くなっている。
それでも、どこか懐かしい。
何より、変わらないこの話し方。
私はこの声を知っている。
「……朔」
振り返る。
そこには、記憶の中よりもずっと大人になった朔が立っていた。
顔を見た瞬間、懐かしさがこみ上げる。
けれど、それと同時に、また胸の奥が少しだけ痛んだ。
懐かしい。
それだけのはずなのに。
どうして、こんなふうに胸が苦しくなるんだろう。
雲の隙間から差し込んだ淡い光が、朔の顔を照らしていた。
今、この人は何を考えているんだろう。
嬉しいのか、寂しいのか。
それとも、何も考えていないのか。
私には分からなかった。
「今日こっちに来たのか?」
ぼんやりしていた私に、朔が声をかける。
「なんで分かったの?」
「いや……なんとなく」
「そっか」
それだけで、会話が途切れる。
再会した幼馴染とは思えないくらい、他人行儀な会話だった。
十年の空白は、思っていたより大きいのかもしれない。
「会いたかった」
「……え?」
朔が少しだけ笑う。
「って、茜の母さんが言ってた」
「あぁ……お母さんね」
「誰のことだと思ったんだよ」
「……別に」
また会話が途切れる。
昔は、もっと気軽に話せていた気がする。
何を話していたのかは思い出せない。
でも、こんなふうに言葉を探すことはなかったような気がした。
「……あのさ」
「何?」
何か話したい。
けれど、何を話せばいいのか分からない。
そんなとき、ふと思いついたことを口にした。
「朔って、昔からこの町にいたんだっけ?」
「……うん。ずっといたよ」
返事まで、ほんの少し間があった。
「そっか」
また短い返事になる。
それでも、不思議とその沈黙は嫌じゃなかった。
「茜は、どのくらいいるんだ?」
朔が海の方を見ながら聞く。
「一週間くらいかな」
「思ったより長いな」
「十年間離れてたことを考えれば、短い時間だよ」
口にしてから、自分でも少し変なことを言った気がした。
十年。
その言葉だけが、思った以上に重く残る。
「……それもそうか」
朔はそれ以上何も言わなかった。
「なんか、変わらないね」
「俺が?」
「うん」
思わず口から出た。
朔は少しだけこちらを見る。
けれど、「どこが?」とは聞かなかった。
そういうところも、昔と同じなのかもしれない。
「茜は……なんか変わったな」
「そう?」
「うん。なんか、いろいろ」
「いろいろ?」
聞き返したけれど、朔は少しだけ笑っただけだった。
その「いろいろ」が気になった。
でも、詳しく聞くのはやめた。
理由は分からない。
ただ、答えを聞くのが少しだけ怖かった。
「引き止めて悪かったな。そろそろ帰るところだろ」
「うん」
思ったより長く話していたらしい。
ポケットからスマホを取り出して時間を確認すると、夕食の時間が近づいていた。
「……じゃあ」
朔が言いかける。
私は、もうここで別れるのだと思った。
けれど、朔は少し考えてから、もう一度こちらを見る。
「明日、何か予定ある?」
「明日?」
「うん」
突然のことに、少しだけ戸惑う。
「特にないよ」
「友達とかと会ったりは?」
「こっち、知り合いそんなにいないし」
「じゃあ、俺も時間があれば付き合うよ」
予想していなかった言葉に、少しだけ驚いた。
「いいの?」
思ったより、嬉しそうな声が出た。
朔は気にした様子もなく、肩をすくめる。
「別に。こっちにいるし」
「じゃあ……お願いします」
「お願いしますって、固すぎだろ」
そう言って、朔の口元が少しだけ緩む。
私もつられて笑った。
その笑い方だけは、昔とあまり変わっていないような気がした。
「じゃあ、また明日」
「うん」
それだけ言って、私たちは別れた。
来た道を戻りながら、さっきの会話を思い返す。
まだ、昔みたいには話せない。
朔のことも、思っていた以上に知らない。
それでも、完全に知らない人というわけでもない。
そのくらいの距離が、今はちょうどよかった。
宿に戻ると、女将さんが食堂へ料理を運んでいるところだった。
私の姿に気づくと、顔を上げて笑う。
「あら、おかえりなさい」
「すみません。遅くなってしまって」
「いいのよ。ちょうどこれから夕ご飯の用意をするところだから」
女将さんが料理を運びながら、ふと思い出したようにこちらを見る。
「それより、海はどうだった?」
「とてもいい場所でした」
「そうでしょう?」
女将さんは嬉しそうに笑う。
「今日は少し曇っていたから分かりにくかったでしょうけど、あそこは夕日がとても綺麗に見えるのよ」
「夕日……」
「ええ。海岸から少し離れたところに、灯台が見えたでしょう?」
「はい。白凪灯台……でしたっけ」
「そうそう。白凪灯台ね」
「さっき見ただけですけど」
「あそこから見る夕日が一番綺麗なの。私、あそこ好きなのよ」
女将さんが懐かしそうに海の方へ目を向ける。
「……そういえば」
何か思い出したように、こちらを見る。
「朔くんに会った?」
「……どうして分かったんですか?」
「あの子、海が好きなのよ」
女将さんはくすっと笑った。
「しょっちゅう海岸に行ってるみたいだから、もしかしたら今日もいるんじゃないかと思って」
「そうだったんですね」
答えながら、私はさっき海で会った朔の姿を思い出した。
そういえば、彼はどうしてあそこにいたんだろう。
海が好きだから。
女将さんの言葉を思い出す。
それなら、別に不思議なことじゃない。
そう思うと、それ以上考える気にはならなかった。
今日は、いろんなことがあった。
十年ぶりに町へ帰ってきて、海を見て、朔にも会った。
分からないことは、まだたくさんある。
けれど、今すぐ答えを出さなくてもいい気がした。
夕食を終えて部屋に戻ると、窓の外はすっかり暗くなっていた。
窓を少し開ける。
昼間はあれほど大きく聞こえていた蝉の声も、今は遠い。
代わりに、かすかな波の音が聞こえてくる。
部屋の明かりを落とし、布団に入る。
東京にいた頃は、眠る前まで明日の仕事のことを考えていた。
けれど今日は、明日のことは明日になってから考えればいい。
「……おやすみ」
誰に言うでもなく、小さく呟いた。



