君を、君だと知らなかった

 「……早く来いよ」
 誰かの声がした気がした。
 目を開ける。
 見慣れない天井が目に入った。
 一瞬だけ、まだ夏の光の中にいるような気がした。
 けれど、窓の外から聞こえてきたのは、町の朝の音だった。
 鳥の声。
 遠くを走る車の音。
 カーテンの隙間から差し込む光。
 ゆっくりと意識が戻ってくる。
 「……夢」
 口にすると、その言葉が妙にしっくりきた。
 昨日、あれだけ昔のことを考えたのだから、夢に出てきてもおかしくない。
 秘密基地にも行った。
 湊という名前も思い出した。
 朔から昔の話も聞いた。
 だから、昔の記憶が夢になって出てきただけなんだ。
 そう考えると、不思議と納得できた。
 夢の中では、三人で笑っていた。
 湊が先を走って、私と朔がその後ろを追いかけていた。
 最初は、湊のことばかり考えていた。
 あの声。
 あの笑い方。
 いつも少し先を走っていた背中。
 けれど、思い返しているうちに、別のことが気になった。
 夢の中の朔。
 あの頃の朔も、今とあまり変わっていなかった。
 湊が先に行けば、私のことを気にして。
 私が遅れれば、ちゃんと待って。
 「遅いから」なんて言いながら、手を差し出してくれた。
 あの頃から、朔はそうだった。
 湊の隣にいて。
 私の隣にもいて。
 三人でいることが、当たり前だった。
 そのことに気づいた瞬間、胸の奥が少し痛くなった。
 私は湊のことを忘れていた。
 それだけじゃない。
 朔と過ごした時間だって、全部を覚えていたわけじゃない。
 目の前にいる人が、昔からずっと私の隣にいたことさえ、私は忘れていた。
 「……ごめん」
 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
 朔に聞こえるはずもない。
 それでも、口にした。
 十年も経っている。
 忘れてしまうことだってある。
 そう思う。
 それはきっと、悪いことじゃない。
 昔の自分を否定したいわけじゃない。
 あの頃の私も。
 あの頃の朔も。
 湊も。
 確かに、そこにいた。
 忘れていたからといって、その時間まで消えるわけじゃない。
 そう思えた。
 だからもう、無理に全部思い出さなくてもいいのかもしれない。
 そんなことを考えながら、私はベッドから起き上がった。
 カーテンを開ける。
 朝の光が部屋いっぱいに広がった。
 今日は、どこへ行こう。
 そう考えたとき、なぜか海が浮かんだ。
 理由は分からない。
 ただ、海を見に行きたいと思った。
 前の日の朝、海へ向かったときとは違って、今日は急ぐ必要はない。
 私はゆっくり着替え、身支度を整えた。


 部屋を出ると、廊下の向こうから宿の人の声が聞こえてくる。
 「おはようございます」
 「おはよう。今日は早いね」
 「ちょっと海まで行ってきます」
 「そう。気をつけてね」
 「はい。いってきます」
 玄関を出る。
 朝の町は、まだ人通りが少なかった。
 歩き慣れてきた道を抜ける。
 見慣れてきたはずの町並みが、朝の光の中では少し違って見えた。
 商店のシャッター。
 家々の間から見える空。
 道端に残った雨の跡。
 潮の匂いが、少しずつ強くなっていく。
 海が近づいている。
 そう思うと、自然と歩く速度が少しだけ速くなった。
 けれど、あのときのように「早く行かなければ」とは思わなかった。
 ただ、海を見たかった。
 坂を下りる。
 角を曲がる。
 海へ続く道が見えてくる。
 その先から、波の音が聞こえた。
 堤防が見える。
 その向こうに、青い海が広がっている。
 そして、その前に人影があった。
 「朔?」
 声をかけると、人影が振り返った。
 「……茜」
 朔が目を丸くする。
 「おはよう」
 「……おはよう」
 朔は私の顔を見て、それから少し首を傾げた。
 「……なんでそんな息切れてんの?」
 「え?」
 「走ってきた?」
 私は自分の呼吸に気づいて、少しだけ戸惑う。
 「……走ったのかな」
 「自分で分かんないのかよ」
 「途中から、なんか急いでたみたい」
 「何で?」
 「……分かんない」
 朔が少し笑う。
 「まあ、そんな急がなくてもいいだろ」
 そう言って、海へ視線を戻す。
 「俺、どこにも行かないから」
 その言葉が、まるで今朝の私を呼んでいたものに答えてくれたように聞こえた。
 私は少しだけ朔を見る。
 どうしてそんなことを言ったのかは分からない。
 けれど、さっきまで胸の奥にあった焦るような気持ちが、すっとほどけていく。
 「……うん」
 それだけ答えて、私は朔の隣に並んだ。
 しばらく、二人の間に沈黙が続いた。
 前の日のことが、まだ少しだけ残っている。
 けれど、今は無理に何かを話さなくてもいい気がした。
 波の音だけが、途切れることなく聞こえている。
 やがて、朔がぽつりと口を開いた。
 「俺はさ、この海が好きなんだよ」
 朔の声が、波の音に混じって聞こえてくる。
 「海だけじゃなくて、この町も。この町の人たちのことも」
 私は黙って朔の横顔を見る。
 この数日間、一緒に過ごしてきて、少しずつ分かってきた。
 朔はこの町のことをよく見ている。
 道を歩けば、誰かに声をかけられる。
 店に入れば、自然に話が始まる。
 困っている人がいれば、当たり前のように手を貸す。
 そういう積み重ねが、今の朔を作っているのだと思う。
 「……それに」
 朔が少しだけ言葉を止める。
 海の向こうを見つめたまま、静かに続けた。
 「三人でいた時間も、好きだった」
 その言葉を聞いて、私は海へ視線を戻した。
 三人。
 その響きが、今は不思議と自然に聞こえた。
 少し前までなら、そこにいるはずの誰かを探そうとしていたかもしれない。
 けれど今は、ただその言葉を聞いていられた。
 「……昨日」
 私が口を開く。
 朔がこちらを見る。
 「ごめん」
 少しだけ間があった。
 「……俺も」
 「朔が謝ることじゃないよ」
 「いや。俺も、言い方きつかった」
 「ううん」
 私は首を横に振る。
 「私も、あんなこと聞かなきゃよかった」
 「……茜」
 「朔が困るの、分かってたはずなのに」
 「別に……」
 朔が言葉を濁す。
 「聞かれたこと自体は、いいんだよ」
 「でも」
 「ただ、ああいうこと聞かれると、俺もどう答えればいいか分かんなくなる」
 「……うん」
 昨日の言葉が、少しだけ蘇る。
 それでも、今は昨日ほど苦しくなかった。
 「ごめん」
 もう一度言う。
 朔はしばらく黙っていたけれど、やがて小さく息を吐いた。
 「もういいよ」
 「……ありがとう」
 「ただ」
 朔がこちらを見る。
 「次から、もう少し考えてから聞いてくれ」
 「……善処します」
 「絶対考えてないだろ」
 「そんなことないよ」
 「顔に出てる」
 「出てない」
 「出てる」
 「……もう」
 思わず笑ってしまう。
 朔も小さく笑った。
 さっきまで張りつめていた空気が、少しずつほどけていく。
 しばらく二人で海を眺めていると、朔が海へ視線を戻したまま口を開いた。
 「昨日、ちゃんと眠れた?」
 「うん」
 少し考えてから、私は答える。
 「夢を見た」
 「夢?」
 「うん。昨日話してた三人のこと」
 朔は何も言わずに聞いている。
 「三人で海に行ってた」
 「……そっか」
 「すごく普通だった」
 「何が?」
 「三人で笑ってて。湊が先に行って、私と朔が追いかけてて」
 朔が小さく笑う。
 「……あいつらしいな」
 「うん」
 私も笑った。
 「でもね」
 「ん?」
 「朔も、今と変わらなかった」
 「俺が?」
 「うん」
 「湊に待てって言ったり、私が遅いって言ったり」
 「……そんなことしてた?」
 「してたよ」
 「へえ」
 朔は少し考えるように海を見る。
 「まあ、昔からそんな感じだったのかもな」
 「そうだよ」
 「よく覚えてるな」
 「私は、今まで知らなかったけどね」
 そう言ってから、私は少しだけ朔を見る。
 「……ごめん」
 朔がこちらを見る。
 「何に?」
 「え?」
 「今の、ごめんって」
 朔は少し笑う。
 「何に対して?」
 私は少し考えてから、海へ視線を戻した。
 「……朔がずっと隣にいてくれたこと、ちゃんと分かってなかったから」
 「……そっか」
 朔は少しだけ黙った。
 それから、ふっと笑う。
 「……まあ、十年だからな」
 「うん」
 「そんなもんだろ」
 あまりにもあっさり言われて、私は少しだけ笑った。
 「そんなもん?」
 「そんなもん」
 「……そっか」
 「うん」
 朔はそれ以上、何も言わなかった。
 私も海へ視線を戻す。
 波が、ゆっくりと砂浜へ寄せては戻っていく。
 夢の中でも、こんなふうに海を見ていた気がした。
 けれど、夢の景色よりも、今見ている海の方がずっとはっきりしている。
 隣には、今の朔がいる。
 そのことが、なんとなく嬉しかった。