君を、君だと知らなかった

 ふと顔を上げると、少し離れたところに見慣れた姿がある。
 「……朔?」
 こちらに気づいた朔が、軽く手を上げた。
 「おかえり」
 「……ただいま?」
 思わずそう返してから、自分で笑ってしまう。
 「なんで『おかえり』なの」
 「実家から帰ってきたんだろ」
 「そうだけど」
 「じゃあ、合ってる」
 「なんか変」
 「そうか?」
 朔は平然としている。
 「昨日からこの町にいるんだから、もう半分こっちの人だろ」
 「半分って何」
 「じゃあ、三分の一」
 「もっと変になった」
 「じゃあ、宿の人に聞いてみるか」
 「絶対やめて」
 「なんで?」
 「恥ずかしいから」
 「俺が聞くだけだろ」
 「それが嫌なの」
 思わず笑う。
 朔も小さく笑った。
 昨日までなら、こんなふうに軽口を叩き合うこともなかった気がする。
 けれど、こうしていると、昔の距離が少しだけ戻ってきたようだった。
 「実家、どうだった?」
 朔が歩き出しながら聞く。
 「久しぶりだった」
 「変わってた?」
 「家はあんまり変わってなかった。私の部屋も、そのまま」
 「へえ」
 「机も残ってたし、昔の本もあった」
 「まだあるのか」
 「うん。私よりずっと物を大事にしてるみたい」
 「それは茜より物持ちがいいってことだな」
 「どういう意味?」
 「そのままの意味」
 「ひどい」
 「事実だろ」
 「……そういうところ、昔から変わらないね」
 そう言うと、朔が少しだけ笑った。
 「茜もな」
 その一言が、妙に嬉しかった。
 「でも、私の部屋に私の知らないものがいっぱいあるんだよ」
 「それはもう、茜の部屋じゃないんじゃないか?」
 「ひどい」
 「十年空けてたんだから」
 「じゃあ朔の部屋も、もう別の人の部屋になってるかもね」
 「俺はまだ実家に住んでる」
 「あ」
 思わず笑う。
 「……それもそうか」
 「今のは俺が正しい」
 「はいはい」
 朔が満足そうに笑った。
 しばらく歩いてから、私はふと思い出したように聞く。
 「そういえば、朔の部屋ってどんな感じなの?」
 「俺の?」
 「うん。昔のもの、残ってる?」
 「まあ、残ってるんじゃないか。自分ではあんまり見てないけど」
 「じゃあ、今度見せてよ」
 「なんで?」
 「面白そうだから」
 「人の昔の部屋見るのが?」
 「だって、朔の昔ってちょっと気になる」
 「俺の昔なんて見てもつまらないぞ」
 「そんなことないでしょ」
 「じゃあ、見せたら何か奢って」
 「なんで?」
 「見学料」
 「高くない?」
 「昔からの知り合いなんだから、十年分まとめて」
 「ぼったくりじゃん」
 「じゃあ、やめる?」
 「……それはちょっと見たい」
 「じゃあ決まり」
 「ずるい」
 「何が?」
 「そうやって話を持っていくところ」
 「昔からこういうの得意だったから」
 「自分で言う?」
 「事実」
 「はいはい」
 また二人で笑う。
 気づけば、さっきまであった少しのよそよそしさも消えていた。
 並んで歩く。
 昔と同じように、くだらない話をしながら。
 ただ、昔とは違う。
 隣にいるのは、子どもの頃の朔ではない。
 それでも、その笑い方だけは、どこか知っているものだった。
 しばらくして、朔が私のバッグへ目を向ける。
 「それ、日記?」
 「うん」
 「見つかったんだな」
 「うん。少しだけ読んだ」
 朔の表情が少し変わる。
 「……何か思い出した?」
 その声は、さっきまでの冗談とは違って、少しだけ柔らかかった。
 私は少し考えてから頷く。
 「うん。全部じゃないけど、いくつか」
 「どんなの?」
 「海に行ったこととか。秘密基地のこととか」
 「そっか」
 朔が少し笑う。
 「それからね」
 「ん?」
 「私、海で溺れかけたことあったんだよね」
 朔が一瞬目を丸くして、それから苦笑する。
 「ああ……あったな」
 「日記に書いてあった」
 「湊と一緒に泳ごうとして、二人とも調子に乗ったんだよ」
 「そうだったんだ」
 「俺、あのとき本当に心臓止まるかと思った」
 「そんなに?」
 「そんなにだよ」
 朔は呆れたように笑う。
 「二人とも急に見えなくなるんだから」
 「……ごめん」
 「昔のことだろ」
 「でも、助けてくれたんだよね」
 「まあな。あの頃は大変だったよ」
 「大変?」
 「湊も茜も、二人そろって無茶するから」
 朔が話すたび、昔の光景が少しずつ形を持っていく。
 海へ走っていく自分。
 その後ろを追う朔。
 そして、いつも少し先にいる湊。
 「海で泳ぐって言って、どんどん沖の方まで行くし。俺が止めても聞かないし」
 「……なんか、想像できる」
 「だろ?」
 朔が笑う。
 「それで、帰りに湊が『アイス食べたい』って言い出してさ」
 「……あ」
 私は足を緩めた。
 「それ、日記に書いてあった」
 「覚えてた?」
 「ううん。でも、読んだときに……三人でアイス食べてたって書いてあったから」
 「ああ、そうそう」
 朔の顔にも、昔の記憶が浮かんだように笑みが広がる。
 「湊が自分で選んだくせに、途中で茜のやつの方が美味しそうとか言って」
 「え、そんなこと言ってた?」
 「言ってた。しかも、勝手に一口食べようとして怒られてた」
 「……あはは」
 思わず笑ってしまう。
 「そういえば、そんなことあった気がする」
 「だろ?」
 朔も笑った。
 その笑い声を聞いていると、日記の文字と、今聞いている話が少しずつ重なっていく。
 「あと、秘密基地で三人でお菓子食べてたとき、湊が変な遊び思いついてさ」
 「変な遊び?」
 「誰が一番遠くまで石を投げられるかって」
 「あった!」
 今度は、はっきりと思い出した。
 「でも、私が一番だったよね?」
 「いや、湊だろ」
 「え?」
 「茜は途中で海に落とした」
 「……そうだった」
 思わず吹き出す。
 「なんか、ちょっとずつ思い出してきた」
 「まだまだあるぞ」
 朔が楽しそうに言った。
 その顔は、さっきよりずっと昔の朔に近かった。
 「例えば?」
 「そうだな……」
 朔は少し考える。
 「夏祭りのときも――」
 「夏祭り?」
 「湊が金魚すくいで張り切ってさ」
 「……あ」
 私はまた足を緩めた。
 「なんか、覚えてる」
 「ほんと?」
 「うん。赤い金魚がいた気がする」
 「いたいた。茜が欲しいって言ったから、湊が必死になってた」
 「私、そんなこと言った?」
 「言ってたよ」
 「じゃあ、湊が取ってくれたの?」
 「いや」
 朔が笑う。
 「一匹も取れなくて、最後は俺が取った」
 「えー」
 「しかも湊、悔しがってた」
 「……あはは」
 また笑う。
 昔の話をしているだけなのに、少しずつ、自分の中にもその時間が戻ってくる。
 朔が話して、私が聞く。
 その途中で、忘れていたことがぽつぽつと浮かんでくる。
 「あ……そういえば」
 「ん?」
 「それ、あった」
 「だろ?」
 「うん」
 また笑う。
 気づけば、私たちは歩く速度まで少し落としていた。
 急いで宿へ戻る理由も、もうなかった。


 話しているうちに、もっと聞きたいことが増えていた。
 「……昔の話って、こんなにあるんだね」
 「三人でずっと一緒にいたからな」
 「そっか」
 私は少し考える。
 「もっと聞いてもいい?」
 朔がこちらを見る。
 「いいよ」
 「じゃあ……」
 私は少し迷ってから、口を開いた。
 「湊って、昔からあんな感じだったの?」
 「どんな?」
 「なんていうか……人を連れていく感じ」
 「ああ」
 朔が少し笑う。
 「そうだったな。面白いこと見つけると、すぐ俺たちを呼びに来てた」
 「やっぱり」
 「『ここ行こうぜ』って。嫌だって言っても、結局連れていかれるんだよ」
 「ふふ。今の私も、ちょっと分かるかも」
 「そうだな」
 朔は楽しそうに笑った。
 「一回なんて、海の向こうに島が見えるから行ってみようとか言い出して」
 「え、そんなの無理でしょ」
 「もちろん無理。だから俺が止めた」
 「朔、昔から大変だったんだね」
 「誰のせいだと思ってるんだよ」
 「……湊?」
 「二人とも」
 「私も?」
 「茜も」
 「ひどい」
 思わず笑う。
 朔も笑った。
 けれど、そのあとだった。
 私はふと、今まで聞いてきた話を頭の中で繋げてみた。
 海。
 秘密基地。
 夏祭り。
 アイス。
 どの話にも、湊がいる。
 そして、その隣には必ず自分がいる。
 「……ねえ」
 「ん?」
 「湊って、私と二人でいるときもあんな感じだった?」
 「……たぶん」
 「そっか」
 「うん」
 私は少し考える。
 「私、湊と仲良かった?」
 「……仲良かったよ」
 「どのくらい?」
 「普通に、ずっと一緒にいた」
 「そうなんだ」
 その答えを聞いて、胸の奥に小さな何かが残った。
 ずっと一緒にいた。
 その言葉が、思っていたより重かった。
 「じゃあ、私たちって結構仲良かったんだね」
 「……うん」
 さっきまで楽しそうに話していた朔の声が、少しだけ小さくなった。
 歩く速度も、いつの間にかゆっくりになっている。
 私は隣を見る。
 朔は前を向いていた。
 「朔?」
 「ん?」
 「……どうしたの?」
 「何が?」
 「なんか、急に静かになった」
 「そうか?」
 「うん」
 「別に」
 短く返して、朔は前を向いたまま歩いている。
 さっきまでなら、ここで何か冗談を返してきたはずだった。
 私は少し迷ってから、また口を開いた。
 「ねえ」
 「ん?」
 「なんで、私こんなに湊のこと聞いてるんだろう」
 朔が少しだけこちらを見る。
 「……さあ」
 「日記に名前がいっぱい出てきたからかな」
 「……そう」
 「今日、何度も名前を見たから」
 「……」
 「どんな人だったのかなって、気になって」
 朔は何も言わなかった。
 私は歩きながら、バッグの中の日記を意識する。
 そこには、昔の私が知らないほどたくさんの「湊」がいた。
 「私、昔は湊とずっと一緒にいたんだよね」
 「うん」
 「それなのに、今は顔もちゃんと思い出せない」
 「……」
 「なんか、おかしいよね」
 「……そうだな」
 その返事は、さっきまでの穏やかな声とは少し違っていた。
 私は朔の横顔を見る。
 何かを考えているようにも見えた。
 「……ねえ」
 「ん?」
 「……私、湊のこと……好きだったのかな」
 その瞬間、朔の足が止まった。
 私もつられて立ち止まる。
 さっきまで聞こえていた町の音が、急に遠くなったように感じた。
 「……好きだったのか?」
 「え?」
 朔がこちらを見る。
 「だから、茜はどう思ってるんだよ」
 「いや、私が聞いてるんだけど」
 思わず苦笑する。
 「私には分からないから聞いてるの」
 「……茜が分からないのに、俺が分かるわけないじゃん」
 「それは……そうかもしれないけど」
 私は少し考えてから続けた。
 「ほら、客観的に見て。昔の私たちを知ってるの、朔でしょう?」
 「……客観的に?」
 「うん」
 「俺が?」
 「だって、私が覚えてないことを知ってるのは朔だから」
 朔は何も言わなかった。
 その沈黙が、少しずつ長くなる。
 私は自分から聞いておきながら、何を期待しているのか分からなくなってきた。
 「ごめん。変なこと聞いてるよね」
 「……別に」
 「ただ、日記にも湊の名前がいっぱい出てきたし。三人でいたことを聞いてたら、なんとなく気になって」
 「……そう」
 朔は視線を落とした。
 しばらくして、ぽつりと言う。
 「じゃあ、好きだったんじゃない?」
 「え?」
 「日記にいっぱい名前が出てきて、ずっと一緒にいて、待ってたんだろ」
 「……そうなのかな」
 「知らないよ」
 その声から、少しだけ温度が消えた。
 「俺に聞かれても」
 「朔……?」
 「何だよ」
 「怒ってる?」
 「怒ってない」
 「でも……」
 「怒ってないって」
 言葉は否定しているのに、声は明らかにさっきまでとは違っていた。
 私は何も言えなくなる。
 朔も、少しだけ顔を背けた。
 「……ごめん」
 「だから謝らなくていいって」
 「でも、なんか……」
 言葉を探しているうちに、朔が先に口を開いた。
 「茜はさ」
 「うん」
 「俺に、どう答えてほしいの?」
 「え?」
 「湊のこと好きだったって言えばいい?」
 「そういうつもりじゃ……」
 「じゃあ、違うって言えばいい?」
 「私はただ――」
 「ただ、何?」
 声が少しだけ強くなる。
 私は言葉を失った。
 朔は一度目を伏せ、それからゆっくり息を吐いた。
 「茜が忘れてることを、俺が代わりに決めるなんてできないだろ」
 「……うん」
 「それなのに、俺に聞くなよ」
 その言葉に、胸が少し痛んだ。
 「……ごめん」
 「だから……」
 朔が言葉を止める。
 何かを飲み込むように、しばらく黙っていた。
 それから、低い声で続ける。
 「……俺だって、分かんないんだよ」
 私は顔を上げる。
 いつもの朔なら、何でも分かっているような顔をしている。
 けれど今は、そうじゃなかった。
 「……何が?」
 朔は答えない。
 ただ、少しだけ苦しそうに目を伏せた。
 「俺に、どう答えてほしいの?」
 その言葉が、胸に刺さった。
 私は何も言えなかった。
 朔も、それ以上は何も言わなかった。


 しばらくの間、二人の間に沈黙が続いた。
 さっきまであんなに楽しそうに話していたのが嘘みたいだった。
 風の音と、遠くから聞こえる車の音だけが耳に入ってくる。
 私は何度か朔の横顔を見た。
 何か言わなきゃと思うのに、何を言えばいいのか分からない。
 それでも、朔は帰ろうとはしなかった。
 宿までの道を、黙ったまま一緒に歩いてくれた。
 途中で何度か、話しかけようと思った。
 でも、結局何も言えなかった。
 やがて、宿が見えてくる。
 「……着いたな」
 朔が小さく言った。
 「うん」
 私は立ち止まる。
 朔も少し離れたところで足を止めた。
 「……今日は、ありがとう」
 「別に」
 短い返事だった。
 いつもの朔なら、ここでも何か一言くらい言ってくれる気がする。
 でも今日は、それだけだった。
 「……じゃあ」
 言葉がそこで止まる。
 いつものように「また明日」と言おうとして、やめた。
 明日も会っていいのだろうか。
 こんなことを言ったばかりなのに。
 朔を傷つけたかもしれないのに。
 それでも、何もなかったみたいに「また」なんて言っていいのだろうか。
 「……また」
 小さく口にすると、朔がこちらを見る。
 「……うん」
 それだけだった。
 素っ気ない返事。
 でも、ちゃんと返してくれた。
 私はそれ以上何も言えず、宿の方へ向き直った。
 数歩歩いてから、振り返る。
 朔はまだそこにいた。
 けれど、目が合うとすぐに視線を逸らした。
 私は何も言わず、そのまま宿の中へ入った。

 扉が閉まった瞬間、胸の奥に小さな痛みが残った。
 「……また、って言ってよかったのかな」
 自分でも答えは分からなかった。
 宿の前で朔と別れてから、私はしばらくその場に立っていた。
 「……また」
 そう言ったときの朔の顔が、頭から離れない。
 あんなふうに言われるとは思っていなかった。
 でも、考えてみれば当然なのかもしれない。
 私は十年前の自分のことを何も覚えていない。
 それなのに、昔のことを全部知っている朔に、私自身の気持ちまで聞こうとしていた。
 「……私、何してるんだろう」
 小さく呟いて、私は宿の中へ入った。
 「おかえりなさい」
 女将さんが声をかけてくれる。
 「ただいま戻りました」
 そう答えて、軽く頭を下げる。
 廊下を歩きながら、ふと今日一日のことを思い返した。
 実家で見つけた日記。
 そこに残っていた、昔の自分の文字。
 そして、朔との会話。
 考えれば考えるほど、頭の中が少しずつまとまらなくなっていく。
 部屋に戻ると、椅子の横に置いたバッグへ目を向けた。
 中には、実家から持ってきた古い日記が入っている。
 昼間は、見つけたことだけで満足していた。
 けれど今は違う。
 開いてしまえば、また何かを知ってしまう気がする。
 今日、朔に聞いたことも。
 聞いてしまった答えも。
 まだ頭の中から離れていなかった。
 それでも私は、日記を取り出した。
 ベッドの端に腰を下ろす。
 表紙を撫でる。
 十年前の自分が、毎日のように持ち歩いていたもの。
 そこには、今の私が忘れてしまった時間が残っている。
 「……何を書いてたんだろう」
 ゆっくりとページを開く。
 昼間読んだメモとは違って、こちらにはもう少し細かく書かれていた。
 学校であったこと。
 朔と話したこと。
 海へ行ったこと。
 くだらない出来事まで、いろいろ書いてある。
 そして、その中には何度も同じ名前が出てきた。
 湊。
 「……」
 指先が、その名前の上で止まる。
 一度だけではない。
 ページをめくるたびに、何度も出てくる。
 湊と海へ行った。
 湊がこんなことを言った。
 湊と笑った。
 湊と――。
 「……本当に、よく一緒にいたんだ」
 声に出してみると、少しだけ変な感じがした。
 私の記憶には、その人がほとんど残っていない。
 なのに、十年前の私は、こんなにもその人のことを書いている。
 ページをめくる。
 そのたびに、昔の自分が少しずつ近づいてくるようだった。
 「……このとき、何を考えてたんだろう」
 答えは書かれていない。
 けれど、文章の端々から、昔の自分が楽しそうにしていたことだけは分かる。
 海。
 秘密基地。
 三人で過ごした時間。
 そして、湊。
 私はしばらくページを眺めていた。
 今日、朔が話してくれたことを思い出す。
 湊が先を歩いていたこと。
 私がその後を追いかけていたこと。
 「茜が追いかけてくるの、待ってたよ」
 あの言葉が、また胸の奥に浮かぶ。
 私は日記を閉じかけて、ふと手を止めた。
 昼間読んだメモのことを思い出す。
 ページの端についていた、小さな星印。
 「……そういえば」
 あれは、何の意味だったんだろう。
 私はメモを取り出し、星がついていた日を確かめた。
 七月三日。
 七月十六日。
 七月二十八日。
 七月三十一日。
 「……結構ある」
 星のついた日には、何か特別なことがあったのだろうか。
 私はもう一度、日記を開いた。
 まずは、七月三日。
 そこには、秘密基地へ行った日のことが書かれていた。
 三人で海を見たこと。
 湊が拾ってきた変な石のこと。
 三つ並べたこと。
 「……これ」
 今日見た三つの石と同じだ。
 思わず、少しだけ笑う。
 ページをめくる。
 七月十六日。
 湊が引っ越すことになった日のことが書かれていた。
 急に決まったこと。
 私も朔も悲しかったこと。
 それでも湊は笑っていたこと。
 『すぐ会えるって言ってた』
 その一文の前で、指が止まった。
 「……すぐ会える」
 今日まで、私はそんな言葉を知らなかった。
 けれど、昔の私は確かにそれを信じていた。
 さらにページをめくる。
 七月二十八日。
 タイムカプセルを埋めた日のこと。
 十年後の今日、三人で開ける。
 忘れない。
 短い文章だった。
 でも、その文字を見ていると、胸の奥が少しだけ苦しくなる。
 「……忘れない、か」
 私は小さく呟いた。
 最後に、七月三十一日。
 湊とお別れした日のことが書かれていた。
 三人で海に行ったこと。
 卒業式が終わったら、また会おうと約束したこと。
 『湊は最後まで笑ってた』
 その次の行には、
 『私も笑った』
 と書かれていた。
 私はしばらく、その二行を見つめていた。
 どうして笑ったんだろう。
 悲しかったはずなのに。
 寂しかったはずなのに。
 それでも、昔の私は笑っていた。
 きっと、また会えると思っていたから。
 私は日記を閉じた。
 今日一日で、たくさんのことを知った気がする。
 三人でいたこと。
 湊という人がいたこと。
 そして、昔の私はその人と過ごした時間を、ちゃんと大切にしていたこと。
 それなのに。
 私は、そのほとんどを忘れている。
 「……どうして」
 誰に聞くでもなく、呟く。
 答えは返ってこない。
 日記を枕元に置く。
 ベッドに横になると、しばらく天井を見つめていた。
 今日一日のことが、次々と浮かんでは消えていく。
 湊という名前。
 日記の文字。
 秘密基地に並んだ三つの石。
 そして、朔の声。
 『俺に、どう答えてほしいの?』
 目を閉じる。
 窓の外から、遠く波の音が聞こえていた。
 その音を聞いているうちに、昼間の景色が少しずつ遠ざかっていく。
 まぶたの向こうで、淡い光が揺れる。
 蝉の声が聞こえる。
 ――早く来いよ。
 昼間、秘密基地で聞いた声と同じだった。
 胸の奥が、小さく揺れた。
 「……湊?」
 返事の代わりに、遠くで誰かが笑った。
 その笑い声を聞いた瞬間、私は走り出していた。


 
 ◇◇◇◇◇
 蝉の声が響いている。
 夏の夕方だった。
 『――茜、早く!』
 前を走る背中が見える。
 夕日の光を背負っていて、顔はよく見えない。
 けれど、その声だけは、なぜかはっきり分かった。
 『湊、早いって……!』
 息を切らしながら追いかける。
 『急がないと消えちゃうよ!』
 『何が?』
 『夕日!』
 湊が振り返って笑う。
 その顔は光の中にあって、やっぱり見えない。
 『今日の夕日、すごいんだよ!』
 そう言って、また走り出す。
 『だから早く!』
 『ちょっと待ってってば……!』
 蝉の声。
 足音。
 遠くで波の音。
 少し遅れて、後ろから朔の声が聞こえた。
 『湊、もうちょっと待ってやれよ』
 『茜、体力ないんだから』
 『頑張れー!』
 湊が振り返る。
 『ほら、もうちょっと!』
 手を振りながら笑っている。
 その背中が、また少し遠くなる。
 『全く……』
 朔が小さく息を吐いた。
 気づけば、隣に朔がいた。
 『先に行ってていいのに』
 息を整えながら言う。
 『あいつ、先に行ったくせに、ちゃんと振り返るだろ』
 『……そうだね』
 前を見る。
 湊が少し先で立ち止まっていた。
 こちらを振り返っている。
 夕日のせいで、その表情はよく見えない。
 けれど、手を振っているのだけは分かった。
 『ほら』
 朔が歩き出す。
 『行こう』
 『うん』
 二人で湊のところへ向かう。
 少し歩くと、湊がまた先へ走り出した。
 『湊、待って!』
 『早くー!』
 笑い声が返ってくる。
 追いかける。
 坂道を下る。
 その先に、海が見えた。
 『ヤバっ! めっちゃ綺麗!』
 湊が思わず声を上げる。
 私たちも足を止めた。
 海の向こうへ沈みかけた太陽。
 淡いピンク色の空。
 波の上には、細かな光が揺れている。
 いつもの夕焼けとは、少し違っていた。
 湊は空を見上げたまま、しばらく黙っていた。
 やがて、ぽつりと呟く。
 『……マジックアワー』
 『……なにそれ?』
 朔が聞く。
 湊が振り返った。
 『知らない?』
 『知らない』
 『えー』
 湊が嬉しそうに笑う。
 『日が沈む前後の、ちょっとだけ特別な時間』
 そう言って、太陽の方へ手をかざす。
 『すぐ終わるから、ちゃんと見といた方がいいよ』
 三人で空を見上げる。
 しばらくして、湊が突然、海とは反対側を指差した。
 『あ、見て』
 『何?』
 『あそこ』
 指先を追う。
 薄いピンク色の帯が、空の端に浮かんでいる。
 『……綺麗』
 『だろ?』
 湊が満足そうに笑う。
 『ビーナスベルトっていうんだって』
 『また知らない言葉……』
 朔が呆れたように言う。
 『この前、写真で見つけたんだ』
 湊はポケットからスマホを取り出した。
 画面には、同じようなピンク色の空の写真が表示されている。
 『ほら』
 『同じだ』
 『ね?』
 湊は嬉しそうに笑う。
 『こういうの、見つけると誰かに教えたくなるんだよな』
 その言葉が、なぜか胸に残った。
 私はバッグからスマホを取り出す。
 『ちょっと待って!』
 『何してんの?』
 『撮るの!』
 夕焼けに向かって、何度もシャッターを切る。
 一枚。
 また一枚。
 ピンク色の空。
 海。
 波に揺れる光。
 『ほら、こんなに綺麗なのに撮らないとか勿体なくない?』
 『茜、さっきから何枚撮ってんだよ』
 『だって、どれも違って見えるんだもん』
 『同じ空だろ』
 『違うよ。こっちはちょっとピンクが濃いし、こっちは海が綺麗に入ってる』
 夢中になって撮っていると、湊が隣から画面を覗き込んだ。
 『見せて』
 『はい』
 湊は画面を見て、少しだけ笑った。
 『綺麗だけど』
 そう言って、海へ視線を戻す。
 『やっぱり本物の方が綺麗だな』
 『それはそうだけど……』
 私はもう一度、シャッターを切る。
 『でも、残しておきたいじゃん』
 『まあな』
 湊が笑う。
 朔も隣から画面を覗き込む。
 『結構撮れてるじゃん』
 『でしょ?』
 『でも、同じようなの多くない?』
 『違うってば』
 『はいはい』
 二人が笑う。
 私もつられて笑った。
 しばらくして、ふと湊を見る。
 『ねえ、湊は撮らないの?』
 『俺?』
 『いつも写真撮ってるじゃん』
 湊は少しだけ海を見た。
 それから、スマホを持った手を軽く振る。
 『俺は、この海の写真は撮らないの』
 『なんで?』
 湊は一瞬だけこちらを見る。
 それから、いたずらっぽく笑った。
 『秘密』
 『えー』
 『教えてよ』
 『秘密は秘密』
 そう言って、湊はまた海へ向き直る。
 少しして、ぽつりと呟く。
 『でも、いいんだよ』
 『何が?』
 『撮らなくても』
 それだけ言って、湊は海を見つめていた。
 ピンク色の光が、波の上でゆっくり揺れている。
 私はその横顔を見ようとした。
 けれど、夕日の光が強くて、どうしても輪郭しか見えない。
 それなのに、なぜか、その声だけははっきり残った。
 『じゃあ、そろそろ帰ろう!』
 湊が突然立ち上がる。
 『え、もう?』
 『もう日が沈むから』
 湊はさっさと歩き始める。
 『ちょっと、湊!』
 『待ってよ!』
 遠くから、笑い声が返ってくる。
 『全く……』
 朔が小さく息を吐く。
 思わず顔を見る。
 目が合う。
 二人とも、同時に笑った。
 『行こうか』
 『うん』
 並んで歩き出す。
 少し先には、もう湊の背中がある。
 前を行く湊。
 その後ろを、並んで追いかける私たち。
 夕暮れの道に、三つの影が伸びていた。