君を、君だと知らなかった

 最初のページには、日付と短い文章が並んでいた。

 ***
 六月二十三日。
 今日、学校の帰りに三人で海に行った。
 湊が灯台まで競争しようって言った。
 朔は嫌そうだったけど、結局一緒に走った。
 湊が一番だった。
 ずるい。
 海がきれいだった。
 帰りにアイス食べた。
 ***

 「……」
 読み終えて、少しだけ笑う。
 今なら絶対に「ずるい」なんて書かない。
 けれど、確かに自分の字だった。
 次のページをめくる。

 ***
 六月二十七日。
 今日は雨。
 三人で朔の家に行った。
 湊がずっとくだらないこと言ってた。
 何話してたか忘れた。
 でも楽しかった。
 ***

 その次のページにも、また「湊」と書いてあった。
 七月三日☆
 そこで、指が止まった。
 「……星?」
 日付の横に、小さな星印がついている。
 何の意味だろう。
 昔の私は、こんな印をつけていたらしい。
 気にはなったけれど、そのまま続きを読む。

 ***
 七月三日☆
 秘密基地に行った。
 湊が変な石を拾ってきた。
 三人で並べた。
 三つ。
 なんとなく、三つじゃないと嫌だった。
 ***

 「……三つ」
 その文字を目で追った瞬間、さっきまでより少しだけ息が浅くなった。
 私は日付の横の星を見た。
 けれど、それ以上は分からない。
 ページをめくる。

 ***
 七月十日。
 今日も海に行った。
 湊と一緒に泳ごうとしたら、二人とも溺れそうになった。
 そしたら朔が助けてくれた。
 朔は私たちのヒーロー。
 ***

 思わず小さく笑う。
 「……やっぱり、朔って昔から朔なんだ」
 そのあともしばらく、海のことや学校であったこと、三人で遊んだことが短く書かれていた。
 何ページかまとめてめくる。
 どれも、大きな出来事ではない。
 それでも、ページを追ううちに、知らないはずの時間が少しずつ近くなっていく。
 七月十六日☆
 また星がついている。
 今度は手を止めた。

 ***
 七月十六日☆
 湊が引っ越すことになった。
 お父さんの仕事の都合だって。
 急すぎる。
 私も朔も悲しかった。
 でも湊は笑ってた。
 「すぐ会えるって」って言ってた。
 引っ越す前に、三人でタイムカプセルを埋めることになった。
 ***

 私は日付の横の星を見る。
 引っ越しが決まった日にもついている。
 「……大事な日、なのかな」
 確信は持てなかった。
 次のページには、少し大きな字で日付が書かれていた。

 ***
 七月二十八日☆
 今日は湊の誕生日。
 三人でタイムカプセルを埋めた。
 十年後の今日、三人で開ける。
 ***

 「……また星」
 今度は自然と、日付の横へ目が向いた。
 三つ目。
 偶然にしては、少し多い気がする。
 昔の私が何を考えていたのかは、まだ分からない。
 「特別な日……?」
 小さく呟いて、ページをめくる。

 ***
 七月三十一日☆
 湊とお別れの日。
 最後に三人で海に行った。
 卒業式が終わったら、また会おうねって約束した。
 湊は最後まで笑ってた。
 私も笑った。
 ***

 その先には、しばらく短い記録が続いていた。

 ***
 八月七日。
 朔と二人で海に行った。
 湊がいないと、なんか変。
 朔もいつもより静かだった。
 ***

 そのあとも、夏休みのことや学校のことがいくつか書かれている。
 何ページか飛ばす。
 湊という名前は、少しずつ減っていった。
 最初はあんなにたくさん出てきたのに。
 ページをめくるたび、その名前が少なくなっていく。
 そして、しばらくして。

 ***
 二月二十八日。
 明日は卒業式。
 もうすぐ湊に会える。
 楽しみ。
 でも、いつ会うかはちゃんと決めてない。
 メールしたけど、まだ返事がない。
 ***

 「……ずっと、会えると思ってたんだ」
 自分でも驚くほど、その言葉が小さくこぼれた。
 ページをめくる。

 ***
 三月五日。
 湊がまだ来ない。
 何かあったのかな。
 でも、卒業式が終わったばっかりだし。
 もう少し待ってみる。
 ***

 ***
 三月十六日。
 まだ来ない。
 私たちのこと、忘れちゃったのかな。
 それとも、忙しいだけかな。
 早く会いたい。
 ***

 ***
 三月二十五日。
 もうすぐ東京に行く。
 でも、湊はまだ来ない。
 東京に行ったら会えるかな。
 でも、私のこと忘れてたらどうしよう。
 ***

 その先に残っていたのは、たった一ページだった。
 私はゆっくりと最後のページを開く。

 ***
 三月三十一日。
 明日、東京に行く。
 ずっと待ってたのに。
 嘘つき。
 忘れたら、気持ちが楽になるのかな。
 ***

 そこで、文字が終わっていた。
 私はしばらく、そのページから目を離せなかった。
 指先が、紙の端をそっとなぞる。
 昔の私は、ずっと待っていた。
 湊が来るのを。
 また三人で会える日を。
 それなのに、今の私は、その人の顔すら思い出せない。
 「……私、こんなに待ってたんだ」
 知らなかった。
 忘れていた。
 名前だけじゃない。
 その人を待っていた自分のことまで、私は忘れていた。


 ノートを閉じようとしたとき、膝の上から何かが滑り落ちた。
 足元を見る。
 小さく折りたたまれた紙だった。
 拾い上げて、ゆっくり開く。
 そこにも、昔の自分の字が並んでいる。
 『日記はいつものところ』
 その下に、小さくもう一言。
 『☆のところは、ちゃんと書く』
 「……これ」
 私は紙とノートを交互に見る。
 星。
 さっきまで読んでいたページ。
 秘密基地。
 湊の引っ越し。
 タイムカプセル。
 星のついた出来事には、まだ何か書かれているのだろうか。
 私は紙を裏返した。
 何も書いていない。
 「いつものところって……」
 部屋を見回す。
 机。
 引き出し。
 本棚。
 ベッドの横の小さな棚。
 さっきまで探していた場所を、もう一度見ていく。
 けれど、それらしいものはない。
 「……いつものところ」
 その言葉を繰り返しているうちに、記憶の端に小さな引っかかりがあった。
 本棚の一番下。
 本を並べるのではなく、少し奥へ押し込んでいたもの。
 私は本棚の前にしゃがみ込む。
 本を何冊か取り出す。
 その奥に、指が入るくらいの隙間があった。
 手を伸ばす。
 指先に、何か硬いものが触れた。
 ゆっくり引き出す。
 古い布に包まれた、薄いノートだった。
 表紙には何も書かれていない。
 けれど、それを手にした瞬間、これだと思った。
 「……これだ」
 手の中に収まる重さが、妙に馴染んでいた。
 表紙を撫でる。
 開こうとして、手が止まった。
 ここで読んでしまったら、何かが変わってしまうような気がした。
 私はノートを閉じた。
 そのとき、廊下から母の声が聞こえてきた。
 「茜ー? お昼できたわよー」
 「……え?」
 時計を見る。
 「……こんなに時間経ってたんだ」
 部屋に入ってから、ずいぶん時間が経っていた。
 窓から差し込む光も、さっきより高い。
 私は二冊のノートを見比べた。
 日記と、星の意味を残した小さなノート。
 どちらも、今の私にはまだ分からないことばかりだった。
 「……持って帰ろう」
 私は日記をバッグにしまった。


 小さなノートは手に持ったまま、部屋を出る。
 「もう、お昼?」
 「そうよ。何してたの?」
 「昔のもの、見てた」
 「そう」
 母はそれ以上聞かず、階段を下りていく。
 私もその後を追った。
 リビングへ戻ると、ちょうど母が料理を運んできたところだった。
 「はい、お待たせ」
 テーブルの上に皿が置かれる。
 赤いソースの匂いがふわっと広がった。
 「……ナポリタン?」
 「そう。好きだったでしょ?」
 「うん。今でも好き」
 思わず笑う。
 そういえば、少し前にも朔と入ったカフェで食べたばかりだった。
 「この前も食べたんだよね」
 「やっぱり好きなのね」
 母が笑う。
 「いただきます」
 フォークで麺を巻いて、一口食べる。
 「……おいしい」
 「よかった」
 母も向かいに座り、父も箸を手に取る。
 三人で食事をしながら、東京での仕事や最近の暮らしについて話した。
 「仕事は忙しいのか」
 父が聞く。
 「まあまあ。でも、最近は少し落ち着いてるよ」
 「ちゃんと食べてるのか」
 続けて質問される。
 「食べてるって」
 「本当か?」
 「本当」
 二人から同じことを聞かれて、思わず笑ってしまう。
 「二人とも同じこと聞くね」
 「そりゃ聞くわよ」
 母も笑った。
 父は何も言わず、ナポリタンを一口食べてから、ふと顔を上げる。
 「それで、帰ってきてからは何してたんだ?」
 「え?」
 「ここに戻ってきてから」
 「ああ……」
 私は少し考えながら、フォークで麺を巻く。
 「朔と町を歩いてた」
 「朔くんと?」
 「うん。いろいろ案内してもらってる」
 父が小さく頷く。
 「そうか。元気だったか」
 「うん。元気そうだったよ」
 「そうか」
 父はそれだけ言って、また食事に戻った。
 母が少し笑う。
 「昔からあの子、茜のことよく見てたものね」
 「……そうかな」
 何気ない言葉だったけれど、少しだけ引っかかった。
 私はそれ以上聞かず、ナポリタンを口に運ぶ。
 しばらくして、母が私の手元にあるノートへ目を向けた。
 「あら」
 「それ、まだ持ってたのね」
 「知ってるの?」
 「もちろん。昔、よく書いてたじゃない」
 母は笑う。
 父もちらりと目を向けた。
 「……まだ残ってたのか」
 「お父さんも知ってるんだ」
 「昔、よく持ち歩いてただろ」
 「そうなんだ」
 自分の知らない自分のことを、両親は覚えている。
 そのことが、少しだけ不思議だった。
 私はノートを見下ろす。
 「これ、少し読んでみる」
 「そう」
 母はそれ以上聞かなかった。
 「ほら、冷めるわよ。残り食べちゃいなさい」
 「うん」
 言われて、私はフォークを手に取る。
 少し冷めかけたナポリタンを口に運ぶ。
 それでも、やっぱりおいしかった。


 昼食を終えると、母が食器を片付けながら言った。
 「そうだ、果物食べる?」
 「食べる」
 「じゃあ、リンゴむこうか」
 母が立ち上がり、仏壇に供えていたリンゴを持ってくる。
 「茜、そこのカレンダー一枚取ってくれる?」
 「カレンダー?」
 「うん。皮むいたの置くところにするから」
 「分かった」
 私は壁に掛かっているカレンダーを見る。
 「どれ使えばいい?」
 「そこに剥がしたやつあるでしょ」
 「これ?」
 壁の横に重ねて置かれていた、何枚かのカレンダーを手に取る。
 「そう、それ」
 一番上の一枚を広げる。
 その表面には、日付の横に小さな文字がいくつも書き込まれていた。
 仕事の予定。
 買うもの。
 病院の日。
 誰かに電話すること。
 その日の出来事まで、簡単な言葉で残されている。
 「お母さん、まだこういうの書いてるんだ」
 「え? 何が?」
 「カレンダー。昔から書いてたよね」
 「ああ、そうね」
 母が笑う。
 「忘れないように、なんでも書いちゃうのよ」
 「昔から変わらないね」
 そう言いながらカレンダーを眺めていると、ふと目に入った日付があった。
 七月二十八日。
 その横に、小さく書かれている。
 『茜、お盆に帰ってくるって連絡あり』
 その文字を見て、思わず笑ってしまう。
 「こんなの書かなくても分かるでしょ」
 「そうだけど」
 母はリンゴを洗いながら笑う。
 「嬉しかったから、つい」
 「もう」
 私は呆れたように笑いながら、もう一度カレンダーを見る。
 七月二十八日。
 その日付が、なぜか目に残った。
 さっき読んだ日記にも、同じ日付があった。
 七月二十八日。
 湊の誕生日。
 三人でタイムカプセルを埋めた日。
 その横には、星。
 「……そういえば」
 口からこぼれた声に、母が顔を上げる。
 「どうしたの?」
 「この日って……」
 母は少し考えてから、何でもないことのように言った。
 「二十八日は湊くんの誕生日だったね」
 「……え」
 「誕生日。昔、毎年三人でお祝いしてたでしょ」
 母はリンゴの皮をむきながら続ける。
 「会った?」
 「……まだ」
 「そう」
 母はそれだけ言って、むいたリンゴを皿に並べた。
 「この歳になると、物忘れも多くなるけどね」
 少し笑ってから、母は続ける。
 「こういう些細なことは覚えてるものよね」
 「まだ早いでしょ」
 「そう? 最近すぐ忘れるのよ」
 「それは困るなあ」
 二人で笑う。
 母はリンゴを一切れつまみながら、ふと手を止めた。
 「でも、忘れたくないって思いすぎない方がいいこともあるのかもしれないわね」
 「……どういうこと?」
 「忘れたくない、忘れちゃいけないって強く思ってると、忘れたときに余計につらくなるでしょう」
 母は少しだけ考えてから続けた。
 「だから、覚えていようと頑張らなくてもいいんじゃない? 大事なことなら、ふとしたときにちゃんと思い出すものよ」
 私は何も言わなかった。
 母はそんな私を気にすることもなく、皿に並べたリンゴをこちらへ差し出した。
 「ほら、食べなさい」
 「うん」
 一切れ受け取る。
 甘い香りがする。
 さっきまで何気なく見ていた七月二十八日という日付が、頭の中から離れなかった。
 「忘れたくないと思うほど、忘れてしまう」
 その言葉が、静かに残った。
 私はもう一切れ、リンゴを口に入れる。
 甘くて、少しだけ冷たい。
 「……おいしい」
 「そう?」
 母が笑う。
 「まだあるから、食べたかったら持って帰っていいわよ」
 「いいの?」
 「もちろん」
 「じゃあ、少しもらおうかな」
 そんな何気ない会話をしているうちに、胸に引っかかっていたものが少し遠のいた。
 父は黙ってリンゴを食べていたが、ふと私を見る。
 「それで、今日はもう宿に戻るのか?」
 「うん。そろそろ行こうかな」
 「せっかく帰ってきたんだから、もう少しいればいいのに」
 母が言う。
 「うん。でも、町ももう少し見ておきたいし」
 「そうね」
 母もそれ以上は言わなかった。
 父が時計を見る。
 「送っていこうか?」
 「大丈夫だよ。バスで帰れるし」
 「そうか」
 父はそれだけ言って、またリンゴに手を伸ばした。
 昔から、父はあまり多くを話さない。
 けれど、こういうときにさりげなく気にかけてくれることは知っている。
 それが少しだけ嬉しかった。
 私は立ち上がる。
 「じゃあ、そろそろ行くね」
 「もう?」
 「うん。外、まだ明るいし」
 「忘れ物ない?」
 母に言われて、部屋の方を見る。
 「大丈夫」
 バッグを持ち上げる。
 その中には、見つけた日記と、小さなノートが入っている。
 まだ、全部を読む覚悟はできていない。
 それでも、今まで知らなかった自分の時間を、少しずつ拾っていける気がしていた。
 玄関まで行くと、父も後ろからついてきた。
 靴を履いている私を見て、ぽつりと言う。
 「……また帰ってくればいい」
 「うん」
 私は顔を上げる。
 「また来るよ」
 父は小さく頷いた。
 「気をつけてな」
 「うん。ありがとう」
 母も玄関まで出てくる。
 「ゆっくり読んでね」
 「うん」
 「何か思い出したら、聞かせて」
 「分かった」


 私は二人に手を振って、家を出た。
 玄関のドアが閉まる。
 振り返ると、昔と変わらない家がそこにあった。
 長い時間が経っても、変わらないものはちゃんと残っている。
 なのに、自分の中にだけ、なくなってしまったものがある。
 ずっと、そう思っていた。
 忘れてしまったことを、どこかで取り戻さなければいけないような気がしていた。
 けれど、今日、昔の日記を読んで分かったことがある。
 なくなったのは、過去そのものじゃない。
 そこにいた自分のことを、私は忘れていただけなのかもしれない。
 そんなことを考えながら、私は来たときに降りたバス停へ向かった。
 実家から歩いてすぐのところにある、見覚えのあるバス停だった。
 時刻表を見ると、次のバスまではそれほど待たなくていい。
 ベンチに腰を下ろし、バッグの中の日記に目を向ける。
 まだ全部は読んでいない。
 宿に戻ったら、続きを読もう。
 そう思ったところで、スマホが震えた。
 画面を見る。
 朔からだった。
 『仕事終わった』
 思わず笑ってしまう。
 連絡先を交換したばかりなのに、こうして当たり前みたいに連絡が来るのが、なんだか少しおかしかった。
 まるで、離れていた時間なんてなかったみたいだ。
 私は返信を打つ。
 『お疲れさま。今、実家の近くのバス停にいる』
 少しして、すぐに返事が来た。
 『じゃあ、宿の近くのバス停で待ってる』
 「……待ってる?」
 思わず画面を見直す。
 わざわざ迎えに来てくれるらしい。
 『分かった』
 そう返して、スマホをバッグにしまう。
 やがてバスが来た。
 私は立ち上がり、乗り込む。
 窓際の席に座ると、見慣れた町並みがゆっくりと後ろへ流れていく。
 母に言われたこと。
 見つけた日記のこと。
 そこに書かれていた、昔の自分の言葉。
 考えようとすると、次から次へと浮かんできた。
 気づけば、バスは宿の近くまで来ていた。
 降車ボタンを押す。
 電子音が車内に響き、バスがゆっくりと速度を落とした。
 扉が開く。
 「ありがとうございました」
 運転手に声をかけて外へ出る。
 夕方の風が、思っていたより少し涼しかった。