バスを降りると、見慣れた道が続いていた。
家並みはところどころ変わっている。
それでも、道の形はほとんど変わっていなかった。
私はバッグを持ち直し、歩き出す。
子どもの頃、学校から帰ると何度も通った道だ。
友達と別れて、一人になってから家まで歩いた。
当時は長く感じていた道も、大人になった今では思ったより短い。
角を曲がる。
その先に、見覚えのある家が見えてきた。
「……ここだ」
小さく呟く。
外壁は少し色が変わっていたけれど、門も玄関も昔のままだった。
私は一度だけ立ち止まり、それからインターホンを押した。
すぐに家の中から足音が聞こえる。
「はーい」
玄関の扉が開いた。
「……あら」
母が目を丸くする。
「茜?」
「うん。ただいま」
「思ったより早く着いたのね」
昨日、今日寄るとだけ連絡していた。
何時になるかまでは伝えていなかったから、少し驚いたらしい。
「連絡くれれば迎えに行ったのに」
「大丈夫。バスで来たし」
「そう? 荷物、それだけ?」
「うん。どうせすぐ戻るし」
「泊まっていけばいいのに」
「もう宿、予約しちゃってるから」
最初から分かっていたように、母は小さく頷いた。
「そうよね。せっかく予約してるんだものね」
それから、バッグを見て、私の顔を見る。
「なんか……少し痩せた?」
「そうかな」
「ちゃんと食べてる?」
「食べてるって」
「本当に?」
「本当だよ」
思わず笑ってしまう。
久しぶりに会っても、最初に聞かれることは昔と変わらない。
「まあ、入って」
「うん」
靴を脱いで、玄関に上がる。
家の中に入った瞬間、いくつもの匂いが混ざって鼻先をくすぐった。
洗剤の匂い。
どこかで沸いているお湯の匂い。
それから、ずっとここにあった家の匂い。
「お父さんは?」
「今、庭にいるんじゃない? 呼んでくる」
「いいよ。あとで顔見れば」
「そう?」
母が奥へ歩いていく。
私は玄関に置かれた古い写真立てに目を向けた。
そこには、昔の家族写真が入っている。
小さい頃の自分が、今よりずっと幼い顔で笑っていた。
「……若いな」
「そりゃそうでしょ」
後ろから母の声がした。
「何年経ってると思ってるの」
「十年」
「そうよ」
母は写真を覗き込みながら、少し笑った。
「長かったような、短かったような……そんな感じね」
「私には長かったな」
「そうでしょうね」
その言葉に、私はもう一度写真へ目を向けた。
写真の中の私は、ここを離れることなんて考えたこともなかったのだろう。
今の自分とは、ずいぶん遠い。
「……なんか変な感じ」
「何が?」
「ここにいると、東京にいた時間が嘘みたい」
「そういうものじゃない?」
母はそう言って、私の肩を軽く叩いた。
「ほら。お父さんにも顔見せてきなさい」
「うん」
奥へ進むと、庭にいた父がこちらを振り返った。
「……帰ってきたか」
「……ただいま」
「……おかえり」
それだけだった。
母と違って口下手な父とは、昔から多くを話したわけではない。
けれど、困ったときにはいつも黙って助けてくれる人だった。
何も言わずにそばにいてくれる。
その安心感は、今も変わらない。
「昼ご飯、食べてくか?」
父が言う。
「まだお昼には早いじゃん」
「お父さんはもう少し茜と一緒にいたいのよ」
いつの間にか、母が後ろに立っていた。
「……別に、そういうわけじゃない」
「はいはい」
母が笑う。
父は少し気まずそうに庭へ視線を戻した。
「何か作るから。せっかく帰ってきたんだし」
二人の顔を見る。
断る理由もなかった。
「……じゃあ、食べていこうかな」
「そうしなさい」
母が嬉しそうに笑う。
「何がいい?」
「何でもいいよ」
「それが一番困るのよ」
「じゃあ、お母さんの好きなので」
「茜の好きなものにするわよ」
そんなやり取りをしながら、母が台所へ向かう。
私はその後ろ姿を眺めていた。
ただ、そこにいる。
それだけのことが、少し嬉しかった。
「そうだ」
母が階段の前で振り返る。
「部屋、見てくる?」
「うん」
「昨日掃除しておいたから。家具とかはほとんどそのままよ」
「そうなんだ」
「ええ。あなたが帰ってくるって聞いてから、少しだけ片付けたけど」
母が階段を上がっていく。
私もその後を追った。
一段上がるたび、床が小さく軋む。
昔から変わらない音だった。
二階の廊下。
母が突き当たりの部屋の前で立ち止まる。
「ここ」
ドアが開く。
私は入口から部屋の中を見渡した。
そこには、昔の時間が静かに残っていた。
窓際には、使い込まれた机。
本棚には、子どもの頃に読んでいた本。
ベッドの位置も、壁に残った跡も、記憶の中と大きくは違わない。
「……まだ残ってる」
「使えるものは、そのままにしてたから」
母が後ろから言う。
「お昼まで時間があるし、ゆっくり見ていきなさい」
「うん。ありがとう」
母が部屋を出ていく。
扉が閉まると、部屋が急に静かになった。
私は机の前まで歩き、椅子を引いた。
木が軋む。
その音を聞いていると、昔ここに座っていた自分の姿が一瞬だけ浮かんだ。
「……懐かしい」
小さく呟く。
机の上には何もない。
けれど、引き出しを開けると、古い文房具や使いかけのノート、小さな消しゴムが出てきた。
奥には、集めていたらしいシールや紙切れも残っている。
「……まだあるんだ」
一枚を指先でつついて、少し笑う。
どれも今となっては些細なものだ。
それでも、誰にも捨てられずにここに残っていた。
引き出しを閉じる。
そこで、ふと朔の言葉が蘇った。
――茜、昔いつも何か持ち歩いてた気がする。
――ニヤニヤしながら眺めてたから、何書いてるんだろうなって思ってた。
「……日記」
そういえば、そんなものを持っていた。
けれど、どこにしまったのかは思い出せない。
私は本棚へ向かった。
下の収納を開ける。
古いアルバムや学校でもらったプリントの間に、薄いノートが挟まっていた。
「これかな」
取り出して開く。
けれど、中に並んでいたのは授業のノートだった。
「違うか」
苦笑しながら戻す。
朔に覗かれそうになって怒っていたくらいだ。
見つからないように、どこか別の場所へしまっていたのかもしれない。
部屋を見回す。
ベッドの横にある小さな棚が目に入った。
引き出しを開ける。
古いポーチ。
ヘアゴム。
小さな鏡。
どれも、昔の自分が使っていたものだ。
鏡を手に取ると、そこに今の自分の顔が映った。
少し大人びた顔。
けれど、その目だけは昔の自分と同じような気がした。
私は鏡を戻し、机の横へ視線を向ける。
そこに、古い木箱が置かれていた。
表面には細かな傷がいくつもついている。
「……これ」
しゃがみ込んで、そっと蓋を開ける。
中には古い手紙や小さなアクセサリー、それから何枚かの写真が入っていた。
写真を一枚手に取る。
子どもの頃の自分が、海の前で笑っている。
誰かと一緒に撮ったものらしい。
けれど、写真を見ても、その相手が誰なのかまでは分からなかった。
胸の奥が、小さく揺れる。
「……誰」
答えは返ってこない。
写真を箱へ戻すと、その下に薄いノートが挟まっているのが見えた。
表紙には何も書かれていない。
それでも、指先が触れた瞬間、これかもしれないと思った。
「……これかな」
ノートを手に取る。
開くのが、少し怖い。
何が書かれているのか。
誰のことが残されているのか。
そして、そこにいる昔の自分が、何を覚えていたのか。
私は一度だけ息を吐いた。
それから、ゆっくりとノートを開いた。
家並みはところどころ変わっている。
それでも、道の形はほとんど変わっていなかった。
私はバッグを持ち直し、歩き出す。
子どもの頃、学校から帰ると何度も通った道だ。
友達と別れて、一人になってから家まで歩いた。
当時は長く感じていた道も、大人になった今では思ったより短い。
角を曲がる。
その先に、見覚えのある家が見えてきた。
「……ここだ」
小さく呟く。
外壁は少し色が変わっていたけれど、門も玄関も昔のままだった。
私は一度だけ立ち止まり、それからインターホンを押した。
すぐに家の中から足音が聞こえる。
「はーい」
玄関の扉が開いた。
「……あら」
母が目を丸くする。
「茜?」
「うん。ただいま」
「思ったより早く着いたのね」
昨日、今日寄るとだけ連絡していた。
何時になるかまでは伝えていなかったから、少し驚いたらしい。
「連絡くれれば迎えに行ったのに」
「大丈夫。バスで来たし」
「そう? 荷物、それだけ?」
「うん。どうせすぐ戻るし」
「泊まっていけばいいのに」
「もう宿、予約しちゃってるから」
最初から分かっていたように、母は小さく頷いた。
「そうよね。せっかく予約してるんだものね」
それから、バッグを見て、私の顔を見る。
「なんか……少し痩せた?」
「そうかな」
「ちゃんと食べてる?」
「食べてるって」
「本当に?」
「本当だよ」
思わず笑ってしまう。
久しぶりに会っても、最初に聞かれることは昔と変わらない。
「まあ、入って」
「うん」
靴を脱いで、玄関に上がる。
家の中に入った瞬間、いくつもの匂いが混ざって鼻先をくすぐった。
洗剤の匂い。
どこかで沸いているお湯の匂い。
それから、ずっとここにあった家の匂い。
「お父さんは?」
「今、庭にいるんじゃない? 呼んでくる」
「いいよ。あとで顔見れば」
「そう?」
母が奥へ歩いていく。
私は玄関に置かれた古い写真立てに目を向けた。
そこには、昔の家族写真が入っている。
小さい頃の自分が、今よりずっと幼い顔で笑っていた。
「……若いな」
「そりゃそうでしょ」
後ろから母の声がした。
「何年経ってると思ってるの」
「十年」
「そうよ」
母は写真を覗き込みながら、少し笑った。
「長かったような、短かったような……そんな感じね」
「私には長かったな」
「そうでしょうね」
その言葉に、私はもう一度写真へ目を向けた。
写真の中の私は、ここを離れることなんて考えたこともなかったのだろう。
今の自分とは、ずいぶん遠い。
「……なんか変な感じ」
「何が?」
「ここにいると、東京にいた時間が嘘みたい」
「そういうものじゃない?」
母はそう言って、私の肩を軽く叩いた。
「ほら。お父さんにも顔見せてきなさい」
「うん」
奥へ進むと、庭にいた父がこちらを振り返った。
「……帰ってきたか」
「……ただいま」
「……おかえり」
それだけだった。
母と違って口下手な父とは、昔から多くを話したわけではない。
けれど、困ったときにはいつも黙って助けてくれる人だった。
何も言わずにそばにいてくれる。
その安心感は、今も変わらない。
「昼ご飯、食べてくか?」
父が言う。
「まだお昼には早いじゃん」
「お父さんはもう少し茜と一緒にいたいのよ」
いつの間にか、母が後ろに立っていた。
「……別に、そういうわけじゃない」
「はいはい」
母が笑う。
父は少し気まずそうに庭へ視線を戻した。
「何か作るから。せっかく帰ってきたんだし」
二人の顔を見る。
断る理由もなかった。
「……じゃあ、食べていこうかな」
「そうしなさい」
母が嬉しそうに笑う。
「何がいい?」
「何でもいいよ」
「それが一番困るのよ」
「じゃあ、お母さんの好きなので」
「茜の好きなものにするわよ」
そんなやり取りをしながら、母が台所へ向かう。
私はその後ろ姿を眺めていた。
ただ、そこにいる。
それだけのことが、少し嬉しかった。
「そうだ」
母が階段の前で振り返る。
「部屋、見てくる?」
「うん」
「昨日掃除しておいたから。家具とかはほとんどそのままよ」
「そうなんだ」
「ええ。あなたが帰ってくるって聞いてから、少しだけ片付けたけど」
母が階段を上がっていく。
私もその後を追った。
一段上がるたび、床が小さく軋む。
昔から変わらない音だった。
二階の廊下。
母が突き当たりの部屋の前で立ち止まる。
「ここ」
ドアが開く。
私は入口から部屋の中を見渡した。
そこには、昔の時間が静かに残っていた。
窓際には、使い込まれた机。
本棚には、子どもの頃に読んでいた本。
ベッドの位置も、壁に残った跡も、記憶の中と大きくは違わない。
「……まだ残ってる」
「使えるものは、そのままにしてたから」
母が後ろから言う。
「お昼まで時間があるし、ゆっくり見ていきなさい」
「うん。ありがとう」
母が部屋を出ていく。
扉が閉まると、部屋が急に静かになった。
私は机の前まで歩き、椅子を引いた。
木が軋む。
その音を聞いていると、昔ここに座っていた自分の姿が一瞬だけ浮かんだ。
「……懐かしい」
小さく呟く。
机の上には何もない。
けれど、引き出しを開けると、古い文房具や使いかけのノート、小さな消しゴムが出てきた。
奥には、集めていたらしいシールや紙切れも残っている。
「……まだあるんだ」
一枚を指先でつついて、少し笑う。
どれも今となっては些細なものだ。
それでも、誰にも捨てられずにここに残っていた。
引き出しを閉じる。
そこで、ふと朔の言葉が蘇った。
――茜、昔いつも何か持ち歩いてた気がする。
――ニヤニヤしながら眺めてたから、何書いてるんだろうなって思ってた。
「……日記」
そういえば、そんなものを持っていた。
けれど、どこにしまったのかは思い出せない。
私は本棚へ向かった。
下の収納を開ける。
古いアルバムや学校でもらったプリントの間に、薄いノートが挟まっていた。
「これかな」
取り出して開く。
けれど、中に並んでいたのは授業のノートだった。
「違うか」
苦笑しながら戻す。
朔に覗かれそうになって怒っていたくらいだ。
見つからないように、どこか別の場所へしまっていたのかもしれない。
部屋を見回す。
ベッドの横にある小さな棚が目に入った。
引き出しを開ける。
古いポーチ。
ヘアゴム。
小さな鏡。
どれも、昔の自分が使っていたものだ。
鏡を手に取ると、そこに今の自分の顔が映った。
少し大人びた顔。
けれど、その目だけは昔の自分と同じような気がした。
私は鏡を戻し、机の横へ視線を向ける。
そこに、古い木箱が置かれていた。
表面には細かな傷がいくつもついている。
「……これ」
しゃがみ込んで、そっと蓋を開ける。
中には古い手紙や小さなアクセサリー、それから何枚かの写真が入っていた。
写真を一枚手に取る。
子どもの頃の自分が、海の前で笑っている。
誰かと一緒に撮ったものらしい。
けれど、写真を見ても、その相手が誰なのかまでは分からなかった。
胸の奥が、小さく揺れる。
「……誰」
答えは返ってこない。
写真を箱へ戻すと、その下に薄いノートが挟まっているのが見えた。
表紙には何も書かれていない。
それでも、指先が触れた瞬間、これかもしれないと思った。
「……これかな」
ノートを手に取る。
開くのが、少し怖い。
何が書かれているのか。
誰のことが残されているのか。
そして、そこにいる昔の自分が、何を覚えていたのか。
私は一度だけ息を吐いた。
それから、ゆっくりとノートを開いた。



