君を、君だと知らなかった

 カーテンの隙間から差し込む柔らかな光で目が覚めた。
 枕元のスマホを手に取る。
 まだ早い時間だった。
 画面を消して、昨日のことを思い返す。
 タイムカプセル。
 三人で開ける約束。
 そして、そこに残されていたもの。
 「……日記」
 小さく呟く。
 昨日、朔が話していた。
 昔の私は、いつも何かを持ち歩いていたらしい。
 何を書いていたのだろう。
 誰のことを書いていたのだろう。
 そこまで考えて、ひとつの名前が浮かんだ。
 「……湊」
 昨日、自分の口から初めて呼んだ名前。
 まだ、その顔は思い出せない。
 声も、笑い方も、はっきりとは浮かばない。
 それでも、その名前だけはもう、知らないものではなかった。
 私はベッドを出た。
 今日は実家へ行こう。
 そう決めると、顔を洗い、髪を整える。
 服を選ぶ手にも、いつもより少しだけ時間がかかった。
 昨日までなら、町のどこへ行こうかと考えていただろう。
 今日は違う。
 昔の自分が残したものを探しに行く。
 そう思うと、胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。
 バッグを持って部屋を出る。
 女将さんに声をかけると、笑顔で「いってらっしゃい」と送り出してくれた。
 「行ってきます」
 そう返して、宿を出る。
 最初は少し照れくさかったその言葉も、今ではすっかり馴染んでいた。


 朝の町は、まだ静かだった。
 開店前の店先を通り過ぎる。
 海から吹く風が、頬を撫でていく。
 空はよく晴れていた。
 私はバス停へ向かいながら、何度か振り返った。
 この道も。
 あの角も。
 昨日、朔と歩いた道も。
 一人で見ると、少しだけよそよそしく感じる。
 それでも、もう不安はなかった。
 バス停に着くと、次の便まで少し時間があった。
 ベンチに座り、海の方へ目を向ける。
 穏やかな波が、朝の光を受けて揺れている。
 昨日、朔と見た海。
 同じ場所なのに、今日は少し遠く感じた。
 「……あれから、ずいぶん経ったんだな」
 誰に言うでもなく呟く。
 町を出てから、東京で暮らした時間。
 仕事をして、人と出会って、いろんな日を過ごしてきた。
 それなのに、ここへ戻ってきてから、しまい込んでいたものが少しずつ顔を出している。
 昨日の秘密基地。
 三つ並んだ石。
 記憶の端に残る声。
 そして、湊という名前。
 その名前を思い浮かべるだけで、胸の奥がかすかに揺れた。
 「……どんな人だったんだろう」
 呟いたところで、遠くからバスが近づいてきた。
 私は立ち上がる。
 バスが停まり、扉が開く。
 「お願いします」
 運転手に軽く頭を下げて乗り込んだ。
 車内には、数人の乗客がいるだけだった。
 窓側の席に座ると、バスがゆっくり走り出す。
 見慣れてきた町並みが、窓の外を流れていく。
 昨日まで歩いていた道も、バスの中から見ると少し違っていた。
 海沿いの道を抜け、商店街を通り過ぎる。
 古い建物。
 新しくなった店。
 昔から残っている看板。
 その一方で、いつの間にか姿を消したものもある。
 「あ……」
 角を曲がったとき、小さな公園が見えた。
 滑り台と古いベンチ。
 その隣には、大きくなった木が一本立っている。
 思わず窓へ顔を寄せる。
 ここは知っている。
 そう思った。
 けれど、何をしていた場所なのかまでは出てこない。
 ただ、夏の日差しと、誰かの笑い声が一瞬だけ浮かんだ。
 目を閉じる。
 けれど、それ以上は続かなかった。
 バスは次の停留所へ向かって走っていく。
 しばらくすると海が見えなくなり、住宅街の向こうに低い山が現れた。
 昔から変わらない景色なのか。
 それとも、私が覚えていないだけなのか。
 そんなことを考えていると、道路脇に小さな神社が見えた。
 鳥居の向こうに木々が茂っている。
 「あそこ……」
 視線が自然と引き寄せられた。
 あの石段を上ったことがある。
 そんな感覚だけが残っている。
 誰と一緒だったのかは、分からない。
 バスは何事もなかったように、その前を通り過ぎていった。
 私は振り返らず、窓の外を眺める。
 駅から離れるほど、昔の景色が増えていく。
 ここで過ごしていた頃の自分が、まだどこかにいるような気がした。
 やがて、目的のバス停の名前が車内に流れる。
 私は降車ボタンを押した。
 小さな電子音が響き、少ししてバスが停まる。
 席を立ち、扉が開くのを待った。