君を、君だと知らなかった

 秘密基地を出る頃には、昼を少し過ぎていた。
 「……お腹空いた」
 「今?」
 「朝から歩いてるんだから仕方ないでしょ」
 「まあ、そうだけど」
 朔が少し笑う。
 「どっかで軽く食べてくか」
 「うん」
 近くの店で簡単に昼食を済ませてから、私たちは町へ戻る道を歩いていた。
 午前中から歩き続けたせいか、足には少し疲れが残っている。
 でも、嫌な疲れではなかった。
 「ねえ、朔」
 「ん?」
 「昔って、学校が終わったら何してたの?」
 「急にどうした?」
 「今日いろいろ思い出したから」
 朔は少し考えるように空を見上げた。
 「そのまま海行ったり、秘密基地行ったり。夏なら日が暮れるまで遊んでたな」
 「宿題は?」
 「……それは帰ってから」
 「ちゃんとやってた?」
 「やってたよ」
 「本当に?」
 「たぶん」
 「たぶんって」
 思わず笑ってしまう。
 朔も小さく笑った。
 「茜は、よく宿題忘れてただろ」
 「私が?」
 「うん」
 「全然覚えてない」
 「だろうな」
 そう言って、朔は前を向いた。
 「でも、湊(みなと)がよく助けてた」
 その名前を聞いた瞬間、足がほんの少しだけ止まりそうになった。
 「……みなと」
 自分でも確かめるように、その名前を口にする。
 すると、朔が一瞬だけ言葉を止めた。
 けれど、すぐにいつもの表情に戻る。
 「……気になってたんだろ。あいつの名前」
 「え?」
 「さんずいに、奏でるって書いて湊」
 「あぁ……」
 その瞬間、昨日の浜辺で聞いた親子の会話を思い出した。
 ――港まで迎えに行く。
 あのとき、なぜかその言葉が頭に残った。
 港。
 湊。
 同じ音だったから。
 だからだったんだ。
 昔、一緒に過ごした人と同じ名前だったから。
 その人の顔は、まだ思い出せない。
 どんな声だったのかも。
 どんなふうに笑っていたのかも。
 なのに、その名前だけは胸の奥にすっと収まった。
 「……私、本当にその人と一緒にいたんだね」
 「うん」
 朔はそれだけ答えた。
 少し歩いてから、私は口を開いた。
 「私、昔どんなこと話してた?」
 「いろいろ」
 「その……湊さんとは」
 「湊でいいだろ」
 朔がこちらを見る。
 「昔もそう呼んでた」
 「……そっか」
 私は少しだけ考えてから、言い直した。
 「湊と、何話してた?」
 朔は少し黙った。
 「……たぶん、どうでもいいことばっかりだったよ」
 「どうでもいいこと」
 「今日何して遊ぶとか、どこ行くとか。あそこに行きたいとか」
 「……なんか、今とあんまり変わらないね」
 「そうかもな」
 朔が笑う。
 その横顔を見ながら、私はふと思った。
 湊は、どんなふうに私と話していたんだろう。
 朔が今こうして隣を歩いているように、湊も隣で歩いていたんだろうか。
 それとも――。
 もっと前を歩いていたんだろうか。
 そう考えたとき、朝の灯台で聞いた言葉がふいに蘇った。
 ――届かない場所にあるものに触れたい。
 「ねえ、朔」
 「ん?」
 「湊って……昔から、ああいう人だったの?」
 「どういう人?」
 「なんていうか……」
 言葉を探す。
 「私より先に、どこかへ行っちゃいそうな人」
 朔の足が、ほんの少しだけ遅くなった。
 「……そうだったかもな」
 それ以上は言わなかった。
 私はその横顔を見る。
 なぜか、少しだけ寂しそうに見えた。
 「でも」
 朔が前を向いたまま言う。
 「茜が追いかけてくるの、待ってたよ」
 「……私が?」
 「うん」
 胸の奥が、また小さく揺れた。
 前を歩く誰か。
 その背中を追いかける自分。
 どこか遠くで聞こえる笑い声。
 一瞬だけ、夏の光の中に誰かの姿が浮かんだ気がした。
 けれど、次の瞬間にはもう消えていた。
 「……変なの」
 「何が?」
 「分からない」
 私は小さく笑った。
 「でも……その人のこと、少し知りたいかも」
 そう言ってから、ふと思った。
 今、どこにいるんだろう。
 湊は、今もこの町にいるんだろうか。
 それとも、もうどこか遠くで暮らしているんだろうか。
 聞こうと思えば、聞けた。
 隣を歩いている朔なら、きっと知っている。
 でも――。
 私はそれ以上、考えるのをやめた。
 今日は、名前を思い出せただけでいい。
 昨日まで、私の中には何もなかった。
 誰かがいたことさえ、分からなかった。
 それが今は、名前だけでもちゃんと残っている。
 それだけで、少しだけ前に進めた気がした。
 今どこにいるのかは、まだ知らなくてもいい。
 いつか思い出せるかもしれない。
 そんな気がした。
 朔は何も言わなかった。
 ただ、歩く速度を少しだけ落とした。
 いつの間にか、私たちは並んで歩いていた。
 しばらく歩いていると、私はふと秘密基地のことを思い出した。
 三つ並んだ石。
 海の見える場所。
 そこにいた、もう一人の誰か。
 その景色を思い返していると、ふと別のことが頭に浮かんだ。
 「ねえ、朔」
 「ん?」
 「昔の私って、何か残してたりしないかな」
 「残す?」
 「うん。手紙とか……日記とか」
 少し考えてから、朔が言った。
 「……そういえば、タイムカプセル埋めたな」
 「タイムカプセル?」
 「秘密基地に」
 「私も入れた?」
 「もちろん」
 「何入れたの?」
 「手紙とか。あとは、子どもの頃のくだらないもの」
 「へえ……」
 そんなものを埋めた記憶は、やっぱりなかった。
 「いつ開けることになってたの?」
 何気なく聞くと、朔は少しだけ黙った。
 「……十年後」
 「十年後」
 その言葉を聞いて、私は思わず足を止めた。
 十年。
 それは、私がこの町を離れていた時間と同じだった。
 「……じゃあ」
 私は朔を見る。
 「今年?」
 「そう」
 短い返事だった。
 私はしばらく何も言えなかった。
 今年。
 ちょうど十年。
 そう考えると、胸の奥に小さなざわめきが広がった。
 「……もしかして」
 朔がこちらを見る。
 「茜が今年帰ってきたのって、覚えてたからなのかと思ってた」
 「私が?」
 「うん」
 「……全然覚えてないよ」
 正直に答えると、朔は少しだけ目を伏せた。
 「そっか」
 「ごめん」
 「なんで謝るんだよ」
 「だって……」
 「別に。そういうもんだろ」
 そう言って、朔は前を向いた。
 私は少しだけ黙って歩いた。
 十年前の私が、どんな気持ちでこの約束をしたのか。
 今の私には、まだ何も思い出せない。
 「でも、どうやって約束したの?」
 「どうやってって?」
 「十年後に開けようって、誰が言ったの?」
 「三人で決めたんだよ」
 「三人で」
 「うん。十年後に、三人でここに集まって、一緒に開けようって」
 その言葉を聞いて、私は少しだけ黙った。
 「……じゃあ」
 三人。
 その言葉が胸の奥に残る。
 「まだ開けられないね」
 「……そうだな」
 少しだけ沈黙が流れる。
 けれど、次の瞬間。
 「まあ、約束忘れてんのは湊も同じじゃん」
 朔がそう言って、少し笑った。
 「あ……」
 思わず私も笑ってしまう。
 「それもそうだね」
 「だから、俺たちだけで開けるのも違うだろ」
 「うん」
 私は頷いた。
 タイムカプセルがどこにあるのかも。
 何が入っているのかも。
 まだ何も分からない。
 それでも。
 三人で開けると決めたものなら、今はまだ、そのままでいい気がした。
 「……いつか、三人で開けられるといいね」
 私がそう言うと、朔は少しだけ遠くを見るようにして、
 「……そうだな」
 と答えた。
 私たちはそれ以上、タイムカプセルの話をしなかった。
 その日は、そのまま町へ戻った。


 その夜。
 私は何度も「十年後」という言葉を思い出していた。
 十年前の私が、何を残したのか。
 それだけが、少し気になっていた。
 そんなことを考えていると、別れ際に朔と話したことを思い出した。
 「日記って言葉で思い出したんだけどさ。茜、昔いつも何か持ち歩いてた気がする」
 「私が?」
 「うん。ニヤニヤしながら眺めてたから、何書いてるんだろうなって思ってた」
 「ニヤニヤって……」
 「覗こうとしたら、ダメって毎回怒られてたな」
 「そりゃあ、そうでしょうね……」
 そのときは、昔の自分がそんなものを持ち歩いていたことがおかしくて、軽く笑って終わった。
 でも、今になって考えてみると。
 もしかしたら、何か手がかりになるかもしれない。
 日記があるとしたら、やっぱり……実家だろうか。
 そう思ったとき、スマホの通知音が鳴った。
 画面を見ると、朔からだった。
 『明日の午前中、ちょっと仕事が入った』
 思わず、なんでわざわざ報告してくるんだろうと思う。
 それでもきっと、明日も一緒に町を回るつもりでいてくれたのだろう。
 「交換してから初めてのメールがこれって……」
 思わず小さく笑う。
 まあ、朔らしいと言えば朔らしいか。
 私は少し考えてから、返信を打った。
 『分かった。私は実家に日記を取りに行こうと思う』
 自分の予定も、なんとなく伝えておきたかった。
 考えてみれば、もともとは実家に帰るために、この町へ戻ってきたはずなのだ。
 それなのに、ここ数日は朔と町を歩いてばかりだった。
 きっとお母さんたちも待っている。
 帰る前に、一度連絡しておこう。
 そう思ったところで、またスマホが震えた。
 『そっか。行ってらっしゃい』
 短い返事だった。
 私はその画面をしばらく眺めていた。
 たったそれだけの言葉なのに、なぜか少しだけ安心する。
 「……行ってらっしゃい、か」
 小さく呟いて、スマホを伏せた。
 窓の外では、夜の町が静かに眠っている。
 昼間歩いた道も、秘密基地も、今は暗闇の向こうだ。
 その中に、十年前の私が残したものがある。
 そう考えると、胸の奥が少しだけざわついた。
 本当に日記が残っているのかは分からない。
 見つけたとしても、そこに何が書かれているのかも分からない。
 それでも、明日は少しだけ昔の自分に会いに行ってみようと思った。
 私は明日の支度を簡単に済ませ、ベッドに入った。
 目を閉じる。
 けれど、なかなか眠れなかった。
 三つ並んだ石。
 海の見える場所。
 「十年後」という言葉。
 そして、まだ顔の思い出せない誰か。
 頭の中に浮かんでは消えていく。
 私は布団の中で小さく息を吐いた。
 明日、何か思い出せるだろうか。
 そんなことを考えながら、いつの間にか眠りに落ちていた。