少し先の木々の向こうに、白いものが見えた。
最初は建物の壁だと思った。
けれど、坂道を進むにつれて、それが少しずつ形を現していく。
「……あれ」
私の足が自然に止まった。
「見えた?」
「うん」
朔も隣で足を止める。
木々の向こうに、白い塔が伸びていた。
「……思ったより大きい」
「近くで見るとそうだろ」
私はしばらく、その姿から目を離せなかった。
昨日、図書館で見た写真が頭に浮かぶ。
少し形の違う、昔の灯台。
写真の中に残っていたその姿と、目の前にある白い塔が重なった。
「……この景色」
思わず言葉がこぼれた。
朔がこちらを見る。
「どうした?」
「ううん……」
私はもう一度、灯台を見上げる。
「写真で見たのと、同じ場所なんだなって」
「当たり前だろ」
「そうなんだけど」
それだけではなかった。
写真を見たときから、胸の奥に引っかかっていたものが、今になって少し強くなっている。
「……なんか、知ってる気がする」
朔はしばらく何も言わなかった。
それから、ほんの少しだけ笑う。
「……そうかもな」
「え?」
「いや」
朔は灯台へ視線を戻した。
「茜にとっては、初めてみたいなもんかもしれないけど」
「……うん」
「昔の茜は、ここを知ってる」
その言葉に、胸の奥が小さく揺れた。
「……昔の私」
「うん」
「本当に、ここに来たことがあるんだね」
「あるよ」
迷いのない返事だった。
私はもう一度、灯台を見上げる。
知らないはずの場所。
けれど、ここまで来る道を、私は迷わなかった。
その事実が、少しだけ怖かった。
「……じゃあ、行こう」
今度は私から歩き出した。
「うん」
朔も隣に並ぶ。
さっきまで少し沈んでいた朔の表情は、いつの間にか穏やかなものに戻っていた。
それを見て、私は少しだけ安心した。
坂道を上りきる。
木々が途切れた先に、白い灯台が姿を現した。
近くで見ると、思っていたよりずっと大きい。
白い壁は朝の日差しを受けて眩しく光っていて、その向こうにはどこまでも青い空が広がっている。
傍には「白凪灯台」と書かれた木製の看板が立っていた。
「……着いた」
思わず声が漏れる。
「疲れた?」
「ちょっとだけ」
「運動不足じゃない?」
「失礼だなぁ」
「東京って、そんなに歩かないのか?」
「歩くよ。駅とかで」
「それは歩いてるって言わないだろ」
「じゃあ、何?」
「移動」
「同じじゃん」
「違う」
朔が笑う。
私もつられて笑った。
くだらないやり取りをしていると、胸の奥にあったものが少しだけ軽くなった。
「ここから海、よく見えるね」
「うん。晴れてると特に」
「ここから見える夕日が綺麗なんだってね」
「よく知ってるな」
「女将さんが言ってた」
「あぁ……」
朔は灯台の脇にある小さな展望スペースを指さした。
「こっち」
「展望台みたいなのがあるの?」
「大したもんじゃないけど」
二人で展望スペースへ向かう。
手すりの向こうには、青い海が広がっていた。
朝の光を受けた海面が、細かくきらめいている。
私は思わず息を止めた。
「……きれい」
「別に夕方じゃなくても、ここから見る景色はいつも綺麗だよ」
「そうだね。本当に綺麗」
昨日、雨の中で見た海とはまるで違う。
同じ海なのに、こんなにも違って見える。
しばらく海を眺めていると、胸の奥にまた小さな引っかかりが生まれた。
見覚えがある。
そんな気がした。
でも、いつ、どこで見たのかまでは辿れない。
「……変なの」
「何が?」
「この景色」
私は海を見たまま答える。
「見てると、前にもここにいたような気がする」
朔は何も言わなかった。
ただ、私の隣に立ったまま、同じ海を見ている。
「昨日、図書館で見た写真のせいかな」
「かもな」
「うん……たぶん」
そう答えたものの、胸の奥では納得できていなかった。
写真を見たから知っている。
それだけなら、こんなふうに胸がざわつくはずがない。
もっと遠いところに、別の記憶がある。
そんな気がした。
その記憶を探ろうとすると、頭の中に薄い霧がかかったようになる。
私は手すりに軽く手を置いた。
「……ここ、好きかも」
「そう?」
「うん」
「じゃあ、来てよかったな」
「……うん」
その言葉が、妙に胸に残った。
しばらく二人で海を眺めていた。
波の音を聞いているうちに、朔がふと遠くを見る。
「俺さ、小さい頃はここから見る海が好きだったんだよな」
「へえ」
朔は海の向こうを見つめたまま続けた。
「今思うと、何言ってるんだって思うけどさ。近くのものより、遠くのものに憧れがあったっていうか……」
「遠くのもの?」
「うん。届かない場所にあるものに触れたいって気持ちが、強かったのかも」
私は海の向こうを見る。
その感覚は、私には少し遠かった。
私はどちらかと言えば、手の届くところにあるものを離したくないと思う方だった気がする。
「なんか、あの頃は中途半端な気持ちで過ごしてたのかもな」
朔が小さく笑う。
「それに、本当に俺が憧れてたのは、きっと……」
そこで言葉が止まった。
朔は海の向こうを見たまま、少しだけ目を細める。
「……あいつなら、なんて言うんだろうな」
その一言で、胸の奥がざわついた。
昨日から感じていたもの。
いや。
もっと前から、何かが足りないと思っていたのかもしれない。
図書館で見た写真。
昔の海。
灯台。
朔が話してくれた、昔の私。
そして今の言葉。
点だったものが、頭の中で少しずつ繋がっていく。
でも、その先だけが見えない。
私たちは、本当に二人だったんだろうか。
「……私たちって」
思わず口にした。
朔がこちらを見る。
「ん?」
「……ううん」
言葉にするのが怖くなった。
もし口にしてしまったら、本当に何かを思い出してしまう気がした。
私は視線を海へ戻す。
けれど、胸の中に浮かんだ疑問は消えなかった。
私たちは、ふたりじゃなくて――。
「……三人だった?」
小さく呟いた声は、波の音に紛れてしまいそうだった。
朔は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ目を伏せた。
その沈黙が、答えのように思えた。
「なぁ……俺さ」
「な、何……」
いつもと違う朔の雰囲気に、思わず身構える。
朔は何かを言おうとして、少しだけ口を開いた。
けれど――
「……いや、なんでもない」
ふっと笑う。
いつもの穏やかな笑い方だった。
「……そう?」
「うん」
「なんか、今日の朔変だよ」
「そうか?」
「うん。昨日からちょっと変」
「……そういう日もあるだろ」
「何それ」
「俺にも分からない」
「ふふ」
思わず笑う。
朔も小さく笑った。
さっきまでの重たい空気が、少しだけほどけていく。
けれど、胸の奥に残った疑問だけは消えなかった。
私たちは、三人だった。
その確信だけが、少しずつ形を持ちはじめている。
それなのに。
もう一人の名前だけが、どうしても出てこなかった。
しばらく海を眺めていると、朔がふいに口を開いた。
「もう一ヶ所、行ってみる?」
「え?」
「昔、よく行ってた場所」
「どこ?」
「行けばわかるよ」
「よく行ってたって……私も?」
「もちろん」
「えー、どこだろ」
朔は少しだけ笑った。
「行けばわかるって」
「教えてよ」
「秘密」
ニヤリと笑うその顔が、ふと昔の朔と重なった。
「……なんか、今の朔、昔と同じ」
「そう?」
「うん。そういう顔してた気がする」
「覚えてるんだ?」
「……分からない。でも、そんな気がする」
朔はそれ以上何も言わずに歩き出した。
「ほら、行くぞ」
「待ってよ」
私もそのあとを追った。
灯台を離れると、朔は海とは反対側にある細い道へ入っていった。
「こっち?」
「うん」
「こんな道、あったんだ」
「昔からあるよ」
「全然覚えてない」
「そのうち思い出すかもな」
そう言って、朔は振り返った。
その顔は笑っていたけれど、どこか期待しているようにも見えた。
細い道をしばらく進む。
両側には背の低い草が生えていて、その向こうには古い家の塀が続いていた。
道幅は、大人二人が並んで歩くには少し狭い。
私は朔の後ろを歩きながら、周りを眺めていた。
ふと、足元の石や曲がり角に目が留まる。
見覚えがあるような気もする。
けれど、記憶の中からは何も取り出せなかった。
「……ねえ」
「ん?」
「この辺、何か引っかかる」
「何が?」
「道を見てると、前にも歩いたような気がして」
自分でも曖昧な言い方だと思った。
「でも、どこで見たのかは分からない」
「じゃあ、もう少し歩いてみよう」
朔はそれだけ言って、先へ進んだ。
少し先で、道が二つに分かれている。
朔が右へ向かおうとしたとき、私は無意識に左側へ目を向けた。
その先に、細い坂道が続いている。
「……こっち」
口から、先に言葉が出た。
朔が足を止める。
「こっち?」
「うん……」
自分でも驚いて、私は道の先を見る。
「なんでそう思ったのか、分からないけど」
朔は少しの間、私を見ていた。
それから、ふっと笑う。
「じゃあ、行ってみるか」
朔が左の道へ入る。
「合ってるの?」
「たぶんな」
「たぶんなんだ」
「俺だって、道全部を覚えてるわけじゃないからな」
その返事に、少しだけ笑う。
けれど、足は自然と左の道へ向かっていた。
坂を下ると、木々の間から古い石垣が見えてきた。
その先には、人が一人通れるくらいの細い隙間がある。
朔がそこへ入っていく。
「ちょっと、待って」
私も後を追う。
木の枝を避けながら進んでいくと、急に視界が開けた。
そこには、小さな空き地があった。
古い木が一本立っている。
その根元には、平らな石が三つ並べられていた。
海も少しだけ見える。
町の中にあるのに、そこだけ外から切り離されたような場所だった。
「……ここ」
思わず足が止まる。
「どう?」
朔が振り返る。
「……分からない」
そう答えたけれど、胸の奥では何かが小さく揺れていた。
目の前の景色を見ていると、言葉より先に感覚だけが浮かんでくる。
「……ここ、来たことある」
口から自然に言葉がこぼれた。
朔は何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を細めて、空き地を見渡した。
「秘密基地」
「……秘密基地」
「俺たちの」
その言葉に、胸が強く締めつけられた。
「俺たち……」
私はゆっくり周りを見渡した。
古い木。
石。
海の見える場所。
どれも記憶としては掴めない。
それなのに、ここにいた時間だけが、ぼんやりと残っている。
「ここで何してたの?」
「いろいろ」
「いろいろって」
「お菓子食べたり」
「うん」
「海を見たり」
「……うん」
「くだらない話したり」
朔が笑う。
その笑顔を見ていると、胸の奥に何かが浮かびそうになる。
けれど、あと少しというところで消えてしまう。
「……三人で」
私が呟くと、朔の表情がほんの少しだけ変わった。
「……うん」
短い返事だった。
それ以上、朔は何も言わなかった。
私は三つ並んだ石を見る。
「……三つ」
「ん?」
「石」
「うん」
「なんで三つあるの」
朔は少しだけ黙った。
「三人で座ってたから」
「……私と、朔と」
そこで言葉が止まった。
自分でも、何を聞こうとしているのか分からない。
けれど、もう一人いる。
その感覚だけが、はっきり残っていた。
「……もう一人」
ぽつりと呟く。
朔は答えなかった。
私は三つ目の石に近づく。
しゃがみ込んで、その表面にそっと触れた。
すると、胸の奥に小さな感覚が走った。
――ここ、誰かが座っていた。
なぜか、そう思った。
顔も、声も思い出せない。
けれど、そこに誰かがいたことだけは分かる。
私の隣ではない。
少し前にいたような――そんな気がした。
「……変なの」
「何が?」
「分からない」
私は三つ目の石を見つめたまま答える。
「この石に、誰かが座ってた気がする」
朔が少しだけ目を伏せる。
「……座ってたよ」
「誰」
聞いた瞬間、朔が黙った。
名前を聞きたい。
そう思った。
なのに、聞くことが怖かった。
どうしてなのかは分からない。
「……誰だった?」
ようやく口にすると、朔は海の方を見た。
「……そのうち思い出すよ」
「教えてくれないんだ」
「うん」
「どうして」
「自分で思い出した方がいいと思うから」
少しだけ意地悪そうに笑う。
けれど、その目は笑っていなかった。
私は何も言えず、もう一度三つの石を見る。
三人。
その言葉だけが、頭の中に残っていた。
そのとき、ふいに風が吹いた。
木の葉が大きく揺れる。
波の音に混じって、どこからか声が聞こえた。
『……早く来いよ』
「……え?」
反射的に顔を上げる。
誰もいない。
けれど、もう一度聞こえた気がした。
『遅いって』
少し遠くから、振り返りながら呼ぶような声。
胸の奥が、大きく揺れた。
少しだけからかうような口調。
それなのに、耳に届いた瞬間、体が先に反応した。
追いかけなきゃ。
そんな気持ちが、ほんの一瞬だけ込み上げる。
「……誰」
思わず立ち上がる。
木々の向こうを見ても、人影はない。
ただ、風に揺れる葉の隙間から、光がちらついている。
「どうかしたか?」
朔の声で、一気に現実へ引き戻された。
「今、声が……」
「声?」
「うん」
「なんて?」
「……『早く来い』って」
朔は一瞬だけ目を見開いた。
ほんのわずかな変化だった。
けれど、すぐに目を細める。
「……そうか」
その声は、いつもより少しだけ低かった。
海の向こうを見つめる横顔には、さっきまでとは違う表情が浮かんでいた。
懐かしそうで。
少し寂しそうで。
それでも、どこか嬉しそうだった。
「……あいつらしいな」
「何か知ってるの?」
私が尋ねると、朔は少しだけ笑った。
「なんでもない」
「またそれ」
「うん」
いつもの朔なら、ここで軽く笑って終わるはずだった。
でも今日は違った。
ほんの一瞬だけ、遠くを見るような目をしていた。
まるで、そこにいない誰かを見ているみたいに。
「ねぇ……」
何かを言いかけて、止める。
今、何かを聞いても、全部はぐらかされる気がした。
「昔から、あいつはそうだった」
そう言いながら、朔が少しだけ困ったように笑う。
その笑顔の奥には、まだ少しだけ寂しさが残っていた。
私はその表情を見ながら、胸の奥に浮かんだ感覚を追いかける。
夕焼け。
三つの影。
前を歩く誰か。
振り返って笑う声。
その声が誰のものなのか、やっぱり分からない。
だけど、今日は何も聞かないでおこう。
聞いてしまえば、何かが壊れてしまいそうな気がしたから。
三つの石を見つめる。
名前はまだ出てこない。
顔も、はっきりとは思い出せない。
それでも。
ここには、私と朔だけじゃなかった。
その人は確かにここにいて。
いつも私たちより少し先を歩いていた。
そして朔は――その背中を、ずっと見ていたのかもしれない。
そう思うと、隣にいるはずの朔が、ほんの少し遠くにいるように感じられた。
最初は建物の壁だと思った。
けれど、坂道を進むにつれて、それが少しずつ形を現していく。
「……あれ」
私の足が自然に止まった。
「見えた?」
「うん」
朔も隣で足を止める。
木々の向こうに、白い塔が伸びていた。
「……思ったより大きい」
「近くで見るとそうだろ」
私はしばらく、その姿から目を離せなかった。
昨日、図書館で見た写真が頭に浮かぶ。
少し形の違う、昔の灯台。
写真の中に残っていたその姿と、目の前にある白い塔が重なった。
「……この景色」
思わず言葉がこぼれた。
朔がこちらを見る。
「どうした?」
「ううん……」
私はもう一度、灯台を見上げる。
「写真で見たのと、同じ場所なんだなって」
「当たり前だろ」
「そうなんだけど」
それだけではなかった。
写真を見たときから、胸の奥に引っかかっていたものが、今になって少し強くなっている。
「……なんか、知ってる気がする」
朔はしばらく何も言わなかった。
それから、ほんの少しだけ笑う。
「……そうかもな」
「え?」
「いや」
朔は灯台へ視線を戻した。
「茜にとっては、初めてみたいなもんかもしれないけど」
「……うん」
「昔の茜は、ここを知ってる」
その言葉に、胸の奥が小さく揺れた。
「……昔の私」
「うん」
「本当に、ここに来たことがあるんだね」
「あるよ」
迷いのない返事だった。
私はもう一度、灯台を見上げる。
知らないはずの場所。
けれど、ここまで来る道を、私は迷わなかった。
その事実が、少しだけ怖かった。
「……じゃあ、行こう」
今度は私から歩き出した。
「うん」
朔も隣に並ぶ。
さっきまで少し沈んでいた朔の表情は、いつの間にか穏やかなものに戻っていた。
それを見て、私は少しだけ安心した。
坂道を上りきる。
木々が途切れた先に、白い灯台が姿を現した。
近くで見ると、思っていたよりずっと大きい。
白い壁は朝の日差しを受けて眩しく光っていて、その向こうにはどこまでも青い空が広がっている。
傍には「白凪灯台」と書かれた木製の看板が立っていた。
「……着いた」
思わず声が漏れる。
「疲れた?」
「ちょっとだけ」
「運動不足じゃない?」
「失礼だなぁ」
「東京って、そんなに歩かないのか?」
「歩くよ。駅とかで」
「それは歩いてるって言わないだろ」
「じゃあ、何?」
「移動」
「同じじゃん」
「違う」
朔が笑う。
私もつられて笑った。
くだらないやり取りをしていると、胸の奥にあったものが少しだけ軽くなった。
「ここから海、よく見えるね」
「うん。晴れてると特に」
「ここから見える夕日が綺麗なんだってね」
「よく知ってるな」
「女将さんが言ってた」
「あぁ……」
朔は灯台の脇にある小さな展望スペースを指さした。
「こっち」
「展望台みたいなのがあるの?」
「大したもんじゃないけど」
二人で展望スペースへ向かう。
手すりの向こうには、青い海が広がっていた。
朝の光を受けた海面が、細かくきらめいている。
私は思わず息を止めた。
「……きれい」
「別に夕方じゃなくても、ここから見る景色はいつも綺麗だよ」
「そうだね。本当に綺麗」
昨日、雨の中で見た海とはまるで違う。
同じ海なのに、こんなにも違って見える。
しばらく海を眺めていると、胸の奥にまた小さな引っかかりが生まれた。
見覚えがある。
そんな気がした。
でも、いつ、どこで見たのかまでは辿れない。
「……変なの」
「何が?」
「この景色」
私は海を見たまま答える。
「見てると、前にもここにいたような気がする」
朔は何も言わなかった。
ただ、私の隣に立ったまま、同じ海を見ている。
「昨日、図書館で見た写真のせいかな」
「かもな」
「うん……たぶん」
そう答えたものの、胸の奥では納得できていなかった。
写真を見たから知っている。
それだけなら、こんなふうに胸がざわつくはずがない。
もっと遠いところに、別の記憶がある。
そんな気がした。
その記憶を探ろうとすると、頭の中に薄い霧がかかったようになる。
私は手すりに軽く手を置いた。
「……ここ、好きかも」
「そう?」
「うん」
「じゃあ、来てよかったな」
「……うん」
その言葉が、妙に胸に残った。
しばらく二人で海を眺めていた。
波の音を聞いているうちに、朔がふと遠くを見る。
「俺さ、小さい頃はここから見る海が好きだったんだよな」
「へえ」
朔は海の向こうを見つめたまま続けた。
「今思うと、何言ってるんだって思うけどさ。近くのものより、遠くのものに憧れがあったっていうか……」
「遠くのもの?」
「うん。届かない場所にあるものに触れたいって気持ちが、強かったのかも」
私は海の向こうを見る。
その感覚は、私には少し遠かった。
私はどちらかと言えば、手の届くところにあるものを離したくないと思う方だった気がする。
「なんか、あの頃は中途半端な気持ちで過ごしてたのかもな」
朔が小さく笑う。
「それに、本当に俺が憧れてたのは、きっと……」
そこで言葉が止まった。
朔は海の向こうを見たまま、少しだけ目を細める。
「……あいつなら、なんて言うんだろうな」
その一言で、胸の奥がざわついた。
昨日から感じていたもの。
いや。
もっと前から、何かが足りないと思っていたのかもしれない。
図書館で見た写真。
昔の海。
灯台。
朔が話してくれた、昔の私。
そして今の言葉。
点だったものが、頭の中で少しずつ繋がっていく。
でも、その先だけが見えない。
私たちは、本当に二人だったんだろうか。
「……私たちって」
思わず口にした。
朔がこちらを見る。
「ん?」
「……ううん」
言葉にするのが怖くなった。
もし口にしてしまったら、本当に何かを思い出してしまう気がした。
私は視線を海へ戻す。
けれど、胸の中に浮かんだ疑問は消えなかった。
私たちは、ふたりじゃなくて――。
「……三人だった?」
小さく呟いた声は、波の音に紛れてしまいそうだった。
朔は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ目を伏せた。
その沈黙が、答えのように思えた。
「なぁ……俺さ」
「な、何……」
いつもと違う朔の雰囲気に、思わず身構える。
朔は何かを言おうとして、少しだけ口を開いた。
けれど――
「……いや、なんでもない」
ふっと笑う。
いつもの穏やかな笑い方だった。
「……そう?」
「うん」
「なんか、今日の朔変だよ」
「そうか?」
「うん。昨日からちょっと変」
「……そういう日もあるだろ」
「何それ」
「俺にも分からない」
「ふふ」
思わず笑う。
朔も小さく笑った。
さっきまでの重たい空気が、少しだけほどけていく。
けれど、胸の奥に残った疑問だけは消えなかった。
私たちは、三人だった。
その確信だけが、少しずつ形を持ちはじめている。
それなのに。
もう一人の名前だけが、どうしても出てこなかった。
しばらく海を眺めていると、朔がふいに口を開いた。
「もう一ヶ所、行ってみる?」
「え?」
「昔、よく行ってた場所」
「どこ?」
「行けばわかるよ」
「よく行ってたって……私も?」
「もちろん」
「えー、どこだろ」
朔は少しだけ笑った。
「行けばわかるって」
「教えてよ」
「秘密」
ニヤリと笑うその顔が、ふと昔の朔と重なった。
「……なんか、今の朔、昔と同じ」
「そう?」
「うん。そういう顔してた気がする」
「覚えてるんだ?」
「……分からない。でも、そんな気がする」
朔はそれ以上何も言わずに歩き出した。
「ほら、行くぞ」
「待ってよ」
私もそのあとを追った。
灯台を離れると、朔は海とは反対側にある細い道へ入っていった。
「こっち?」
「うん」
「こんな道、あったんだ」
「昔からあるよ」
「全然覚えてない」
「そのうち思い出すかもな」
そう言って、朔は振り返った。
その顔は笑っていたけれど、どこか期待しているようにも見えた。
細い道をしばらく進む。
両側には背の低い草が生えていて、その向こうには古い家の塀が続いていた。
道幅は、大人二人が並んで歩くには少し狭い。
私は朔の後ろを歩きながら、周りを眺めていた。
ふと、足元の石や曲がり角に目が留まる。
見覚えがあるような気もする。
けれど、記憶の中からは何も取り出せなかった。
「……ねえ」
「ん?」
「この辺、何か引っかかる」
「何が?」
「道を見てると、前にも歩いたような気がして」
自分でも曖昧な言い方だと思った。
「でも、どこで見たのかは分からない」
「じゃあ、もう少し歩いてみよう」
朔はそれだけ言って、先へ進んだ。
少し先で、道が二つに分かれている。
朔が右へ向かおうとしたとき、私は無意識に左側へ目を向けた。
その先に、細い坂道が続いている。
「……こっち」
口から、先に言葉が出た。
朔が足を止める。
「こっち?」
「うん……」
自分でも驚いて、私は道の先を見る。
「なんでそう思ったのか、分からないけど」
朔は少しの間、私を見ていた。
それから、ふっと笑う。
「じゃあ、行ってみるか」
朔が左の道へ入る。
「合ってるの?」
「たぶんな」
「たぶんなんだ」
「俺だって、道全部を覚えてるわけじゃないからな」
その返事に、少しだけ笑う。
けれど、足は自然と左の道へ向かっていた。
坂を下ると、木々の間から古い石垣が見えてきた。
その先には、人が一人通れるくらいの細い隙間がある。
朔がそこへ入っていく。
「ちょっと、待って」
私も後を追う。
木の枝を避けながら進んでいくと、急に視界が開けた。
そこには、小さな空き地があった。
古い木が一本立っている。
その根元には、平らな石が三つ並べられていた。
海も少しだけ見える。
町の中にあるのに、そこだけ外から切り離されたような場所だった。
「……ここ」
思わず足が止まる。
「どう?」
朔が振り返る。
「……分からない」
そう答えたけれど、胸の奥では何かが小さく揺れていた。
目の前の景色を見ていると、言葉より先に感覚だけが浮かんでくる。
「……ここ、来たことある」
口から自然に言葉がこぼれた。
朔は何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を細めて、空き地を見渡した。
「秘密基地」
「……秘密基地」
「俺たちの」
その言葉に、胸が強く締めつけられた。
「俺たち……」
私はゆっくり周りを見渡した。
古い木。
石。
海の見える場所。
どれも記憶としては掴めない。
それなのに、ここにいた時間だけが、ぼんやりと残っている。
「ここで何してたの?」
「いろいろ」
「いろいろって」
「お菓子食べたり」
「うん」
「海を見たり」
「……うん」
「くだらない話したり」
朔が笑う。
その笑顔を見ていると、胸の奥に何かが浮かびそうになる。
けれど、あと少しというところで消えてしまう。
「……三人で」
私が呟くと、朔の表情がほんの少しだけ変わった。
「……うん」
短い返事だった。
それ以上、朔は何も言わなかった。
私は三つ並んだ石を見る。
「……三つ」
「ん?」
「石」
「うん」
「なんで三つあるの」
朔は少しだけ黙った。
「三人で座ってたから」
「……私と、朔と」
そこで言葉が止まった。
自分でも、何を聞こうとしているのか分からない。
けれど、もう一人いる。
その感覚だけが、はっきり残っていた。
「……もう一人」
ぽつりと呟く。
朔は答えなかった。
私は三つ目の石に近づく。
しゃがみ込んで、その表面にそっと触れた。
すると、胸の奥に小さな感覚が走った。
――ここ、誰かが座っていた。
なぜか、そう思った。
顔も、声も思い出せない。
けれど、そこに誰かがいたことだけは分かる。
私の隣ではない。
少し前にいたような――そんな気がした。
「……変なの」
「何が?」
「分からない」
私は三つ目の石を見つめたまま答える。
「この石に、誰かが座ってた気がする」
朔が少しだけ目を伏せる。
「……座ってたよ」
「誰」
聞いた瞬間、朔が黙った。
名前を聞きたい。
そう思った。
なのに、聞くことが怖かった。
どうしてなのかは分からない。
「……誰だった?」
ようやく口にすると、朔は海の方を見た。
「……そのうち思い出すよ」
「教えてくれないんだ」
「うん」
「どうして」
「自分で思い出した方がいいと思うから」
少しだけ意地悪そうに笑う。
けれど、その目は笑っていなかった。
私は何も言えず、もう一度三つの石を見る。
三人。
その言葉だけが、頭の中に残っていた。
そのとき、ふいに風が吹いた。
木の葉が大きく揺れる。
波の音に混じって、どこからか声が聞こえた。
『……早く来いよ』
「……え?」
反射的に顔を上げる。
誰もいない。
けれど、もう一度聞こえた気がした。
『遅いって』
少し遠くから、振り返りながら呼ぶような声。
胸の奥が、大きく揺れた。
少しだけからかうような口調。
それなのに、耳に届いた瞬間、体が先に反応した。
追いかけなきゃ。
そんな気持ちが、ほんの一瞬だけ込み上げる。
「……誰」
思わず立ち上がる。
木々の向こうを見ても、人影はない。
ただ、風に揺れる葉の隙間から、光がちらついている。
「どうかしたか?」
朔の声で、一気に現実へ引き戻された。
「今、声が……」
「声?」
「うん」
「なんて?」
「……『早く来い』って」
朔は一瞬だけ目を見開いた。
ほんのわずかな変化だった。
けれど、すぐに目を細める。
「……そうか」
その声は、いつもより少しだけ低かった。
海の向こうを見つめる横顔には、さっきまでとは違う表情が浮かんでいた。
懐かしそうで。
少し寂しそうで。
それでも、どこか嬉しそうだった。
「……あいつらしいな」
「何か知ってるの?」
私が尋ねると、朔は少しだけ笑った。
「なんでもない」
「またそれ」
「うん」
いつもの朔なら、ここで軽く笑って終わるはずだった。
でも今日は違った。
ほんの一瞬だけ、遠くを見るような目をしていた。
まるで、そこにいない誰かを見ているみたいに。
「ねぇ……」
何かを言いかけて、止める。
今、何かを聞いても、全部はぐらかされる気がした。
「昔から、あいつはそうだった」
そう言いながら、朔が少しだけ困ったように笑う。
その笑顔の奥には、まだ少しだけ寂しさが残っていた。
私はその表情を見ながら、胸の奥に浮かんだ感覚を追いかける。
夕焼け。
三つの影。
前を歩く誰か。
振り返って笑う声。
その声が誰のものなのか、やっぱり分からない。
だけど、今日は何も聞かないでおこう。
聞いてしまえば、何かが壊れてしまいそうな気がしたから。
三つの石を見つめる。
名前はまだ出てこない。
顔も、はっきりとは思い出せない。
それでも。
ここには、私と朔だけじゃなかった。
その人は確かにここにいて。
いつも私たちより少し先を歩いていた。
そして朔は――その背中を、ずっと見ていたのかもしれない。
そう思うと、隣にいるはずの朔が、ほんの少し遠くにいるように感じられた。



