君を、君だと知らなかった

 朝、目を覚ますと、窓の外が明るかった。
 昨日の雨が嘘のように、今日の空は眩しかった。
 カーテン越しでも、外の陽気の強さが伝わってくる。
 布団の中でしばらく天井を眺めていると、昨日のことが少しずつ浮かんできた。
 図書館に行って、昔の自分の話をして。
 昼には浜屋食堂でご飯を食べて、そのあと朔の仕事場までついていった。
 思い返してみると、昨日もずいぶん歩いた気がする。
 帰ってきたばかりの頃は、町を歩くたびに少し落ち着かなかった。
 けれど、昨日一日を過ごしたせいか、今はそれほどでもない。
 それなのに。
 図書館で見た古い写真を思い出すと、胸の奥に小さな引っかかりが残る。
 昔の海。
 昔の灯台。
 昔の自分。
 どれも確かに、自分の過去のはずだった。
 なのに、そこに写っていた時間を、自分のものとして受け取ることができない。
 昔の自分が、ちゃんとここにいた。
 朔はそう言ってくれた。
 頭では分かっている。
 私はこの町で暮らしていた。
 この道を歩いて、この海を見て、朔と一緒に過ごしていた。
 それなのに、胸のどこかではまだ、その事実を受け入れきれずにいた。
 何か大切なことを忘れている。
 そんな感覚だけが残っている。
 でも、それが何なのか考えようとすると、途端に遠くなる。
 思い出せそうで、思い出せない。
 そのことが、少しだけ怖かった。
 そんなことを考えているうちに、昨日の別れ際の会話を思い出した。
 「また明日」
 あんなふうに、誰かと次の約束を交わしたのはいつ以来だろう。
 過去ではなく、今の私が交わした約束。
 灯台へ行く。
 ただ、それだけのことなのに。
 なぜか少し楽しみだった。
 布団から起き上がり、窓際へ歩く。
 カーテンを開けると、一気に日差しが差し込んできた。
 私は思わず目を細める。
 雲ひとつない青空だった。
 窓を少し開けると、雨上がりの風が部屋の中へ入り込んでくる。
 湿った空気の中に、ほんの少しだけ潮の匂いが混じっていた。
 「……眩し」
 昨日までの雨が嘘みたいだった。
 しばらく窓の外を眺めてから、時計を見る。
 まだ約束の時間までは余裕がある。
 急ぐ必要なんてない。
 それなのに、私はいつもより早く支度を始めていた。
 顔を洗って、髪を整えて、服を選ぶ。
 東京にいるときなら、近所へ出かける程度ならもっと適当だった。
 鏡を見る時間だって、こんなに長くない。
 それなのに今日は、何度も髪を直している自分に気づく。
 「……なんでだろう」
 灯台に行くだけなのに。
 そう思って、ひとりで少し笑った。
 「別に、朔と出かけるだけなのに」
 口にしてから、急に恥ずかしくなった。
 誰もいない部屋を見回す。
 もちろん、誰もいない。
 「……何やってるんだろ」
 小さく呟いて、鞄を手に取った。


 宿を出ると、昨日までとはまるで違う町のように見えた。
 雨に濡れていた道は乾き始め、ところどころに水たまりが残っている。
 軒先から落ちる雫が、朝の日差しを受けて小さく光っていた。
 通りには、少しずつ人の姿も増えている。
 店を開ける準備をしている人。
 自転車で通り過ぎる学生。
 家の前を掃いている人。
 昨日は雨のせいか、町全体が静かに閉じているように感じた。
 今日は、その反対だった。
 町がゆっくり目を覚ましている。
 私はそんな景色を眺めながら歩いた。
 宿から灯台までは、昨日歩いた道とは少し違う。
 何度か角を曲がり、細い道を抜けていく。
 海が見える。
 遠くに灯台がある。
 坂道の向こうに町が続いている。
 その景色を眺めながら歩いていると、足が自然に先へ進んだ。
 坂道に差しかかる。
 少しだけ傾斜がきつくなって、歩く速度を落とした。
 ふと足元を見る。
 雨に濡れたアスファルトに、青空が映っている。
 昨日までずっと雨だったのに。
 今日は、こんなにも晴れている。
 そのことが少し嬉しくて、私は空を見上げた。
 「……今日、晴れてよかったな」
 誰に言うでもなく呟く。
 灯台へ続く坂道を上っていく。
 一人で歩いていると、昨日とは違う町を歩いているような気がした。
 それでも、足取りに迷いはなかった。
 そのまま坂道を上っていると、前から人影が見えてきた。
 「……茜?」
 声を聞いて、顔を上げる。
 そこにいたのは、朔だった。
 「朔。おはよう」
 「おはよう。早いな」
 「昨日、私から誘ったし」
 「そうだったな」
 「朔も楽しみだった?」
 「……まあ、少しは」
 「ほんと?」
 「嘘ついてどうするんだよ」
 朔の言葉に、思わず笑う。
 「灯台、こっちで合ってる?」
 「うん。もう少し」
 私は朔の隣に並び、前へ続く坂道を見る。
 「昨日より天気がいいと、同じ道でも全然違って見えるね」
 「昨日は雨だったからな」
 「それだけじゃない気がする」
 「何が?」
 「うーん……」
 言葉を探して、少し考える。
 「昨日は朔と一緒に歩いてたけど、今日は一人でここまで来たからかな」
 「……なるほど」
 「何か変?」
 「いや。ちゃんと自分で来られたんだなって」
 「子どもじゃないんだから」
 「そうだけど」
 朔が少し笑う。
 「この辺、道が分かりにくいから」
 「それなら最初から言ってよ」
 「でも来られたじゃん」
 「……まあね」
 思わず笑ってしまう。
 坂道を歩く足取りも、さっきまでより少し軽くなった。
 しばらく進むと、道の脇に小さな石垣が続いているのが見えた。
 「ここ、前からあった?」
 私が尋ねると、朔は石垣に目を向けた。
 「たぶん。昔からあったと思う」
 「たぶんなんだ」
 「俺も全部覚えてるわけじゃないからな」
 「そっか」
 その言葉を聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。
 朔だって、何もかも覚えているわけじゃない。
 町も少しずつ変わっている。
 私も変わった。
 分からないことがあるのは、きっと当たり前なのだ。
 「……なんかさ」
 「ん?」
 「一人で歩いてるときは、知らない町みたいだった」
 「うん」
 「でも、朔と歩いてると、少しだけ昔の町に戻ったみたいな感じがする」
 口にしてから、少し照れくさくなる。
 「……変なこと言った?」
 「いや」
 朔は前を向いたまま答えた。
 「分かる気がする」
 「ほんと?」
 「うん」
 それだけ言って、朔は少し笑った。
 二人で坂道を上っていく。
 町の音が少しずつ遠くなり、代わりに木々の葉が風に揺れる音が聞こえてきた。
 しばらくして、朔がぽつりと口を開く。
 「いつも隣にいた人たちがいなくなるってさ、寂しいもんだよな」
 「……え?」
 思わず朔を見る。
 朔は前を向いたままだった。
 「……慣れたつもりだったのにな」
 その声は、いつもより少しだけ小さかった。
 横顔も、どこか遠くを見ているように見える。
 「朔……」
 何か言おうとしたけれど、続く言葉が見つからなかった。
 慰めるのも違う気がした。
 だから、何も言わずに歩いた。
 しばらく沈黙が続く。
 それでも、不思議と気まずくはなかった。
 やがて朔が小さく息を吐く。
 「……ごめん。変なこと言った」
 「ううん」
 「忘れて」
 「……うん」
 それ以上、私は聞かなかった。
 聞いてしまったら、何かが変わってしまうような気がした。