君を、君だと知らなかった

 「……なんか、お腹空いた」
 しばらく歩いていると、朔がぽつりと呟いた。
 「私も」
 朝は宿で軽く食べただけだった。
 図書館にいる間は気にならなかったけれど、そう言われると急に空腹を感じる。
 「どうする?」
 「うーん……」
 辺りを見回していると、ふと見覚えのある通りに目が止まった。
 「そういえば、この辺って……」
 「……浜屋食堂?」
 「……浜屋食堂」
 二人の声が重なった。
 一瞬、顔を見合わせる。
 それから、どちらからともなく笑った。
 「覚えてたんだ」
 「……名前だけ」
 「俺も」
 朔が少し笑う。
 「でも、今でもたまに行くぞ」
 「そうなんだ」
 「行ってみる?」
 「うん」
 二人で並んで歩き出す。
 商店街の少し外れにある小さな食堂は、昔と変わらない看板を掲げていた。
 「……まだあるんだ」
 少し高い位置にある看板を見上げる。
 「ここ、結構長いからな」
 「なんか、ちょっと安心した」
 「大げさ」
 「いいじゃん。知ってる場所が残ってると嬉しいんだよ」
 「そういうもんか?」
 「そういうもんです」
 朔が小さく笑った。
 店に入ると、昼を少し過ぎた店内には何人か客がいるだけだった。
 カウンターの奥から、店員の声が聞こえる。
 どこか落ち着くような、それでいて初めて来たような、不思議な感じがした。
 「何食べる?」
 メニューを開く。
 定食や丼ものが並んでいて、どれもおいしそうだった。
 「どうしようかな」
 「俺はいつもの」
 「いつものがあるんだ」
 「たまに来るからな」
 「じゃあ、私もそれにしようかな」
 「なんでだよ」
 「朔が頼むなら、おいしいんでしょ?」
 「その理屈はよく分からない」
 「いいじゃん。失敗したくないし」
 「食べ物選ぶのに、そんな真剣になる?」
 「なるよ。お腹空いてるんだから」
 朔が呆れたように笑う。
 「……じゃあ、同じのでいい?」
 「うん」
 二人で同じ定食を頼んだ。
 料理が運ばれてくるまで、窓の外を眺めたり、壁に貼られたメニューを見たりして過ごす。
 やがて料理が届き、二人で箸を取った。
 一口食べて、私は思わず顔を上げる。
 「……おいしい」
 「だろ」
 「うん。これにして正解だった」
 「俺のおかげだな」
 「はいはい」
 「そこは素直に感謝しろよ」
 「ごちそうさまのときに言うね」
 「今言えよ」
 思わず笑ってしまう。
 食堂には、ほかの客の話し声と食器の触れ合う音が響いていた。
 窓の外では細い雨が降り続いている。
 「そういえば、東京では昼、どうしてる?」
 朔が味噌汁を飲みながら尋ねた。
 「会社の近くで食べるか、忙しいときはコンビニかな」
 「ちゃんと食べてる?」
 「食べてるって」
 「ほんとか?」
 「ほんと。子どもじゃないんだから」
 「夢中になると、周りが見えなくなるところは昔からだろ」
 箸を持つ手が止まった。
 「……そうだった?」
 「そうだよ。遊んでるときも、何か見つけると一人でどんどん行くし」
 「え、そうなの?」
 「覚えてないのか?」
 「うーん……」
 考えてみても、はっきりした場面は浮かばなかった。
 それでも、目の前の朔がそう言うなら、きっとそうだったのだろう。
 「じゃあ、今も変わってないんだ」
 「まあ、そういうところはな」
 「褒めてる?」
 「どうだろうな」
 「そこは褒めてよ」
 朔が笑う。
 私もつられて笑いながら、もう一口、ご飯を食べた。


 食事を終えて店を出ると、雨はずいぶん弱くなっていた。
 雲の切れ間から、薄い光が差し込んでいる。
 「このあと、どうする?」
 朔が空を見上げてから、こちらを向いた。
 宿に戻るには、まだ少し早い。
 図書館にも行ったし、昼ご飯も食べた。
 それでも、もう少し町を歩いていたかった。
 「そういえば、朔って建物の修理をする仕事なんだよね?」
 「そうだけど」
 「どんなところで働いてるの?」
 「普通の事務所だよ」
 「ちょっと見てみたいな」
 口にしてから、少しだけ付け足す。
 「朔が普段どんなことしてるのか、気になるし」
 朔は意外そうに私を見た。
 「そんなに面白いもんじゃないぞ」
 「それは見てから決める」
 「……じゃあ、寄ってくか」
 「いいの?」
 「案内するくらいならな」
 「やった」
 「そんなに嬉しいか?」
 「うん。知らない朔のこと、知れるから」
 そう答えると、朔は一瞬だけ目を伏せた。
 それから、いつもの調子で歩き出す。
 「こっち」
 私はその隣に並んだ。
 雨上がりの道には、ところどころ水たまりが残っている。
 靴が水を踏むたび、小さな音がした。
 古い建物が並ぶ通りの一角に、小さな事務所があった。
 入口の脇には、工具や資材が置かれている。
 「ここ?」
 「うん」
 「思ったより普通」
 「何を想像してたんだよ」
 「もっとこう……大きな工場とか」
 「そんな仕事じゃない」
 朔が苦笑する。
 「今日は休みだから、中は誰もいないけど」
 「そっか」
 「普段はここで道具を準備して、現場に行く」
 私は入口の脇に並んだ工具を眺めた。
 見たことのないものばかりで、どれが何に使われるのかも分からない。
 「これ、全部使い分けるの?」
 「ものによるけどな。現場によって持ってくものも違う」
 「へえ……」
 朔がいくつか工具を指差しながら説明してくれる。
 名前を聞いても、すぐには覚えられそうにない。
 それでも、こうして話している朔を見るのは少し新鮮だった。
 「興味ある?」
 「ちょっとだけ」
 「意外」
 「なんで?」
 「こういうの、昔は興味なかっただろ」
 「昔の私は知らないもん」
 「……そうだったな」
 朔が小さく笑う。
 気になった工具を指さしてみる。
 「これ、何に使うの?」
 「それは……」
 朔が説明を始める。
 よく分からないながらも、真剣に話を聞く。
 「難しい」
 「そう?」
 「うん。でも、朔がこういうの使ってるって考えると、なんか変な感じ」
 「普通に使ってるけど」
 「うん。でも……」
 言葉が続かなくて、私はもう一度、事務所を見た。
 昔から知っている町の中に、知らない場所が増えている。
 その中に、今の朔がいる。
 「……大人になったんだね」
 「今さら?」
 「だって、こういうの見るの初めてだから」
 「まあ、そうだな」
 その返事が、妙に素っ気なくて少し笑ってしまう。
 「でも、どうしてこの仕事にしたの?」
 「手を動かすのが好きだったからかな」
 「昔から?」
 「たぶん」
 「じゃあ、向いてたんだ」
 「どうだろうな。向いてるかどうかは、まだ分からないけど」
 「でも続けてる」
 「うん」
 「じゃあ、好きなんだね」
 「……まあ」
 朔が少しだけ笑った。
 その笑い方が、ほんの少し昔と重なって見えた。
 「茜は?」
 「私?」
 「今の仕事」
 「ああ……」
 私は少し考える。
 仕事だから、もちろん大変なこともある。
 締め切りに追われることもあるし、帰る時間が遅くなる日だって少なくない。
 それでも。
 「大変なことも多いけど、好きだよ」
 「そっか」
 「うん。自分で選んだ仕事だから」
 「じゃあ、ちゃんと続いてるんだな」
 「そうだね」
 ふと、図書館で話したことを思い出す。
 本の表紙や装丁を見ていると、つい気になってしまう。
 それもきっと、今の自分の一部なんだろう。
 「昔は何になりたかった?」
 「私?」
 「うん」
 「……なんだったかな」
 答えようとして、少し黙る。
 本が好きだった。
 書くことも好きだった。
 そんな感覚だけが、ぼんやり残っている。
 「本に関わること……だった気がする」
 「今、関わってるじゃん」
 「そうなんだよね」
 自分でも不思議な感覚だった。
 「叶った……って言えるのかな」
 「じゃあ、よかったな」
 「うん」
 朔はそれ以上聞かなかった。
 その距離感が、なんとなく心地よかった。
 しばらく二人で事務所の前に立っていた。
 見慣れない工具。
 古い建物。
 雨に濡れた道路。
 どれも特別なものではない。
 それなのに、私は妙にこの場所を覚えておきたいと思った。
 昔の朔がどんな子だったのかは、まだ全部思い出せない。
 けれど、今ここにいる朔が、どんなふうに毎日を過ごしているのか。
 それを少しだけ知ることができた気がした。
 「……なんか、不思議」
 「何が?」
 「だって、昔は一緒に遊んでた朔が、今はこういう仕事してて。私も東京で働いてて」
 「人って、変わるからな」
 「うん」
 もう一度、事務所を眺める。
 「……でも、朔は朔なんだね」
 「何それ」
 「分かんない」
 「分かんないのに言ったの?」
 「うん」
 「昔からそういうところ変わってないな」
 「どういうところ?」
 「思ったことをそのまま言うところ」
 「……それ、褒めてる?」
 「たぶん」
 「たぶんなんだ」
 思わず笑う。
 「……でも」
 「ん?」
 「昔より、ちゃんと大人になったよ」
 「何それ」
 「そのまま」
 「急に何?」
 「別に」
 朔は少しだけ笑った。
 それから事務所の入口を軽く振り返る。
 「そろそろ戻るか」
 「うん」
 二人で歩き出す。
 雨はいつの間にか止んでいた。


 濡れた道路に、雨上がりの光が薄く映っている。
 「今日は、結構歩いたね」
 「そうだな」
 「図書館行って、昼ご飯食べて、仕事場まで見せてもらって」
 「見せてもらったっていうほどのもんじゃないけど」
 「私にとっては十分」
 「そう?」
 「うん」
 歩きながら、ふと空を見上げる。
 雨雲の切れ間から、淡い光が差していた。
 「……明日さ」
 「ん?」
 「灯台、行かない?」
 朔が少しだけこちらを見る。
 「灯台?」
 「うん。昨日、遠くから見たらちょっと気になって」
 「いいけど」
 「ほんと?」
 「そんなに行きたい?」
 「うん。せっかくだし」
 「好きだな、それ」
 「だって、気になるものは見てみたいじゃん」
 「そういうところは変わらないな」
 「そう?」
 「うん」
 朔は少し笑った。
 「じゃあ、明日行くか」
 「うん」
 しばらく歩くと、宿の前が見えてきた。
 「今日はありがと」
 「どういたしまして」
 「珍しい」
 「何が?」
 「ちゃんと返してくれた」
 「たまにはな」
 「ふふ」
 私は笑いながら、宿の前で足を止めた。
 「じゃあ、また明日」
 「うん。また明日」
 ここに来てから初めて、そんな言葉を交わした。
 明日もまた、朔と会う。
 それが当たり前のことみたいに思えた。