君を、君だと知らなかった

 今年の東京は、いつも以上に暑かった。
 帰宅ラッシュの満員電車に揺られながら、私はつり革を掴んでいた。
 流れていく景色を、ぼんやりと眺める。
 こんな毎日にも、すっかり慣れてしまった。
 大学へ進学するために東京へ出て、そのまま就職した。
 気づけば、ここで暮らすのも十年目になる。
 カバンからスマホを取り出し、何気なく画面を確認する。
 東京に来てから仕事ばかりだった私は、スマホで誰かとやり取りすることも、いつの間にか仕事の話がほとんどになっていた。
 高校時代の友人とも、卒業してからはほとんど連絡を取っていない。
 スマホが壊れたときに、いくつか連絡先が消えてしまったこともあった。
 けれど、それもいつの間にか気にならなくなっていた。
 別に、また会いたいと思っているわけじゃない。
 ただ、たまに、少しだけ寂しくなることはあった。
 今日も何気なく画面を開く。
 七月二十八日。
 日付を確認したところで、特に何を思うわけでもなく、画面を閉じようとした。
 そのとき、通知が目に入った。
 『1件のメールがあります』
 「メール……? 誰からだろう」
 久しぶりの通知に少し驚きながら、メールを開く。
 『茜(あかね)、今年のお盆は帰ってこない?』
 なーんだ。
 お母さんか。
 少しだけ、がっかりした自分がいた。
 『気が向いたらね』
 絵文字もつけずに送信する。
 『そんなこと言って、あなた毎年帰ってこないじゃない』
 返信はすぐに届いた。
 世話好きでおしゃべりな母は、こちらが返事をしなくなるまで、きっといつまでもメールを送ってくる。
 私は少し面倒になって、既読をつけたままスマホをカバンにしまった。
 そしてまた、窓の外をぼんやりと眺める。
 それにしても、今日は本当に暑い。
 いつも以上に人が多くて、息苦しい。
 つり革を掴んだまま、私はゆっくりと目を閉じた。
 電車の音。
 人の話し声。
 車内のアナウンス。
 少しずつ、東京の騒音が遠のいていく。
 『――茜、早く』
 「……え?」
 今、一瞬、誰かの声が聞こえたような気がした。
 目を開ける。
 目の前にいるのは、小説を広げている中年の男性だけだった。
 こんなに押しつぶされながら本を読んでいる姿が、少しおかしい。
 私はもう一度、カバンからスマホを取り出した。
 既読をつけたままの画面を、しばらくじっと見つめる。
 そして、少し迷ってから文字を打った。
 『やっぱり帰ろうかな』
 送信してすぐに、返信が届いた。
 『本当?』
 短い一文だけだった。
 私はその画面を少し眺めてから、スマホを伏せる。
 別に、帰りたいと思っていたわけじゃない。
 さっきの声が何だったのかも、分からない。
 ただ、なぜか一度くらい、帰ってみてもいいような気がした。
 私はまた、静かに目を閉じた。
 十年ぶりに帰ることになる町のことを、考えながら――。