残念で残念で残念な天才検事と恋する事務官

 翌朝、今日もすし詰め状態の電車に揺られ、縋るように吊り革に掴まる。

 女性専用車両があるのなら、「オレ優先席」があってもいいのに、と睡眠不足の頭でぼんやり考えた。昨夜は徹夜同然だった。「オレ優先席」は極端だとしても、「徹夜の方優先席」くらいならあっても良さそうなものだ。

 九段下支部には、いつもより十分ほど早く到着した。

 まだ誰も出勤しておらず、室内には静寂がおりていた。この静穏な空間が、一時間ほど後には殺伐としたものに豹変する。

 建物内部には、支部長室、松波検事の取調室、徳間検事の取調室、資料室、そしてオレたちが「居間」と呼ぶ、まさしくリビングのような広めの空間が中央にある。少数精鋭の、規模的には小さな支部だ。

 自分用のコーヒーを淹れるために、居間の隅に設置された小さなコンロで湯を沸かす。その間も、オレはきょろきょろと周囲を忙しなく見回している。落ち着きを保てない。

 今もどこかで監視されているのだろうか――いつもなら心休まる早朝の静かなひとときが、今日ばかりは厭わしい。煩わしいはずの昼間の喧騒が、恋しくなる。

 やかんがピューっと鳴りだす頃に、松波検事が出勤してきた。

「あ……お、おはようございます」
「ああ」

 検事は居間のテーブルに鞄を置く。

「い、今、コーヒー淹れますねっ」

 一度沸騰を知らせたやかんに水を足しながら、ほっと胸をなでおろす。人が来てくれて良かった。一人でいるのが、不安でしかたない。

 検事に相談してみようか。しかし相談といっても、まだこれといって何か被害を受けたわけではないし……と頭を悩ませつつ、淹れたコーヒーを検事の前にそっと置く。

「ん?」

 コーヒーを口に含んだ検事が、手にしたインサートカップを睨みつける。

「いつもと味が違うな」

 あ、砂糖を三本しか入れなかったかもしれない。

「すみません、きっと砂糖が」
「こんなイージーミスをするとは、珍しいな」
「す、すみません」
「しかも、二つも」
「二つ?」砂糖と、何だ?

 検事は一度カップをテーブルに戻し、オレのスーツを指差した。

「ボタン、掛け違えてる」

 慌てて視線を下に向ける。検事お得意のからかいではなく、実際、ボタンホールが一つ余っていた。

「本当だ、す、すみません」

 何故か謝ってから、急いで掛けなおす。

「何かあったか」
「え?」

 検事の淡白な口調に、かえってどきりとした。

「更に言えば、今日、君は腕時計もしていない。忘れたんだろう。顔の血色が悪いし、目元には薄い隈もある。昨晩、眠れなかったんじゃないのか」

 黒曜石のような瞳が、こちらをじっと見据えてくる。被疑者になったかのようで、坐り心地が良くない。

 スーツのポケットに手を差し入れてみる。紙の当たる感触があった。この不安の渦の根源である、ポストに投函されていたあの紙だ。

 相談してみようか、と思うが、ためらう。馬鹿にされるかもしれない。「男のくせに情けない」と、鼻であしらわれるかも。

 しかし問題を一人で抱え込むのは、精神衛生上、あまりよろしくない。些細なことでびくびくと怯えているようでは、仕事にも悪影響が出る。

 ――よし、ここは一つ、笑われてやろうじゃないか。

「あの、実は、これなんですけど……」

 諸問題の根源を、テーブルの上に広げた。『あなたをいつも見ています』。その一文は、昨日初めて目にした時とまったく同じ迫力で、オレの背筋を震わせた。

「き、昨日、ポストに」
「……なるほど」

 検事はその紙を手に取ると、様々な角度からためつ眇めつ眺めた。

「しかしこの程度じゃ、警察は動かんな」
「で、ですよね」

 検事の言葉遣いは決して優しくないが、彼の言うことに間違いはない。その場凌ぎのような励ましで茶を濁されるよりは、むしろそのほうが有難かった。

 様々な角度から存分に観察した後、検事は投げ捨てるようにして、再度テーブルに紙を寝かせた。その紙から、つい目を逸らす。直視できない。あの紙には二つの緑の目がついていて、それと目が合ったら最後、恐怖のどん底へ突き落とされてしまう――そんな妄想に囚われる。

 オレの様子を見て、検事が淡然とした口ぶりで尋ねてくる。

「怖いのか?」

 図星をつかれ、唇を噛んだ。

「男のくせに、な、情けないですよね」
「誰にだって、怖いものの一つや二つ、ある」
 
 続けざまに、砂糖を取ってくれ、とオレに指示する。 スティックシュガーを渡しながら、

「……検事にも、あるんですか?」

『恐怖』なんて、松波検事からは最も縁遠い単語のように思えた。『慈愛』と同じくらい、縁がなさそうだ。

「ああ」

 俺も人間だからな、と四本目のスティックシュガーをマグカップに注ぐ。

「な、なんです?」俄然、会話に乗り気になった。「検事の怖いもの」

 オレの質問に、ちら、と検事はコーヒーから視線を上げ、また目を伏せる。

「わざわざ、他人に弱みを打ち明ける趣味はない」
「あ、そうですか」

 なんだ、つまらん。

 ここで徳間検事が出勤してきたので、机上のコピー用紙をポケットに戻した。