残念で残念で残念な天才検事と恋する事務官

 オレよりも少し遅れて出勤してきた桔平が、たった今淹れたばかりのコーヒーを横取りした。

「おはよー、蓮。コーヒーいただきい」
「そのコーヒー、飲まないほうがいいよ」オレは忠告する。
「またまた。蓮の淹れるコーヒーは美味いから、大丈夫だって」

 基本的にコーヒーを淹れるのは事務官――要するに下々の仕事なのだが、この瀬良桔平という男は超絶的にコーヒーを入れるのが下手だった (なんといっても彼の淹れるコーヒーはおそろしく薄い。単なる黒い湯を飲んでいるような気分になる)。

 そのため、必然的にこのオレが、九段下支部のコーヒーメーカーとなっている。まあ、インスタントだが。

 桔平は奪ったコーヒーを一口すすると、勢いよくコップの中に吐き戻した。

「ぶっ、おえ! なんじゃこりゃあっ」

 だから言ったじゃねえか、とオレはわきにあった箱ティッシュを渡してやる。

「それ、松波検事専用だから」

 ミルク三個に、スティックシュガー四本入りだ。常人なら、そのコーヒーの製作過程を目の当たりにするだけで、胃もたれ必至という兵器のようなコーヒーだ。

 検事のコーヒーは甘めに作るのが鉄則だが、朝の一杯目は特に多めに砂糖を入れる。検事いわく、朝はとりわけ脳が糖分を欲しているらしい。

「俺の好みではなく、俺の脳が言うんだ。砂糖は四本、ミルクは三個だ、と」とは、松波検事様の談。初めて知ったが、天才というものは脳味噌と会話ができるらしい。

 ここ、九段下支部に配属されてから一ヶ月が経とうとしていた。 相変わらず、松波検事様は変わり者で、横着者で、非人道的で、最低な野郎で、そして、天才だった。
 
 昨日も強盗致傷事件の公判で、のらりくらりと公訴事実を否認していた被告人を、丁寧且つ的確な立証で有罪に持ち込んだばかりだ。さらに言えば、公判のときの検事だけには、つい見とれてしまうオレも、相変わらずだ。

「検事、コーヒー淹れました。朝専用の激甘仕様です」

 もちろん、桔平が吐き戻したものは捨て、淹れなおした。

「ああ」とだけ言って、検事はコーヒーを受け取る。彼の辞書に「ありがとう」という単語は収載されていない。こちらも、いまさら期待はしていない。

 生まれたてのホヤホヤ社会人だったオレに、有名検事の担当事務官という席がまわってきた理由も、今なら理解できる。この男の横着ぶりに愛想を尽かして、次々と事務官が辞めていくのだそうだ。

 そういうわけで、オレが選ばれたのも、仕事の才能を見込んでというよりは、単に「白羽の矢が立った」。単なる、検察という組織の人身御供。そんなところだ。辞令に一瞬でも浮かれた自分が、本当に哀れでならない。

 とは言っても、こんな暴君検事との付き合いも、「これも仕事だ」と割り切ってしまえば、意外に耐えられないものでもない。苛立つことがあっても、ハイハイそうですね、と受け流す。これが最善策だ。そうすれば、諍いがあったとしても最小限で済む。いちいちまともに取り合ったりするから、かえって腹が立つのだ。

 それに、一応はオレの直属の上司である。上司に楯突いて、こちらにメリットがあるとも思えない。 オレは一ヶ月で、あの暴君の扱い方を少し心得たわけだ。

「そういえば、検事には姪御さんがいらっしゃるんですよね?」

 思いつきで投げかけてみた問いに、検事は新聞の四コマ漫画から顔を上げた。

「ああ、いる」
「検事のお姉さんのお子さん、とかですか?」

 そうだ、と首肯し、検事は激甘のコーヒーを黙ってすする。 文句がでないということは、それなりに彼のお気に召したということだ。二週間前までは、コーヒーを淹れるたびに、姑さながらの小言を言われた。

「姪というのは、なかなか可愛いものだ」
「それはそうでしょうね」オレに平然と徹夜を強いるほど、可愛がっておられるのですものね。

 立ち話もどうかと思い、自分も事務官の席につく。まだ次の取り調べまでには若干の時間があった。

 松波理人という男は、きわめて変だ。分厚い謎のべールに包まれている、奇妙な人物である。だからこそ、こうして会話を交わして、彼の謎をひとつずつ氷解させていくのは、けっこう楽しかったりする。今日も、彼に姉がいる、という新事実が判明した。

  かねてから聞いてみたかった、素朴な疑問を口に出してみる。

「検事は、結婚とかされないんですか?」

 この男に結婚ができるのか、という究極の、そしてほとんど迷宮入りに近い謎は別問題として、だ。

 こんな低次元の質問など軽くあしらわれるかと思ったが、案に相違して、きちんと答えを聞かせてくれた。

「結婚願望は無いが、結婚というものを殊更に拒絶しているわけでもない」

 検事は淡々とした口ぶりで話す。

「だが、周囲の人間が、『お前は結婚に向いていない』と言うのが悩みなんだ」
「検事のことだから、なにか、女性を怒らせたことがあるんじゃないですか」

 オレは半分おどけたように言う。悩みだなんて、可愛いところもあるじゃないか。

「学生の頃、言い寄ってきた女と旅行に行ったことがあるんだが」
「へえ。素敵ですね」

 オレは興味津々に身を乗り出す。

「旅館に着いて五分で、自宅に置いてきた読み差しの法医学の本の続きが気になって、相手に断らずに一人で帰ってきたことがある」
「へ」
「そのあと電話でヒステリックに詰(なじ)られて辟易した」
「刺されなかっただけ感謝すべきです」

 検事は苦虫を噛み潰したような顔で言い募る。

「女というのはヒステリーを起こさずにいられない生き物なのか? うんざりだ」
「オレは男ですけど、その女性の立場だったらヒスってますよ」
「その程度の精神力で、俺の事務官が務まるか?」

 悩みだなんて、可愛いところもある――だと? ここは全力で前言を撤回させてほしい。この男は、サイコパスだ。

 ところで、話は変わるが。

 科学者の代名詞といってもいいアルベルト・アインシュタインには、マヤという妹がいた。幼年期のアインシュタインは、学習障害児であっただけでなく、たいへんキレやすい子どもだったらしい。

 二人は仲の良い兄妹だったが、兄であるアインシュタインはひとたび激昂すると、マヤに向かってボーリングの玉を投げつけたり、彼女を鋤で何度も殴打したりした。

 のちに、妹マヤはこう話している。

「天才の妹でいるには、頑丈な頭蓋骨が必要」。

 そう。そうなのだ。天才とは、そういうものなのだ。 ここで、オレも一言物申したい。

「天才の事務官でいるには、不惑の精神が必要」。

 せっかくの旅行先で、たった五分で一人置き去りにされたとしても、決してヒステリックにならないような、不惑の精神がだ。

【続】