残念で残念で残念な天才検事と恋する事務官

 翌朝、朝専用の缶コーヒーを片手に、優雅にご出勤あそばした検事に、オレはエクセルで作成した集計表を提出した。むろん、徹夜だ。カフェインの摂りすぎで胃がもたれていた。

 どうせ検事は調べ直したりしないのだから、適当にごまかせばいいものを、と二ヶ月を経た今なら思う。だが当時はまだ、真面目だけが取り柄の、一本気の駆け出し事務官だったのだ。

 集計の結果は、二二〇件でS線がワースト一位、それに一八九件でC線が続いた。ワースト3は全てJRが占めた。

「こ、これ……集計表です」

 徹夜です、と言いそうになったが、それは当てこすりになるのでやめた。

「あぁ、」

 オレが心血を注いだ集計表を、さらっと受け取る。そういえばそんなの頼んでたっけ、くらいの受け取り方だった。

 それをチラと一瞥し、「なるほどな」と呟く。今日の降水確率でも確認するかのような、とんでもなく気安い「なるほどな」だった。

 そしてそのまま検事は、取調室へ直行した。 そ、それだけかよ、とオレは愕然とする。ご苦労様、とか、よくやった、とか、労いの一言もないのかよ!
 二の句が継げない状態で立ちすくむオレの肩に、背後からポンと手が載せられる。桔平だった。

「……やっぱり、一ヶ月かなあ」

 オレはこめかみをピクつかせる。徹夜明けで神経が過敏になっていた。

「なんだよ昨日から、三ヶ月とか、一ヶ月とか」
「君が、松波検事の事務官を務められる期間」

 あの人は超がつく変わり者だから、と桔平は声をひそめ、

「ちなみに、最高記録は五ヶ月」

 と補足してくれる。

「五ヶ月か。尊敬だ」

 オレは沈痛な溜息をつく。

「昨日の今日で、オレはもう挫折しそうだ」


 
 検事の後に続いて、オレも取調室に入った。ワイシャツや下着だけでも着替えたいところだが、替えなど手元にあるはずもない。まさか初日から徹夜で泊り込みの羽目になるとは、夢にも思わなかったのだ。

「その集計は、今日の取り調べで使うんですよね」

 オレが問うと、検事はA4の集計用紙から顔を上げた。

「そんなこと、誰が言った?」
「え?」じゃあ、何に使うというのだ?
「今度、俺の姪が中学にあがるんだ」
「は?」彼の話がまったく見えないのは、徹夜のせいか?
「私立の中学だからな、電車通学になるんだ。危険な路線を使っての乗り換えは避けたいだろう」

 はあ、と間の抜けた声を出しながら、頭の中を整理してみる。

「つまり、オレは、」顔面が無意識に歪む。「検事の、姪御さんの、乗り換えのための資料を、徹夜して、集めたわけですか」

 そうだ、と頷く検事は事も無げだ。

「身に余る光栄だろう」

 ええ、とオレは無理やりに笑顔を作った。

「光栄のあまり、はらわたが煮えくり返りそうです」

 オレのあからさまなアイロニーなど歯牙にもかけず、検事はスマホを手に取る。二、三度ボタンを押すと、それを耳に当てた。

「俺だ。路線の件だが、S線は避けたほうがいい。それからC線も。痴漢が多いんだ。地下鉄を使ったほうがよさそうだ」

 大体、痴漢の多い路線くらい、ネットで調べれば簡単にわかりそうなものではないか。通話が終わるのを待って、そう問いただしてみると、

「ネットに氾濫する情報などアテになるものか。そのせいで、姪に被害が及んだらどう責任を取るつもりだ?」

 何、こいつ、アホなの?
 どこから突っ込んでいいのかすら、わからない。真面目に反論することさえ、馬鹿らしい。

 なんだか、眩量がしてきた。倒れそうだ。徹夜のせいではない。 こんな男の事務官になるという自分の未来に、絶望のあまり失神しそうだった。