まず、『光げんじ』で、気だるげに梅たたききゅうりをつつく同僚に「茨の道だ」などと揶揄されている日から、二ヶ月ほど前に時間を巻き戻そう。
「……え、お、オレが、ですか?」
松波検事の事務官についてくれ、とのお達しを受けた瞬間、目玉の裏にパチパチと稲妻が走った。
当時、オレはまだまだ駆け出しもいいところの事務官だった。国家公務員試験をパスし、検察事務官という職についてから、まだ二年も経っていなかったのだ。初めて触れる「社会」の荒波に揉まれ、翻弄され、打ちのめされ、帰宅した途端泥のように眠る――そんな日々を送っていたさなかのことだった。
法曹界に籍を置くもので、松波理人の名を知らぬ者はいない。穎脱した才能と実力は然ることながら、その類稀なる美貌も手伝って、法曹界ではひときわ異彩を放つ存在となっていた。
松波検事と実際に面識はなかったが、彼の公判を傍聴したことなら、一度ある。
松波検事の公判を見て、彼に憧れない事務官などいない。無駄のない鋭い弁論の中にも、被害者への慈悲心や思いやりが滲みでているようだった。検察席で弁舌をふるう松波検事の凛とした立ち姿は、それこそ正義そのもののように見えた。彼の公判は必ず傍聴するという、熱狂的なファンもいると聞く。
寝耳に水の異動辞令から一月とまたずに、オレは松波検事の勤務先である、東京地検九段下支部の建物の前に立っていた。
松波検事がいるという取調室のドアをノックするときは緊張した。
ここに、あの松波理人検事がいるのか……感慨に浸りながら、拳を握り、扉をノックする。コン、コン。息を呑んで返事を待ったが、一向に反応がない。
「あれ?」
小さく呟き、もう一度ノックする。 コン、コン。 またしても返事がない。オレのような小市民のノックは、彼のような偉大な人物には届かないのだろうか、と考える。
「君が、新しい事務官?」
背後からの声に、振り返った。
分厚い書類を抱えた青年が立っていた。胸元に検事バッジがないので、おそらく事務官だろう。
「俺は瀬良桔平。徳間絵里検事の担当事務官」
簡単に自己紹介をしてくれる。 真ん中で分かれた長めの前髪から、人懐っこそうな両目がのぞいている。
「松波検事はさ、基本的にノックに反応しないから」言って、書類を持ち直す。「そのまま入っていいよ」
そ、そうなんですか? と戸惑いを隠せないオレの目を、瀬良桔平と名乗った青年はじっと凝視し、
「んー……三ヶ月!」
と、やにわに大声を出す。そして踵を返し、向かいの取調室へ入ってしまった。
「何が、三ヶ月?」
首を傾げたが、とりあえずオレも松波検事の取調室へ入室してみることにした。おっかなびっくり、扉を押し開ける。
「失礼しま――」
「左利きか」
松波検事は、開口一番、そう言い放った。向かって右側に位置した執務机に腰かけている。彼は自分のスマホを机に放り投げたところだった。電話をしていたようだ。
脈絡のない物言いに、え? と顎を突き出しかける。が、こらえた。それはあまりに礼を失した反応だ。
「あ、新しい事務官の、佐伯蓮でし」
語尾で、舌を噛んだ。「です」と慌てて言い直す。
「……どうして、左利きだとわかったんですか?」
名前を告げるよりも先に、利き手を当てられた。奇妙な体験だ。 トン、と検事は左手の指で右手首を示した。そこには腕時計が嵌めてある。左利きは当然、右手に腕時計をする。右手ではうまく腕時計を巻き付けられないのだ。
「……これだけのことで、わかっちゃうものなんですか? 腕時計だけで?」
「出身は茨城か? 完璧な標準語を話しているつもりだろうが、疑問口調の際の語尾がやや不自然に上がっている。しかもその訛りに対して無自覚。茨城県民特有の話し方だ」
「た、確かに茨城出身です……」
え、オレ、訛ってる? 無自覚とか、ちょっと恥ずかしいな。
検事のその観察力には脱帽した。会ってたったの数秒で、この人に嘘などついても無意味だ、と相手に思わせる。
「茨城県民は最もアナウンサーに向かないといわれている。自分の訛りに気がつけないからだ」
「……アナウンサーになる予定はないので、問題ないです」つい、顔が引き攣る。
「ところで、佐伯蓮デシ君」
「佐伯蓮です」
何? と検事は眉をひそめる。
「さっきは、『佐伯蓮デシです』と言ったじゃないか」
「噛んだんです、舌を」
「なんだ、噛んだのか。ならそう言え」
なんなんだ、こいつ。変人だ。
たった数往復の会話で、プライベートでは関わりたくない相手だと直感した。
「喜べ、佐伯君。初仕事だ」
人差し指を立て、悠然と背もたれに背中を預ける。
「過去三年分の、都内で発生した痴漢行為の件数を、路線別に集計してくれ。明日までに」
都内で起きた痴漢行為を、過去三年分、だと。しかも、明日まで? とんでもない。鬼畜というレベルの話ではない。物理的に不可能だ。お前には五十時間あるのかもしれないが、オレには一日二十四時間しかないのだ。
「都内だけで、ろ、六千件以上ありますよ!」
決死の反駁を試みる。
「あ、明日までなんて、徹夜しても無理です」
「……なら、過去一年分でいい」
これ以上ないほど不服そうだ。 が、一応妥協してくれた。 一年分といっても、二千件以上ある。オレは泡を食って部屋を飛び出し、資料室へ走った。
「……え、お、オレが、ですか?」
松波検事の事務官についてくれ、とのお達しを受けた瞬間、目玉の裏にパチパチと稲妻が走った。
当時、オレはまだまだ駆け出しもいいところの事務官だった。国家公務員試験をパスし、検察事務官という職についてから、まだ二年も経っていなかったのだ。初めて触れる「社会」の荒波に揉まれ、翻弄され、打ちのめされ、帰宅した途端泥のように眠る――そんな日々を送っていたさなかのことだった。
法曹界に籍を置くもので、松波理人の名を知らぬ者はいない。穎脱した才能と実力は然ることながら、その類稀なる美貌も手伝って、法曹界ではひときわ異彩を放つ存在となっていた。
松波検事と実際に面識はなかったが、彼の公判を傍聴したことなら、一度ある。
松波検事の公判を見て、彼に憧れない事務官などいない。無駄のない鋭い弁論の中にも、被害者への慈悲心や思いやりが滲みでているようだった。検察席で弁舌をふるう松波検事の凛とした立ち姿は、それこそ正義そのもののように見えた。彼の公判は必ず傍聴するという、熱狂的なファンもいると聞く。
寝耳に水の異動辞令から一月とまたずに、オレは松波検事の勤務先である、東京地検九段下支部の建物の前に立っていた。
松波検事がいるという取調室のドアをノックするときは緊張した。
ここに、あの松波理人検事がいるのか……感慨に浸りながら、拳を握り、扉をノックする。コン、コン。息を呑んで返事を待ったが、一向に反応がない。
「あれ?」
小さく呟き、もう一度ノックする。 コン、コン。 またしても返事がない。オレのような小市民のノックは、彼のような偉大な人物には届かないのだろうか、と考える。
「君が、新しい事務官?」
背後からの声に、振り返った。
分厚い書類を抱えた青年が立っていた。胸元に検事バッジがないので、おそらく事務官だろう。
「俺は瀬良桔平。徳間絵里検事の担当事務官」
簡単に自己紹介をしてくれる。 真ん中で分かれた長めの前髪から、人懐っこそうな両目がのぞいている。
「松波検事はさ、基本的にノックに反応しないから」言って、書類を持ち直す。「そのまま入っていいよ」
そ、そうなんですか? と戸惑いを隠せないオレの目を、瀬良桔平と名乗った青年はじっと凝視し、
「んー……三ヶ月!」
と、やにわに大声を出す。そして踵を返し、向かいの取調室へ入ってしまった。
「何が、三ヶ月?」
首を傾げたが、とりあえずオレも松波検事の取調室へ入室してみることにした。おっかなびっくり、扉を押し開ける。
「失礼しま――」
「左利きか」
松波検事は、開口一番、そう言い放った。向かって右側に位置した執務机に腰かけている。彼は自分のスマホを机に放り投げたところだった。電話をしていたようだ。
脈絡のない物言いに、え? と顎を突き出しかける。が、こらえた。それはあまりに礼を失した反応だ。
「あ、新しい事務官の、佐伯蓮でし」
語尾で、舌を噛んだ。「です」と慌てて言い直す。
「……どうして、左利きだとわかったんですか?」
名前を告げるよりも先に、利き手を当てられた。奇妙な体験だ。 トン、と検事は左手の指で右手首を示した。そこには腕時計が嵌めてある。左利きは当然、右手に腕時計をする。右手ではうまく腕時計を巻き付けられないのだ。
「……これだけのことで、わかっちゃうものなんですか? 腕時計だけで?」
「出身は茨城か? 完璧な標準語を話しているつもりだろうが、疑問口調の際の語尾がやや不自然に上がっている。しかもその訛りに対して無自覚。茨城県民特有の話し方だ」
「た、確かに茨城出身です……」
え、オレ、訛ってる? 無自覚とか、ちょっと恥ずかしいな。
検事のその観察力には脱帽した。会ってたったの数秒で、この人に嘘などついても無意味だ、と相手に思わせる。
「茨城県民は最もアナウンサーに向かないといわれている。自分の訛りに気がつけないからだ」
「……アナウンサーになる予定はないので、問題ないです」つい、顔が引き攣る。
「ところで、佐伯蓮デシ君」
「佐伯蓮です」
何? と検事は眉をひそめる。
「さっきは、『佐伯蓮デシです』と言ったじゃないか」
「噛んだんです、舌を」
「なんだ、噛んだのか。ならそう言え」
なんなんだ、こいつ。変人だ。
たった数往復の会話で、プライベートでは関わりたくない相手だと直感した。
「喜べ、佐伯君。初仕事だ」
人差し指を立て、悠然と背もたれに背中を預ける。
「過去三年分の、都内で発生した痴漢行為の件数を、路線別に集計してくれ。明日までに」
都内で起きた痴漢行為を、過去三年分、だと。しかも、明日まで? とんでもない。鬼畜というレベルの話ではない。物理的に不可能だ。お前には五十時間あるのかもしれないが、オレには一日二十四時間しかないのだ。
「都内だけで、ろ、六千件以上ありますよ!」
決死の反駁を試みる。
「あ、明日までなんて、徹夜しても無理です」
「……なら、過去一年分でいい」
これ以上ないほど不服そうだ。 が、一応妥協してくれた。 一年分といっても、二千件以上ある。オレは泡を食って部屋を飛び出し、資料室へ走った。



