錯乱気味だった精神と、熱く昂ぶった身体が正常に戻るまでには、たっぷり三十分はかかっただろう。
壁掛け時計を見上げた。時刻は、深夜の二時をまわるところだ。最後の深呼吸をして、フローリングから腰を上げる。
借り物のルームウェアを脱ぎ、丁寧に畳んでから、スーツに着替えた。仕事の書類や歯ブラシなど、検事の家に持ち込んだ最低限の私物を全てまとめ、検事のマンションを後にする。ベスにさよならの挨拶をしたかったが、今頃は寝室でぐっすり眠っているため、断念した。
週末であることが幸いして、深夜であるにもかかわらず、タクシーはすぐにつかまった。運転手に、自宅の住所を告げる。
スーツ姿、更には書類の数々を胸に抱えたオレを見て、五十がらみと見える運転手が、同情じみた声を発した。
「こんな時間までお仕事なんて、大変ですね」
「あなたも」とオレは小さく笑う。
後部座席の窓から、週末の街並みを眺める。
赤らんだ顔で、陽気に肩を組み合うサラリーマンの群れ。大学生と思しき、太平楽を絵に描いたような若者の集団。一見でそれとわかるキャバ嬢やホスト。そんな人々が、ひっきりなしに行き交っている。 週末の都心は、気楽で、騒々しくて、煌びやかで、猥雑だ。決して綺麗ではないが、嫌いじゃない。
だんだんと冴えてきた頭の隅に、検事の声が過ぎった。
『エリ……』
彼はオレにキスをしながら、そう漏らした。
エリ。どこかで聞いた名前だ。
街の煌々としたネオンを目で追いつつ、記憶を辿る。 誰だっけ、誰だっけ、と眉間に皺を寄せ、こめかみを軽く指で叩いた。
「あ、」
そうだ。思い出した。
この名前を耳にしたのは、松波検事の事務官として、初めて九段下支部に訪れた日だ。同僚の桔平が、こう自己紹介してくれた。
『俺は瀬良桔平。徳間絵里検事の担当事務官』。
彼女のことは、九段下支部の誰もが「徳間検事」と呼ぶため、ファーストネームはあまり耳にしなかった。だからうっかり失念していた。オレの名前を昨日まで覚えていなかったという松波検事のことを、責める権利はなかったかもしれない。
タクシーがオレの自宅前に到着した。深夜料金が加算され、合計が二割増しになる。しめて三五二〇円也。痛い金額だったが、終電もない時間だからやむをえない。それにこのタクシー代よりも、あのまま検事の家で朝を迎えるほうが、きっとしんどかった。
運転手が、釣銭を手渡ししてくれる。釣りは取っとけよ、と大盤振る舞いするほどの気概は、オレにはなかった。
部屋の明かりもつけずに、スーツのまま、ベッドに身体を横たえた。ここでこうして横になるのは、久しぶりだ。
「……徳間検事」
松波検事は、彼女のことが、好きなのかな。
確かに綺麗な人だ、とひとりごちる。自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。
帰ったら色々考えようと思っていたのに、なんだか、とても疲れていた。スーツが皺になるのも嫌だが、着替えるのも面倒で、少しだけ、と布団をかぶって瞼を下ろした。
意識がいささかの抵抗もなく、夜の闇の中に、すうっと溶け込んでいった。
【続】
壁掛け時計を見上げた。時刻は、深夜の二時をまわるところだ。最後の深呼吸をして、フローリングから腰を上げる。
借り物のルームウェアを脱ぎ、丁寧に畳んでから、スーツに着替えた。仕事の書類や歯ブラシなど、検事の家に持ち込んだ最低限の私物を全てまとめ、検事のマンションを後にする。ベスにさよならの挨拶をしたかったが、今頃は寝室でぐっすり眠っているため、断念した。
週末であることが幸いして、深夜であるにもかかわらず、タクシーはすぐにつかまった。運転手に、自宅の住所を告げる。
スーツ姿、更には書類の数々を胸に抱えたオレを見て、五十がらみと見える運転手が、同情じみた声を発した。
「こんな時間までお仕事なんて、大変ですね」
「あなたも」とオレは小さく笑う。
後部座席の窓から、週末の街並みを眺める。
赤らんだ顔で、陽気に肩を組み合うサラリーマンの群れ。大学生と思しき、太平楽を絵に描いたような若者の集団。一見でそれとわかるキャバ嬢やホスト。そんな人々が、ひっきりなしに行き交っている。 週末の都心は、気楽で、騒々しくて、煌びやかで、猥雑だ。決して綺麗ではないが、嫌いじゃない。
だんだんと冴えてきた頭の隅に、検事の声が過ぎった。
『エリ……』
彼はオレにキスをしながら、そう漏らした。
エリ。どこかで聞いた名前だ。
街の煌々としたネオンを目で追いつつ、記憶を辿る。 誰だっけ、誰だっけ、と眉間に皺を寄せ、こめかみを軽く指で叩いた。
「あ、」
そうだ。思い出した。
この名前を耳にしたのは、松波検事の事務官として、初めて九段下支部に訪れた日だ。同僚の桔平が、こう自己紹介してくれた。
『俺は瀬良桔平。徳間絵里検事の担当事務官』。
彼女のことは、九段下支部の誰もが「徳間検事」と呼ぶため、ファーストネームはあまり耳にしなかった。だからうっかり失念していた。オレの名前を昨日まで覚えていなかったという松波検事のことを、責める権利はなかったかもしれない。
タクシーがオレの自宅前に到着した。深夜料金が加算され、合計が二割増しになる。しめて三五二〇円也。痛い金額だったが、終電もない時間だからやむをえない。それにこのタクシー代よりも、あのまま検事の家で朝を迎えるほうが、きっとしんどかった。
運転手が、釣銭を手渡ししてくれる。釣りは取っとけよ、と大盤振る舞いするほどの気概は、オレにはなかった。
部屋の明かりもつけずに、スーツのまま、ベッドに身体を横たえた。ここでこうして横になるのは、久しぶりだ。
「……徳間検事」
松波検事は、彼女のことが、好きなのかな。
確かに綺麗な人だ、とひとりごちる。自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。
帰ったら色々考えようと思っていたのに、なんだか、とても疲れていた。スーツが皺になるのも嫌だが、着替えるのも面倒で、少しだけ、と布団をかぶって瞼を下ろした。
意識がいささかの抵抗もなく、夜の闇の中に、すうっと溶け込んでいった。
【続】



