朝ご飯を終え、借りてきた『メトロ』をレコーダーに入れた。
「ああ、この映画か」
再生が始まると、検事が呟いた。画面には、ロンドンの街並みが映し出されている。その曇天の街を、颯爽と主演女優が駆けていくシーンだ。
「検事、知ってます?」
「劇場で見たな」監督が好きなんだ、と朝専用のコーヒーを啜る。
「へえ、劇場で」
こんな変人も、映画を見に行ったりするのか。オレは妙なところに感心した。
「この前も、地上波でやっていたと思うが」
こんな変人も、テレビを見たりするのか。
「そうなんです、それで気になって」
「俺は見ていたんだ。もう終盤だったがな。それなのに、君から死にそうな声で電話がかかってきたせいで、見られなくなった」
「そ、そういえば、そうですね」過去の失態をあげつらわれるのは、ばつが悪いものだ。「その件はどうも、すみませんでした……」
「君のせいだ」
と検事はまた、言った。
『メトロ』は、オレの人生史上稀にみる名作だった。見終わった頃には号泣のあまり、瞼が腫れ上がった。
「ちょっと、横になってもいいでしょうか……」
寝不足に泣き疲れも加わって、眠気が一層増してきた。「ああ」という検事の端的な許可を得て、ソファに横になると、ほんの数分で意識を手放した。
二時間ほど眠っていたようだ。深呼吸とともに瞼を開いた。目覚めは良い。
ふと見ると、身体にタオルケットが掛けられていた。検事が掛けてくれたのだろうか。
優しい面もあるじゃないか、と彼を見直しつつも、昼寝をする人間にタオルケットを掛けてやれるのに、障害者用の駐車スペースに平然と駐車してしまう検事独特の道徳観に、オレは首をひねる。
検事はリビングのカーペットに座り、怪獣を模したマスコットの犬用玩具で、ベスと戯れていた。ベスは怪獣のマスコットを前に、睨みあったり、跳びかかったり、噛みついたりと、白熱したバトルを繰り広げている。
「起きたか」
身体を起こしたオレに気が付き、検事はこちらに目をやる。 怪獣に牙を立てるベスは、ウウ、と重低音の唸りを喉元から発している。
「あ、はい」
頷くオレの体内に、どきり、とひときわ大きな心音が響いた。まただ、とオレは気が塞ぎかける。今朝から、いや、昨日から、心臓の調子がおかしい。検事と目が合うたび、こうなのだ。
「あ、これ、ありがとうございました」
身体に掛けられたタオルケットを持ち上げ、
「や、優しいところも、あ、あるんですね」と思いきって、言ってみた。
「寒いよママ、と君が寝言で叫ぶからだ」
「そんなこと言うわけありません!」
「そうムキになるな、」
冗談だ、と検事は笑った。
ギャア、とオレは喉をついて出そうになった絶叫を、なんとか呑みこんだ。
今、重要なことをさらりと描写したが、検事が、笑ったのだ。
オレはこの一カ月以上、仕事中、そして更に近頃はプライベートまでも、彼と同じ空間を共有している。だが、検事の表情が陽性の綻びを見せることなど、一瞬たりとてなかった。松波検事の顔面筋は、三十年間まともに動かされなかったために、死後硬直のような状態になっているのだ、とオレは決めつけていた。
松波検事も、笑うのか――検事の笑顔を目の当たりにしてしまった。
ギャア、と一度は呑みこんだ叫喚を、心の中で放出させる。ルームウェアであるスウェットの胸元を掻きむしった。
「どうした、」検事が、一瞬は崩した相好を、元に戻す。「苦しそうだな」
「いえ……なんでも、ありません……」
検事の微笑には、陳腐な表現だが、射抜かれたとしか言いようのない感覚が走った。「オレの前で二度と笑わないでいただけますか」と頼もうかと思うほど、胸が苦しかった。
「腹が減った」
検事が、唐突に言った。壁掛け時計は一時を過ぎたところだ。 もうランチの時間か。
「な、何が食べたいですか」
検事から目をそらすように、オレはそそくさとタオルケットを畳む。
「パスタが食べたい」
「昨日もでしたよ?」
「パスタがいいんだ」
変人のうえに、偏食ときたか。
連日パスタを乞われても、オレだってそこまで豊富なレパートリーを持っているわけではない。本業は一応、料理人ではなく検察事務官なのだ。
「オレの家の近くに、よく雑誌とかにも載っている、美味しいイタリアンがありますよ」
ふと思いついて、提案してみる。顔はまだ、検事のいる方とは反対を向いたままだ。
「そこに行ってみますか?」
検事はわずかな躊躇もなしに、首を振った。
「君の作ったやつがいい」
その一言に、思わず振り返った。否、誤って振り返った、というべきか。
当然、検事と目が合ってしまう。心臓がまた痛くなる。
「わかりました」
応えながら、すぐさま顔を背ける。ドキドキと心音が体内でこだまする。
ありえない、と思った。
ありえない。これは、まじで、ありえない。どうしよう。
――あ、ありえねー……!
正気に戻れ、オレ!
「ああ、この映画か」
再生が始まると、検事が呟いた。画面には、ロンドンの街並みが映し出されている。その曇天の街を、颯爽と主演女優が駆けていくシーンだ。
「検事、知ってます?」
「劇場で見たな」監督が好きなんだ、と朝専用のコーヒーを啜る。
「へえ、劇場で」
こんな変人も、映画を見に行ったりするのか。オレは妙なところに感心した。
「この前も、地上波でやっていたと思うが」
こんな変人も、テレビを見たりするのか。
「そうなんです、それで気になって」
「俺は見ていたんだ。もう終盤だったがな。それなのに、君から死にそうな声で電話がかかってきたせいで、見られなくなった」
「そ、そういえば、そうですね」過去の失態をあげつらわれるのは、ばつが悪いものだ。「その件はどうも、すみませんでした……」
「君のせいだ」
と検事はまた、言った。
『メトロ』は、オレの人生史上稀にみる名作だった。見終わった頃には号泣のあまり、瞼が腫れ上がった。
「ちょっと、横になってもいいでしょうか……」
寝不足に泣き疲れも加わって、眠気が一層増してきた。「ああ」という検事の端的な許可を得て、ソファに横になると、ほんの数分で意識を手放した。
二時間ほど眠っていたようだ。深呼吸とともに瞼を開いた。目覚めは良い。
ふと見ると、身体にタオルケットが掛けられていた。検事が掛けてくれたのだろうか。
優しい面もあるじゃないか、と彼を見直しつつも、昼寝をする人間にタオルケットを掛けてやれるのに、障害者用の駐車スペースに平然と駐車してしまう検事独特の道徳観に、オレは首をひねる。
検事はリビングのカーペットに座り、怪獣を模したマスコットの犬用玩具で、ベスと戯れていた。ベスは怪獣のマスコットを前に、睨みあったり、跳びかかったり、噛みついたりと、白熱したバトルを繰り広げている。
「起きたか」
身体を起こしたオレに気が付き、検事はこちらに目をやる。 怪獣に牙を立てるベスは、ウウ、と重低音の唸りを喉元から発している。
「あ、はい」
頷くオレの体内に、どきり、とひときわ大きな心音が響いた。まただ、とオレは気が塞ぎかける。今朝から、いや、昨日から、心臓の調子がおかしい。検事と目が合うたび、こうなのだ。
「あ、これ、ありがとうございました」
身体に掛けられたタオルケットを持ち上げ、
「や、優しいところも、あ、あるんですね」と思いきって、言ってみた。
「寒いよママ、と君が寝言で叫ぶからだ」
「そんなこと言うわけありません!」
「そうムキになるな、」
冗談だ、と検事は笑った。
ギャア、とオレは喉をついて出そうになった絶叫を、なんとか呑みこんだ。
今、重要なことをさらりと描写したが、検事が、笑ったのだ。
オレはこの一カ月以上、仕事中、そして更に近頃はプライベートまでも、彼と同じ空間を共有している。だが、検事の表情が陽性の綻びを見せることなど、一瞬たりとてなかった。松波検事の顔面筋は、三十年間まともに動かされなかったために、死後硬直のような状態になっているのだ、とオレは決めつけていた。
松波検事も、笑うのか――検事の笑顔を目の当たりにしてしまった。
ギャア、と一度は呑みこんだ叫喚を、心の中で放出させる。ルームウェアであるスウェットの胸元を掻きむしった。
「どうした、」検事が、一瞬は崩した相好を、元に戻す。「苦しそうだな」
「いえ……なんでも、ありません……」
検事の微笑には、陳腐な表現だが、射抜かれたとしか言いようのない感覚が走った。「オレの前で二度と笑わないでいただけますか」と頼もうかと思うほど、胸が苦しかった。
「腹が減った」
検事が、唐突に言った。壁掛け時計は一時を過ぎたところだ。 もうランチの時間か。
「な、何が食べたいですか」
検事から目をそらすように、オレはそそくさとタオルケットを畳む。
「パスタが食べたい」
「昨日もでしたよ?」
「パスタがいいんだ」
変人のうえに、偏食ときたか。
連日パスタを乞われても、オレだってそこまで豊富なレパートリーを持っているわけではない。本業は一応、料理人ではなく検察事務官なのだ。
「オレの家の近くに、よく雑誌とかにも載っている、美味しいイタリアンがありますよ」
ふと思いついて、提案してみる。顔はまだ、検事のいる方とは反対を向いたままだ。
「そこに行ってみますか?」
検事はわずかな躊躇もなしに、首を振った。
「君の作ったやつがいい」
その一言に、思わず振り返った。否、誤って振り返った、というべきか。
当然、検事と目が合ってしまう。心臓がまた痛くなる。
「わかりました」
応えながら、すぐさま顔を背ける。ドキドキと心音が体内でこだまする。
ありえない、と思った。
ありえない。これは、まじで、ありえない。どうしよう。
――あ、ありえねー……!
正気に戻れ、オレ!



