マンションに到着すると、千切れんばかりに尻尾を振ったベスが、チャカチャカと爪を鳴らしながら玄関に駆け寄ってくる。
尻尾を振ったり、顔を寄せたり、飛び跳ねたり、まさしく欣喜雀躍という風情だ。
スーツからルームウェアに着替えるやいなや、検事はベスの食事用の皿に餌をやり、オレは買ってきたエプロンを巻いてキッチンに立った。
ベスに餌をやり終えて、自分の任務は全て果たしたと思ったのか、検事はソファで小難しそうな本を読み始める。
「検事、料理はオレがしますから、テーブルを片付けてもらえますか」
検事は無反応だ。
可能性は二つ。聞こえないふりをしているのか、驚異的な集中力で本に没頭しているのか。彼は一面では横暴な変人であり、もう一面では天才でもあるので、どちらも有り得そうで性質が悪い。
仕方ないので、麺を茹でている間にオレがテーブルを片付けた。ベーコン入りの簡単なトマトソースパスタと、野菜たっぷりのコンソメスープをそれぞれ二人分作り、食卓に並べる。
ちゃんとした料理をするのは久しぶりだった。たとえ食事相手が非人道的検事であったとしても、「誰かのために作る」と思うと、料理というのは不思議とやる気になるものだ。
「検事、ご飯、できましたよ」
またも、反応がない。本当に聞こえていないらしい。やっぱり後者だったか、とオレは舌打ちをこらえる。
ただソファで本を読んでいるだけで、テーブルも片付けてもらえる、料理も勝手に出てくる。天才とは、まったく良い身分だ。
「検事!」と彼から本を無理やり取り上げた。「ご飯、できました」
大切な本を突然奪われた検事は、「一声かけてくれればいいじゃないか」と不満そうな顔つきだ。これだから、天然の天才は扱いづらい。
松波検事は、オレお手製のトマトソースパスタを黙々と食べた。黙々と食べるということは、それなりにお気に召したということだ。
わき目も振らずにフォークを駆動させ続けていた検事が、皿から顔を上げた。
「おい、」
と呼びかけ、オレの顔をしばし凝視する。
「……なんだっけ」
「な、何がです?」左手に持ったフォークを静止させる。
「君の名前だ、」冗談を言っているふうでもなさそうだ。「すっかり忘れた」
これにはさすがに、静止させたフォークを取り落としそうになった。
オレの名前をまだ覚えていない、だと。
一ヶ月、ほぼ毎日のように顔を突き合わせて仕事をし、昨日や今日などは退勤後も行動を共にしているというのに、だ。人名の記憶を司る脳の箇所に、なんらかの欠陥があるんじゃないのか。
「さ、佐伯蓮です」蓮でし、と噛まないように気をつけた。
「ああ、そうだ」
そういえばそんなかんじだったな、と合点がいったように頷いている。
「では、佐伯君、そこのティッシュを取ってくれ」
「ハイ、仰せの通りに」
無愛想に返事をし、サイドボードの上に載っていたティッシュを渡す。
内心では、なんだよ、と唇を尖らせていた。なんだよ、ちょっとは、仲良くなれたかな、と思っていたのに。あっちはオレの名前すら、把握していなかったのか。
むす、とこれ見よがしに仏頂面を浮かべたオレに、「どうした?」と検事が呑気な声を投げてきた。渡したティッシュで、口の周りを拭いている。
「自分の作ったパスタが、そんなに不味いか」
「いえ、イライラするくらい、美味しいです」
「美味いものを食べると、イライラするのか」
変わっているな君は、と検事は肩をすくめ、再びフォークを動かし始めた。
変わっているだなんて、お前だけには、まじで、言われたくない。
検事のくそったれ。無神経野郎。アホだとは思っていたけど、本気でアホだ。やっぱり苦手だ。大嫌いだ、こんなやつ。
尻尾を振ったり、顔を寄せたり、飛び跳ねたり、まさしく欣喜雀躍という風情だ。
スーツからルームウェアに着替えるやいなや、検事はベスの食事用の皿に餌をやり、オレは買ってきたエプロンを巻いてキッチンに立った。
ベスに餌をやり終えて、自分の任務は全て果たしたと思ったのか、検事はソファで小難しそうな本を読み始める。
「検事、料理はオレがしますから、テーブルを片付けてもらえますか」
検事は無反応だ。
可能性は二つ。聞こえないふりをしているのか、驚異的な集中力で本に没頭しているのか。彼は一面では横暴な変人であり、もう一面では天才でもあるので、どちらも有り得そうで性質が悪い。
仕方ないので、麺を茹でている間にオレがテーブルを片付けた。ベーコン入りの簡単なトマトソースパスタと、野菜たっぷりのコンソメスープをそれぞれ二人分作り、食卓に並べる。
ちゃんとした料理をするのは久しぶりだった。たとえ食事相手が非人道的検事であったとしても、「誰かのために作る」と思うと、料理というのは不思議とやる気になるものだ。
「検事、ご飯、できましたよ」
またも、反応がない。本当に聞こえていないらしい。やっぱり後者だったか、とオレは舌打ちをこらえる。
ただソファで本を読んでいるだけで、テーブルも片付けてもらえる、料理も勝手に出てくる。天才とは、まったく良い身分だ。
「検事!」と彼から本を無理やり取り上げた。「ご飯、できました」
大切な本を突然奪われた検事は、「一声かけてくれればいいじゃないか」と不満そうな顔つきだ。これだから、天然の天才は扱いづらい。
松波検事は、オレお手製のトマトソースパスタを黙々と食べた。黙々と食べるということは、それなりにお気に召したということだ。
わき目も振らずにフォークを駆動させ続けていた検事が、皿から顔を上げた。
「おい、」
と呼びかけ、オレの顔をしばし凝視する。
「……なんだっけ」
「な、何がです?」左手に持ったフォークを静止させる。
「君の名前だ、」冗談を言っているふうでもなさそうだ。「すっかり忘れた」
これにはさすがに、静止させたフォークを取り落としそうになった。
オレの名前をまだ覚えていない、だと。
一ヶ月、ほぼ毎日のように顔を突き合わせて仕事をし、昨日や今日などは退勤後も行動を共にしているというのに、だ。人名の記憶を司る脳の箇所に、なんらかの欠陥があるんじゃないのか。
「さ、佐伯蓮です」蓮でし、と噛まないように気をつけた。
「ああ、そうだ」
そういえばそんなかんじだったな、と合点がいったように頷いている。
「では、佐伯君、そこのティッシュを取ってくれ」
「ハイ、仰せの通りに」
無愛想に返事をし、サイドボードの上に載っていたティッシュを渡す。
内心では、なんだよ、と唇を尖らせていた。なんだよ、ちょっとは、仲良くなれたかな、と思っていたのに。あっちはオレの名前すら、把握していなかったのか。
むす、とこれ見よがしに仏頂面を浮かべたオレに、「どうした?」と検事が呑気な声を投げてきた。渡したティッシュで、口の周りを拭いている。
「自分の作ったパスタが、そんなに不味いか」
「いえ、イライラするくらい、美味しいです」
「美味いものを食べると、イライラするのか」
変わっているな君は、と検事は肩をすくめ、再びフォークを動かし始めた。
変わっているだなんて、お前だけには、まじで、言われたくない。
検事のくそったれ。無神経野郎。アホだとは思っていたけど、本気でアホだ。やっぱり苦手だ。大嫌いだ、こんなやつ。



