残念で残念で残念な天才検事と恋する事務官

 検事の車であるアウディのセダンは、オレのアパートに向かっていた。

 昨晩、おっとり刀で家を出てきたため、今日の取り調べで用いる重要な書類を忘れてきてしまった。検事が「三分以内だ」などと、無理難題を押し付けたせいだ。

 築三十年以上のオレのアパートは、どんなに口巧者な不動産屋でも、「住めば都です」としか褒めようのない佇まいを呈している。社会人になって二年、貯金もそれなりに溜まってきたし、引越しも視野に入れてはいるのだが、業務に忙殺されている日々を思えば、実現する日はまだ遠そうだ。

 紺青の色をボディに纏ったアウディが、オレの「住めば都アパート」の前に停車する。

「ありがとうございます、すぐに取ってきます」

 検事を長いこと待たせるわけには、と急いで部屋に向かおうとするオレの二の腕を、検事が乱暴に掴んだ。

「待て」

 見ろ、と検事が集合型ポストのほうを指差す。そちらに目を遣ると、一瞬息が止まりかけた。目を見開き、唾を飲み込んだ。

 三〇一号室、つまりオレの部屋にあたるナンバーが記されたポストの前に、一人の青年が立っていた。宅配や郵便の配達員とは、明らかに風体が異なっている。こちらから顔は確認できなかったが、筋肉らしい筋肉が見当たらない痩身の身体は、冬枯れの荒野にひっそりと立つ、枯渇した花を思わせた。

「あ、あれって、」

 薄弱な声を出しながら、左ハンドルの運転席にいる検事のほうへ、我知らず身を寄せた。

「もしかして、あ、アレですかね」
「そうだな、アレだ」検事はくすりともしない。「君のことが大好きな、ストーカーだ」
「人からの好意を、こんなに疎ましく感じたのは初めてです」

 ハザードランプを点灯させると、検事は運転席から降りた。オレも後を追う。ストーカーのほうへ、迷いのない足取りで近付いていく検事の背中は、正義というものを具現化したかのようだった。

 あの背中こそ、正義そのものだ――そう思った。

 自分の息が、弾んでいた。緊張感や高揚感、更に冒険心なんかがない交ぜになったような気分だ。

 ストーカーを目の前にして、はじめこそ驚いたけれど、恐怖はそこまで感じなかった。 きっと検事がいてくれたからだろう。

 だけど、どうして、と考える。どうして、検事はオレなんかのために、ここまで尽くしてくれるのだろう。

「君か?」

 検事が背後から、どすの利いた声を投げる。

「俺の事務官に迷惑行為を働いたのは」

 冬枯れの植物みたいな男が、勢い良くこちらを振り向いた。 ひっ、とオレは悲鳴をあげそうになる。恐怖はないが、やはり気味は悪い。 頭蓋骨の形が皮膚の上からでも見て取れそうな、頬のこけた、痩せぎすの男だった。顔の血色が悪く、目元が暗く窪んでいる。

 動揺したらしい男は、きょろきょろと目玉を泳がし、その場を立ち去ろうとした。

「待て」

 検事が男を呼び止める。

「まだ話は終わっていない」

 歯切れの良い、聡明さの滲む話し方は、公判のときのそれと同じだ。

「な、なん、なんだよ、」男はぼそぼそとくぐもった声を漏らす。「あんた、誰なんだよ」

 お前こそ誰だ、とオレは喚きそうになる。胃の底の方からふつふつと湧き起こる怒りを感じていた。この野郎、昨日のタクシー代、返しやがれ。

 男が、ぎょろりとした二つの目で、オレのほうを見た。その両目に映るだけで、身体の部位が性的に犯されてしまうかのような、気味悪い視線だった。

 すっ、とオレの前に、一本の腕が差し出される。検事のものだった。

 オレのことを庇うかのように、守るかのように、その腕が、犯人とオレとの間に差し挟まれた。たった一本の左腕だけど、まるで巨大に聳える壁のごとき存在感が、そこにはあった。

 格好良いじゃん、とオレは思った。その時の検事は、世界中の誰より、格好良く見えた。

「彼はな」と検事は、いつもの淡々とした口ぶりで語る。

「彼はな、コーヒーを淹れるのが上手いんだ。それに、なかなか忍耐力もある」

 静かに相手を追い詰めるような、検事独特の舌鋒だ。

「こういう事務官には、そう出会えるものではなくてな」
「検事……?」

 オレは検事のほうを見上げる。どの角度から見ても、非の打ち所がない美顔がそこにある。

「貴様のようなもののせいで彼が集中力を切らして、美味いコーヒーを淹れられなくなったら、俺が困るんだ」

 ああ、なるほどね……とオレは脱力しかける。検事がここまで労力を注いで、オレのために奔走してくれたのは、不味いコーヒーを飲みたくないせいか。

「失せろ」

 突き刺すような目線で、検事はストーカーを睨んでいる。

「今度姿を現したら、二度と太陽は拝めないと思え」

 不当と言われようが無期刑を求刑してやる、と痩身の男を脅した。 不穏当にもほどがある発言だ、とオレは呆れる。そういえば、ストーカーは本当に男だった。

 検事が話し終えると、ストーカーは脱兎のごとく逃げていった。 臆病者ほど、逃げ足は速いものだ。

「……いいんですか、野放しにして」

 ストーカーも懲りたようなので、オレは別に構わないけれど、検察官としてそれはいかがなものか。

「証拠が足りないからな。今ここにいるというだけでは、現行犯逮捕は難しい」

 検事は腕を組み、ストーカーの走り去った方角を見つめている。

「それにこんな小物のせいで、仕事が増える方が癪だ」

 確かにそうですね、とオレも同意した。ポストの中には、『あの男は誰?』と書かれた、冬枯れの植物からの、最後の置き手紙があった。

【続】