残念で残念で残念な天才検事と恋する事務官

 瞼を閉じると、周囲を取り巻く闇が一層色濃くなった。ふー、と長く息を吐きだす。そうして、あ、久しぶりだ、と思った。 こんなに安らかな気分は、本当に久しぶりだ。

 地元の国立大に通っていたため、社会人となって上京するまでは、ずっと実家住まいだった。家族のことは好きだし、実家の居心地も決して悪いものではなかったけれど、男には生来「独立心」という欲求が備わっているのか、早く独り立ちしたいな、と願うことが度々あった。だから、都内へ引っ越してきたときには、ついに念願が叶った、といたく感激したものだ。

 しかし、夢の一人暮らし! と浮かれていられたのも、はじめの半年程度だ。一人の生活に慣れてくると――というよりも、倦んでくると、自炊や洗濯がひどく億劫になった。

 あまつさえ、昼間は社会という未知のフィールドで、完膚なきまでに叩きのめされているのだ。夜も更けきったころに、ふらつく足取りで帰宅した後、「さあ洗濯機を回すぞ」なんて意気はどこからも湧いてこない。

 夜は夜で、「絶対に寝坊できない」というプレッシャーのせいで、かえって浅い睡眠しかとれない日々が続いた。学生時代のように、寝坊しても「ごめん、代返頼む」で済む世界ではない。定刻に出勤できないようなことがあれば、支部にも、そして何より担当の検事に迷惑がかかる。

 実家に戻れたらどんなに楽だろう、と思うが、そうもいかない。何故かと言えば、明日も仕事だから。

 多くの、いやほとんどの新社会人がそうであるように、オレもまた、不慣れな日常に疲弊しきっていた。

 そこへきて、これだ。つまり、ストーカー。 新たなストレス要因が増え、心に圧し掛かる負担が極限にまで達した。もし今日、一人で夜を過ごしていたら、辛抱たまらずに茨城の実家へ逃げ帰っていたかもしれない。

 闇の中で、ゆっくりと瞼を開く。

 眼前には、「伏せ」の状態で寝息を立てるベスと、松波検事の寝顔が並んでいた。

 初めて見る犬に、初めて見る検事の寝顔。この状況はなんなのだ、とくすりと笑ったら、同時に、何故か目尻から、涙がこぼれた。

「あれ、」と呟いたのは、自分自身だ。「なんで……」

 ごし、と涙で潤んだ右目をこすると、今度は左目から涙が溢れた。

「あ、あれ……?」

 左目、右目、左目、と順番に拭っていくうちに、訳がわからなくなった。嗚咽を噛み殺そうとしたけれど、それも徒労に終わる。

「うっ……」

 検事を起こしたらいけない、と毛布で顔を覆った。

 ――だって、怖かった。怖かったんだ。

 一人の夜は長くて、呑みこまれそうだった。巨大な岩のような恐怖の塊が、ずっと朝まで、身体に重苦しい圧力をかけてきた。

 ここはこんなに温かい。皮肉屋で最低な天才検事と、チワワとトイプードルのミックス犬。一人と一匹の体温と、一人と一匹の寝息が、ささくれ立ったオレの身体や内臓に、静かに染みていく気がした。

 一人じゃないということが、こんなにも心強いなんて、他人の体温が、こんなにも温かいなんて、知らなかった。

「ベス、謝れ」

 唐突に、闇の中に検事の声が響いた。

「お前の息が臭いから、彼が泣いてしまったじゃないか」
「け、検事」

 オレは驚いて、布団から顔を出す。 謂れのないいちゃもんをつけられたベスは、困惑したのか、オレのほうを見た。ベスのくりっとした愛らしい目は、モンブランケーキのてっぺんに載っている、やたらと艶のいい甘栗を彷彿とさせる。

「邪魔だ」

 と言って、検事はベスを抱え上げ、自分の背中側へ移動させた。

「そこで寝ていろ。粗相するなよ」

 ベスに訓告すると、こちらを振り向いて、突然オレの身体を力強く引き寄せる。ベスの運搬とほとんど大差ない容易さだった。

「け、検事!」

 オレは、先ほどと同じ言葉を、先ほどよりもはるかに上擦った声で、繰り返した。いや、上擦ったというよりは、奇声や叫び声に近い。

 検事は何も言わずに、オレよりも一回り大きい手で、オレの頭を撫でた。割れ物に触れるみたいに優しい手つきだった。

「松波、検事……」

 一旦は引っ込んだ涙が、じわ、とまた滲み出てきた。

「お、起こして……ごめんなさ……」

 明日も早いのに。 明日も、仕事なのに。

「はじめから、起きていた」

 ベスのいびきがひどくてな、と軽口をたたく検事の声色は、いつも通りの淡白なものだ。

「……嘘ばっか……」

 ベスはいびきなんか、ちっともかいていなかった。

 その後、オレはひとしきり泣き、検事はその間、ずっと頭を撫でてくれていた。大丈夫か、とか、怖くなんかない、とか、そういう慰めの言葉は一つもなかったけれど、オレが泣きやむまで眠ることなく、辛抱強く待っていてくれた。

 呼吸が整い、涙が徐々におさまってくる。社会人として生きた初めての数年間で、体内に鬱積した膿が、すっかり吐き出されたような気がした。

 落ち着きを取り戻したオレの様子を見て、検事が話の口火を切った。

「幼いころ、俺が泣くと、こうして母親が慰めてくれたものだ」
「……検事が、泣くことなんてあったんですか」

 涙を見せた、という気恥ずかしさから、つい小声になる。

「ノストラダムスの大予言なんて、怖くて大泣きしたぞ」
「う、嘘でしょう?」

 意外なエピソードに、目を丸くする。

「本当だ。前にも言っただろう。俺にだって、怖いものくらいあったさ」
「今はないが、みたいな言い方ですね」
「そうだな、今はない」

 検事はおどけるふうでもない。 あは、とオレは弾けるように笑った。

「検事らしいです」
「あるとすれば、ベスがフィラリアに罹ることくらいだ。だがそれは薬を飲ませることで予防できるので、つまり怖いものはないに等しい」

 検事は不遜に言い、オレをますます笑わせた。

「何がおかしい」検事は不服そうだ。
「いえ、何も」と笑いを噛み殺す。

 ストーカーのことも、心に渦巻いていた不安も、忘却の彼方に消えていた。