残念で残念で残念な天才検事と恋する事務官

 シャワーを浴び終え、髪を乾かしてからリビングへ戻ると、そこは無人になっていた。

 リビングの奥に位置する寝室のほうへ視線をやる。ドアは開け放しの状態で、ベッドの上に、人一人分、そして犬一匹分の布団の隆起が見えた。

「すみません、あの、松波検事」

 オレは寝室の入り口から、ひそめた声を投げた。

「なんだ」

 よかった、まだ寝入っていないようだった。

「オレの寝る場所、ソファ借りてもいいですか?」

「ソファ?」と検事が素っ頓狂な声をあげる。寝室の照明は落とされていたので、表情がよく見えない。

「別に構わんが、掛け布団はこれ一枚きりだぞ。タオルケットならあるが、それではまだ寒いだろう」

 季節は三月上旬。暦の上では春だが、夜はまだまだ冷え込む。 検事の言う通り、タオルケットで夜を越せる自信は無かった。

「そうですか……どうしようかな」

 頭を掻いているオレに、 「どうするも何も、ここで寝ればいいじゃないか」上半身を起こし、さも当然かのようにベッドを指差した。

「えっ」思わず、鯖のようにのけぞった。
「そんなに驚くことか」

 検事は、敵意や邪念がないことを表明するかのように、両の掌をこちらに見せる。

「警戒することもないだろう、男同士だ」
「い、いや、別に警戒したわけでは、ないんですが」

 しどろもどろ、とはこのことだ。

「手は出さん。君のストーカーとは違う」
「て、手を出されると思ったわけでも、ないですけど」

 オレのストーカーが男であるということは、検事の中では既定事実のようだ。まあ、検事がそう推理するからには、九分九厘、男なのだろう。

「なら、何故ためらう」

 そんなに狭くはないから平気だぞ、と的外れなことを口にしている。

「二人と一匹くらい、平気だ」
「あ、いえ、広さの問題でもないんですけど」

 ここでオレが固辞すれば、論議が長引きそうだった。

「まあ、あの、じゃあ、お邪魔します……」

 静々と、ベッドと掛け布団の間に滑り込む。マットが柔らかく、あっという間に身体が半分ほど沈んだ。マンションの外観は一般的でも、家具や寝具は選りすぐりのものが揃っている。 検事なりのこだわりなのかもしれない。

 ベスが近寄ってきて、オレの鼻を舐めた。早くも懐いてくれたようだ。尻軽犬(しりがるけん)め、と呟く検事のしかめ面が、闇に慣れてきたオレの目に映る。

「ベスに、洋服とか着せないんですか」

 オレの念頭にあったのは、ハリウッド女優がはべらせている、豪奢な服を着せられたチワワだ。それに比べて、ベスには首輪すらついていない。

「よく売ってるじゃないですか、犬の服。ペットショップとかに」
「ああいうものは、『犬の服』とは呼ばない。『人間のエゴ』と呼ぶんだ」

 検事らしい歯に衣着せぬ物言いに、つい笑ってしまった。検事の冷笑的な口調にはいつも辟易していたのに、今日はどうしてか、もっと聞いていたいような気持ちになった。

 おやすみの一言もなく、検事は無言で目を閉じてしまった。

「おやすみなさい」

 その顔に向けてオレが声をかけて初めて、「ああ、おやすみ」と思い出したかのように返ってくる。寝る前に「おやすみ」も言わないのか。どんな育て方をすればこんな大人に成長するのだ、とオレはいぶかしむ。