残念で残念で残念な天才検事と恋する事務官

 松波検事のご自宅は、いたって一般的な賃貸マンションの一室だった。法曹界屈指の天才検事という肩書きからはちょっと想像し難い、ありふれた物件である。サウジアラビアの油田王のような自宅を想像していたわけではなかったが、ここまでこぢんまりとしているとは、ちょっと予想外だ。車はさすがに外国産だったが。

「……検事は、もっと豪邸に住んでいるようなイメージでした」

 無礼な発言だったと気付いたのは、口に出してしまった後だ。 しまった、と口を押さえかけたが、検事のほうは意に介しないふうである。

「検察官といっても、ただの公務員だからな」

 自嘲めいた言い方だが、卑屈な響きは含んでいなかった。

「それに、家が広いとそれだけ、掃除に手を焼く」
「まあ、それもそうですね」

 特記すべきは、検事がリビングのドアを開けた瞬間、一匹の小型犬が駆け寄ってきたことだ。

「待たせたな、ベス」

 そう言って小型犬を抱え上げる検事を、オレは唖然とした表情で見つめた。松波検事が、犬を、飼っているだなんて。全法曹界が震撼する新事実だ。

「い、い、犬を、飼われているんですか」
「俺だって、犬くらい飼う」
「ご、ご、ご自分で、買われたんですか」
「姉のところの飼い犬が、去年出産したんだ。三匹ほど産まれてな、それを一匹押しつけられた。『お前は結婚できないから犬でも飼え』と、ご丁寧にメッセージ付きでな」

 ベスと呼ばれた薄茶色の小型犬は、嬉々として検事の頬を舐めている。全長は四、五十センチくらいで、軽く癖のついた体毛で全身が覆われている。キャンキャンと響く甲高い鳴き声は、どちらかといえば犬よりも猿を連想させた。後から聞いた話によると、ベスはチワワとトイプードルのミックス犬らしい。

「ベス、飯は全部食べたか?」

 検事は、リビングの隅に設えられた犬用の皿を覗き込んでいる。 松波検事と、犬。奇抜にも程がある組み合わせだが、こうして見ると、案外微笑ましいかもしれない。

 結局のところ、美形は何を持っても様になるのだ。犬に顔を舐め回されていたって、様になる。コーヒーにスティックシュガーを四本注いだって、様になる。

 そうかなるほど――その公式でいけば、非常識な発言や罵詈雑言を口にしてもなんとなく様になるのは、検事が美形だからか。すなわち、世の中は原則として美形の味方なのだ。

 検事はソファに腰を下ろし、ジャケットを脱ぐと、ぞんざいな扱いで背もたれへ引っ掛けた。

「今頃、激昂しているだろうな」

 何がおかしいのか、検事は愉快げだ。

「え、何がです?」

 上の空で問うオレは、投げ捨てられたジャケットが皺にならないか、とそれがなによりも心配だった。公務員ゆえアルマーニとはいかないだろうが、それでもあのスーツは見るからに高そうだ。

「ストーカーのことだ」
「ああ……」

 オレは嘆息を漏らす。 ストーカーという単語一つで、急に気分が鬱屈としてくる。 せっかく忘れかけていたのに、と検事を非難したくもなったが、目を背けていてはなんの解決にもならないことも、頭の隅ではわかっている。

「激昂、ですか?」

 聞き返すオレのところへ、ベスが駆け寄ってきた。足や脛なんかに、一心不乱に鼻をつきつけている。嗅ぎ慣れない新参者の匂いに、興味津々、といったかんじだ。

「どこの馬の骨かもわからない男に、僕のマイスウィートを連れていかれた、と思っているんじゃないか」

 検事がストーカーの心境を代弁している。おおむね彼の言ったことに間違いはないだろうが、一点だけ気にかかった。

「……『僕』ですか? 『わたし』ではなくて?」
「二枚目のラブレターの筆跡は、男っぽかったぞ」

 あれはラブレターではなく脅迫文というんだ、とオレは訂正したくなる。

「男が、男をストーキングするものでしょうか」
「君はよく女性に間違えられるじゃないか」

 突っ立っていないで座ればいい、と検事は二人掛けソファの無人の空間を、ポンと手で叩いた。お言葉に甘えて、革張りのソファにちょこんと腰を載せる。するとベスも飛び乗ってきて、二人の間に意気揚々と伏せてみせた。

 検事が帰宅してからずっと、ベスは尻尾をパタパタと忙しなく動かし続けている。主人の帰りが相当嬉しいのだろう。そんなベスの様子を見て、ふと、オレも犬を飼おうかな、と思う。 帰宅するたびに熱烈な歓迎をしてくれる愛犬がいれば、一人暮らし、彼女なし、ストーカー持ち、という悲愴な現状からくる寂しさも、紛れるかもしれない。

 室内は小奇麗に片付いていた。家具やインテリア、生活雑貨などは必要最低限のものしか見当たらず、殺風景といってもいい空間だった。物の少なさからいくと、整頓されているというよりは、散らかりようがない、という表現のほうが正しいかもしれない。装飾性より機能性を重視していることは明らかで、検事らしいといえば検事らしい部屋だ。

「どうすれば、いいんでしょう」

 犯人がどんな人物であれ、誰かに付きまとわれて良い気分はしない。まして、本当に男だとすれば、なおのこと面白くない。

「どうしようもないな。あちらが姿を見せない限りは、待つしかない」
「それが、法を司る人物の言葉ですか」
「巨大ゴキブリホイホイでも設置したらどうだ」
「茶化さないでください」
「法なんて、無力なものだ」

 検事はベスの頭を撫でている。

「法も、警察も、名探偵も、モラールの源は人が死ぬことだ」

 と無表情で言い募り、

「結局、自分の身は自分で守るしかない」
「じゃあ、検事ならどうしますか」質問の方向性を変えてみた。 「松波検事だったら、こういうとき、どうします」
「戸締りをして、寝るな」

 検事は当たり前のように答えた。

「何故かと言えば、明日も仕事だからだ」

 そうですね、とオレも検事の案に賛同した。何故かと言えば、明日も仕事だからだ。

 国中の人々が、みんな聖人のようになればいいのに、と思うことがある。そうすれば犯罪はなくなって、オレたちの仕事もぐっと減るのに、と。