定時退社は今日も儚い夢に終わったが、残業は二時間程度で済んだ。先週は大きい事件を扱ったせいで、三日家に帰れなかった。そのことを思えば、二時間の残業などまだ楽なほうだ。
荷物をまとめて席を立った松波検事に、「お疲れ様でした」と頭を下げる。
「大丈夫なのか」
扉に手をかけた検事が、こちらを振り向く。
「帰ったら一人なんだろう」
「え?」
何のことかと思ったが、ストーカーの件だとすぐに察しがついた。
「ああ、えっと、たぶん大丈夫です」
「そうか」
それ以上は詮索せずに、検事は取調室を出た。現に大丈夫なのかどうかは、自分でも判然としなかった。でも「大丈夫か」と問われて、「ダメです」とは言いづらい。
あの嫌がらせは、きっと昨日の一度きりだ。そう自分に言い聞かせた。明日からは、またなんのわだかまりもなく生活できる。昨日の一件だって、事務官の業務に忙殺されているうちに、すぐに忘れるだろう。
それでも念には念をと、駅から家まではタクシーを使った。 ギリギリワンメーターで帰れる距離なので七三〇円で済んだが、それでも月末には痛い金額だ。くそう、ストーカーの野郎め……。
ポストは、一階に集合型のものが設置されている。オレの部屋は三〇一号室なので、「301」と書かれたプレートのあるポストを、戦々恐々と開いてみる。
中身は、空っぽ、だった。安堵する。が、ストーカーの野郎が一度でも触ったのかと思うと、ポストの取っ手を消毒したくなった。
ああ、でも、良かった。やっぱりただの嫌がらせだったんだ。それもそうだ。男をストーキングする物好きなど、そうそういるはずもない。
自分の部屋に入り、施錠をして、カーテンを閉めた。ソファに身を沈め、ネクタイを緩めながらテレビを点ける。
もう終盤ではあったが、地上波初登場という、『メトロ』という映画が放送されていた。清純派として人気を博している女優が、何か、鍵のようなものを川に向かって投げ捨てている。感動的なシーンのようで、前後関係がわからなくてもつい見入ってしまった。サブスクは契約していないので、今度DVDでも借りてはじめから見てみようかな、と考える。
その時――コン、コン、と玄関の扉がノックされた。
全身の毛が凍りついた。心臓が早鐘を打ち始める。
――だ、誰か、いる。
玄関の向こうに、誰か。
宅配便のたぐいなら、インターホンを鳴らした上で名乗るはずだ。しかしノックが鳴ったのみで、ドアの向こう側は沈黙している。
玄関の覗き窓を覗く勇気すらなかった。テレビのリモコンを手にしたまま、しばらくの間、硬直していた。まばたきすら忘れ、嗚咽を漏らしそうになるのをこらえた。
口の中が異様に渇く。うまく呼吸ができない。息が苦しい。 どうしよう。怖い。怖い。
かじかんだように震える手で、通勤バッグからスマホを取り出した。頭が真っ白だ。
誰か、誰かに連絡しないと。一人では、恐怖に押しつぶされてしまう。
無我夢中でボタンを押し、無我夢中でスマホを耳に当てると、『もしもし』 と、妙に聞きなれた声が電話口から漏れてきた。
「あれ、け、検事?」
いつの間にか、松波検事にかけていた。家族か、あるいは110でもダイヤルしたかと思ったのに。
『君がかけてきておいて、あれ、とは何だ』
「す、すみません。や、夜分にすみません」
スマホを両手で持ち直す。背筋が伸びる。これが世に名高い職業病というやつか。
『ストーカーか』
その一言に、肩の力が抜けた。
「……検事は、本当に、なんでもお見通しなんですね……」
『何があった』
「げ、玄関が……さっき、ノックされて」
あのノックの音を思い出すだけで、背筋に怖気が走った。
「ドアの向こうに、だ、誰か、いるのかも……」
『覗き穴を覗いてみろ。有力な証拠になる』
なんて無体なことを。
「そんなの、む、無理です」
『何故だ』
な、何故、だって?
「こ、怖いんです」
弱々しいオレの声音を聞いて、ふむ、と検事は思案するように一息置いた。
『……仕方ない、』
電話機の向こうから、立ち上がるような物音がした。
『そこにいろ。ドアは開けるな』
「え」
『俺が行く』
今度はオレが、何故だ、と言いそうになった。何故、オレのために、彼が動いてくれるのだ?
ほんの十五分程度だったろうけれど、検事が来てくれるまでの間、本当に時間の流れが遅く感じた。検事からの連絡がないかと、何度もスマホの通知を確認して時間をやり過ごした。
検事は車で来ると言っていた。住所の説明はしたが、うまくここまで辿り着けるだろうか。
インターホンが鳴らされた時には、思わず肩をそびやかした。間髪置かずに、ドアの向こうから、「俺だ」という検事のバリトンが飛んでくる。
そこで初めて、身体の力を抜き、ゆっくりと息を吐き出すことができた。チェーンを外して扉を開けると、検事が手に白いコピー用紙を持っていた。
「な、なんです、それ」
「玄関の前に置かれていた」
紙には、『どうしてタクシーを使ったの?』とある。今度は手書きだった。掛け値なしに、息が三秒は止まった。さっきストーカーがノックをしたのは、この紙の存在を気づかせるためだったのか。
「う、怨まれているんでしょうか、オレ」
声が上擦って、恥ずかしい。だけど、なりふり構っていられなかった。泣きださないように、目がしらに神経を集中させることで精一杯だった。
「いや、これは怨みのたぐいではないだろう。むしろ好意じゃないのか」
言うと、検事はなんの躊躇もなく、紙を真っ二つに破いてしまった。そのままゴミのように丸めて、自分のポケットに突っ込む。検事はまだスーツ姿だった。帰宅後、着替える間もなくオレが電話をかけてしまったのかもしれない。
「あ、それ、破ったりしていいんですか」
逆恨みとか、されないだろうか。
「ああ、証拠品になったか。迂闊だった」
「いえ、そういう意味ではないんですが」
「それにしても、暇な人間がいるものだな」
「そ、そうですね」
「ストーキングをする暇があるのなら、俺の抱える公判を肩代わりしてほしいな。忙しい奴も、そうでない奴も、何故二十四時間しか与えられていないんだろうな。平等に、均等であることが、かえって不平等じゃないのか」
「そ、そうですね」
オレは頷くほかない。
「準備はできているか」
「じ、準備、ですか?」
顎を突き出して反問する。準備とは、一体なんのことだ?
「うちに来るんだろう?」
「え、えっ」
そんな話、微塵も聞いた覚えはない。
困惑したオレの反応に、検事は肩をすくめる。これ見よがしの、大仰な仕草だ。
「ここに一人残されて、君は眠れるのか?」
こちらを挑発するかのように、片眉を下げる。
「君がここに留まるというのなら、俺が来た理由はなんだ。玄関のゴミを拾うためか?」
え、え。そ、そんな、捲くし立てないでほしい。余計に混乱するじゃないか。
「さっさと準備しろ、三分以内だ」
「は、はいっ」
さ、三分ッ?
尻に火がついたような思いで、クローゼットから大きめのバッグを引っ張り出した。
【続】
荷物をまとめて席を立った松波検事に、「お疲れ様でした」と頭を下げる。
「大丈夫なのか」
扉に手をかけた検事が、こちらを振り向く。
「帰ったら一人なんだろう」
「え?」
何のことかと思ったが、ストーカーの件だとすぐに察しがついた。
「ああ、えっと、たぶん大丈夫です」
「そうか」
それ以上は詮索せずに、検事は取調室を出た。現に大丈夫なのかどうかは、自分でも判然としなかった。でも「大丈夫か」と問われて、「ダメです」とは言いづらい。
あの嫌がらせは、きっと昨日の一度きりだ。そう自分に言い聞かせた。明日からは、またなんのわだかまりもなく生活できる。昨日の一件だって、事務官の業務に忙殺されているうちに、すぐに忘れるだろう。
それでも念には念をと、駅から家まではタクシーを使った。 ギリギリワンメーターで帰れる距離なので七三〇円で済んだが、それでも月末には痛い金額だ。くそう、ストーカーの野郎め……。
ポストは、一階に集合型のものが設置されている。オレの部屋は三〇一号室なので、「301」と書かれたプレートのあるポストを、戦々恐々と開いてみる。
中身は、空っぽ、だった。安堵する。が、ストーカーの野郎が一度でも触ったのかと思うと、ポストの取っ手を消毒したくなった。
ああ、でも、良かった。やっぱりただの嫌がらせだったんだ。それもそうだ。男をストーキングする物好きなど、そうそういるはずもない。
自分の部屋に入り、施錠をして、カーテンを閉めた。ソファに身を沈め、ネクタイを緩めながらテレビを点ける。
もう終盤ではあったが、地上波初登場という、『メトロ』という映画が放送されていた。清純派として人気を博している女優が、何か、鍵のようなものを川に向かって投げ捨てている。感動的なシーンのようで、前後関係がわからなくてもつい見入ってしまった。サブスクは契約していないので、今度DVDでも借りてはじめから見てみようかな、と考える。
その時――コン、コン、と玄関の扉がノックされた。
全身の毛が凍りついた。心臓が早鐘を打ち始める。
――だ、誰か、いる。
玄関の向こうに、誰か。
宅配便のたぐいなら、インターホンを鳴らした上で名乗るはずだ。しかしノックが鳴ったのみで、ドアの向こう側は沈黙している。
玄関の覗き窓を覗く勇気すらなかった。テレビのリモコンを手にしたまま、しばらくの間、硬直していた。まばたきすら忘れ、嗚咽を漏らしそうになるのをこらえた。
口の中が異様に渇く。うまく呼吸ができない。息が苦しい。 どうしよう。怖い。怖い。
かじかんだように震える手で、通勤バッグからスマホを取り出した。頭が真っ白だ。
誰か、誰かに連絡しないと。一人では、恐怖に押しつぶされてしまう。
無我夢中でボタンを押し、無我夢中でスマホを耳に当てると、『もしもし』 と、妙に聞きなれた声が電話口から漏れてきた。
「あれ、け、検事?」
いつの間にか、松波検事にかけていた。家族か、あるいは110でもダイヤルしたかと思ったのに。
『君がかけてきておいて、あれ、とは何だ』
「す、すみません。や、夜分にすみません」
スマホを両手で持ち直す。背筋が伸びる。これが世に名高い職業病というやつか。
『ストーカーか』
その一言に、肩の力が抜けた。
「……検事は、本当に、なんでもお見通しなんですね……」
『何があった』
「げ、玄関が……さっき、ノックされて」
あのノックの音を思い出すだけで、背筋に怖気が走った。
「ドアの向こうに、だ、誰か、いるのかも……」
『覗き穴を覗いてみろ。有力な証拠になる』
なんて無体なことを。
「そんなの、む、無理です」
『何故だ』
な、何故、だって?
「こ、怖いんです」
弱々しいオレの声音を聞いて、ふむ、と検事は思案するように一息置いた。
『……仕方ない、』
電話機の向こうから、立ち上がるような物音がした。
『そこにいろ。ドアは開けるな』
「え」
『俺が行く』
今度はオレが、何故だ、と言いそうになった。何故、オレのために、彼が動いてくれるのだ?
ほんの十五分程度だったろうけれど、検事が来てくれるまでの間、本当に時間の流れが遅く感じた。検事からの連絡がないかと、何度もスマホの通知を確認して時間をやり過ごした。
検事は車で来ると言っていた。住所の説明はしたが、うまくここまで辿り着けるだろうか。
インターホンが鳴らされた時には、思わず肩をそびやかした。間髪置かずに、ドアの向こうから、「俺だ」という検事のバリトンが飛んでくる。
そこで初めて、身体の力を抜き、ゆっくりと息を吐き出すことができた。チェーンを外して扉を開けると、検事が手に白いコピー用紙を持っていた。
「な、なんです、それ」
「玄関の前に置かれていた」
紙には、『どうしてタクシーを使ったの?』とある。今度は手書きだった。掛け値なしに、息が三秒は止まった。さっきストーカーがノックをしたのは、この紙の存在を気づかせるためだったのか。
「う、怨まれているんでしょうか、オレ」
声が上擦って、恥ずかしい。だけど、なりふり構っていられなかった。泣きださないように、目がしらに神経を集中させることで精一杯だった。
「いや、これは怨みのたぐいではないだろう。むしろ好意じゃないのか」
言うと、検事はなんの躊躇もなく、紙を真っ二つに破いてしまった。そのままゴミのように丸めて、自分のポケットに突っ込む。検事はまだスーツ姿だった。帰宅後、着替える間もなくオレが電話をかけてしまったのかもしれない。
「あ、それ、破ったりしていいんですか」
逆恨みとか、されないだろうか。
「ああ、証拠品になったか。迂闊だった」
「いえ、そういう意味ではないんですが」
「それにしても、暇な人間がいるものだな」
「そ、そうですね」
「ストーキングをする暇があるのなら、俺の抱える公判を肩代わりしてほしいな。忙しい奴も、そうでない奴も、何故二十四時間しか与えられていないんだろうな。平等に、均等であることが、かえって不平等じゃないのか」
「そ、そうですね」
オレは頷くほかない。
「準備はできているか」
「じ、準備、ですか?」
顎を突き出して反問する。準備とは、一体なんのことだ?
「うちに来るんだろう?」
「え、えっ」
そんな話、微塵も聞いた覚えはない。
困惑したオレの反応に、検事は肩をすくめる。これ見よがしの、大仰な仕草だ。
「ここに一人残されて、君は眠れるのか?」
こちらを挑発するかのように、片眉を下げる。
「君がここに留まるというのなら、俺が来た理由はなんだ。玄関のゴミを拾うためか?」
え、え。そ、そんな、捲くし立てないでほしい。余計に混乱するじゃないか。
「さっさと準備しろ、三分以内だ」
「は、はいっ」
さ、三分ッ?
尻に火がついたような思いで、クローゼットから大きめのバッグを引っ張り出した。
【続】



