白い光が輪を満たす直前、腕を引かれた。
「輪に触れさせるな!」
祭司長の声に衛士が瀬織を押えこむ。指が水を離れた。
祭殿から来る光が、途中で細く途切れる。
気吹がこちらへ手を伸ばしかけ、そのまま胸を押さえた。
「離せ!」
身を捻った瀬織を、隣の巫女が引いた。
もう一人が衛士の前に出る。
「暦主様は、手を貸せと仰いました!」
衛士が怯んだ隙に、腕が抜けた。
夏宮では祭司が巫女の手を輪から払っていた。瀬織は回廊へ駆け出す。このままでは合図を揃えられない。
「輪は、まだ外さないで! 合図を待ってください!」
夏宮で膝をついた娘を抱き起こす。
瀬織を偽物と囁いていた娘だった。今は血の気を失った唇で、途切れ途切れに息をしている。
「外したら、罰を」
「あなた一人のせいにはさせない。私も一緒だから」
冷えた指が袖を掴んだ。
「まだ、家に帰れますか」
彼女にも待つ人がいる。瀬織はその手を握った。
「帰ろう。そのために、手を貸して」
娘は頷き、隣の巫女へ手を伸ばした。
「輪は、持てる。水はお願い」
「秋宮には、私が伝えます」
別の娘が走り出した。瀬織は冬宮へ向かった。
その角で、祭司長が行く手を塞いだ。
「完全な神なくして、この国を誰が守る」
「もう巫女が倒れています!」
「幾人かの犠牲で、国中の民が救われる」
瀬織の後ろで、巫女が息を呑んだ。
「その幾人かに、自分を入れて話してる? 水瀬も、その一人で済ませるつもり!?」
祭殿の光が、気吹の顔を覆い始めた。瀬織は拳をほどく。
「通して! 国へ力を返します」
祭司長が衛士を呼ぼうとした。
先に冬宮の斎主が、その前へ立った。
「輪を外す支度はできています。お行きなさい」
「斎主まで、偽物に従うのか」
「私の宮の娘が、倒れております」
静かな声だった。斎主は退かなかった。瀬織は頭を下げ、気吹の元へ走った。
神殿を満たす鋭い光の奥へ、呼びかける。
「気吹!」
顔が向いた。
瀬織を映す瞳には、何の感情も浮かばなかった。
「誰だ」
息が止まった。さっきまで唇に触れていた人が、もう自分を知らない。
瀬織は水へ足を入れた。
「滝の裏の岩、覚えてる? 私が登るって言ったら、危ないって怒りながら、必ずついてきた」
一歩進む。足首に光が絡みつく。
「怪我をした鳥を見つけると、帰れなくなって。私には先に帰れって言うくせに、自分は暗くなっても残ってた」
気吹の指が動いた。
「隠せば叱られずに済むのに、嘘もつけなくて」
手を伸ばす。
光に弾かれ、足が滑った。倒れる前に、腕が腰を捉えた。
「危ない」
掠れた声だった。その一言で、堪えていた涙が落ちた。
「そう。いつもそうやって、私を支えてくれた」
気吹の頬へ触れる。ひどく冷たい。瀬織は両手で包んだ。
「神様になっても優しいままだったら、また自分を差し出すでしょ? だから、止めに来たの」
抱く腕が震えた。
「戻るって約束したでしょ? 私、まだ待ってるんだけど」
涙が気吹の衣へ落ちる。
「気吹。私を見て。瀬織だよ」
唇が動いた。
「……せ、おり」
頬に大きな手が重なる。確かめるように撫でられ、次の瞬間、息が詰まるほど抱き寄せられた。
「瀬織!」
今度は、間違えなかった。
「ごめん。おまえを一人にした」
肩へ顔が埋まる。瀬織も、震える背に腕を回した。
「迎えに来たの。今度は私が」
気吹が顔を上げ、濡れた目元へ唇を寄せた。
「足を見せて」
「後でいい」
「血が出てる」
抱き上げられ、光から庇うように膝へ乗せられた。
裂けた足首に、気吹が自分の袖を巻く。
「もう平気。みんなが待ってる」
「わかってる。瀬織も、そのみんなの一人だ」
結び目を確かめる指が離れた。瀬織はその手を握る。
「一緒にやろう」
気吹が顔を上げた。
「全員、位置へ。次の光で輪を外してくれ」
斎主たちも祭司を退かせ、巫女たちの傍らについた。瀬織の空けた一席には、春宮の斎主が控えていた。
「私の水盤は、流れを開けておいてください。ここから繋ぎます!」
斎主が頷く。瀬織は気吹と並んで水へ手を浸した。自分の水盤へ細い流れを通し、その先から土地へ続く道を探る。ここに留めない。彼と共にいるために、この先を閉ざさない。
気吹の指が一度だけ瀬織の指を握った。それから離れた。
輪が白く光る。二十三の輪が、一斉に水を離れた。
神殿へ集まっていた光が途絶えた。
気吹が深く息を吸う。次の瞬間、その胸から溢れた光が、水路へ奔った。
瀬織は受け止めず、四方へ導いた。
四宮で巫女たちが流れを分ける。二十四の節目を通して、それぞれの土地へ。水路の縁まで光が満ちた。
「夏宮、少し待ってください!」
叫びが届く。さっき抱き起こした娘が、水盤の前で倒れかけていた。隣の巫女が肩を支えるが、光を送り出す手が揃わない。行き場を失った力が、神殿へ押し戻されてくる。
瀬織は反射的に、自分の方へ引き寄せかけた。気吹の手が重なる。
「任せよう。ここで、待てる」
言いながら、彼は押し戻される力を留めた。額に汗が浮く。瀬織も水の勢いを緩めた。
「急がなくていい! 支度ができたら教えて!」
夏宮の斎主が娘の腕を支え、ともに水へ手を添えた。やがて、顔が上がる。
「大丈夫です。流してください!」
少しずつ流れを戻すと、今度は光が外へ抜けていった。
気吹の肩が大きく揺れる。
なお胸に残る光が、白い衣の下で脈打っていた。
「気吹!」
「……離したら、私まで消えそうで」
初めて聞く、彼自身のための恐れだった。
瀬織は肩を寄せた。
「手はここにあるよ」
水の中で指を絡める。
「力は離して。こっちは離さないから」
気吹が目を閉じた。
握った手に力がこもり、最後の光が胸を離れた。
轟音とともに水が逆巻く。気吹は瀬織を胸へ抱きこみ、その波から庇った。長い一瞬の後、音が遠のいた。
雪がやみ、庭の花弁から雫が落ちた。
「気吹?」
背を抱く腕が動いた。頬に、温かな息が触れる。
「いるよ」
瀬織は彼の胸へ額を押しつけた。
鼓動がする。速くて、不揃いで、愛しい音だった。
「ちゃんと、ここにいる」
気吹が何度も背を撫でた。
四宮から、互いを呼ぶ声が届く。泣きながら笑う娘たちの間で、青銅の輪が床に転がっていた。
「暦主を連れ出すことは許さぬ」
祭司長の声が響いた。
「その御方は、国のものだ」
気吹に支えられ、瀬織は立った。
「気吹は気吹のものです。国のものでも、神様のものでも、私のものでもない」
気吹へ向き直る。幼い日に見送ったときは、差し出せなかった手を伸ばした。気吹はその手を取り、指先へ口づけた。
「それでも、私と一緒に来る?」
「うん! 行く!」
引き寄せられた。頬へ添えられた手に、自分から顔を寄せる。重なった唇は温かく、離れかけると、今度は瀬織が気吹の襟を引いた。気吹が息の触れる近さで笑った。
「まだ、足が痛む?」
瀬織はフフッと笑って頷いた。気吹も笑う。抱き上げる腕へ、瀬織は身を預けた。
追おうとする祭司長の前に、冬宮の斎主と衛士が立った。
「まずは皆の手当てを。その後、お話を伺います」
もう、道を塞ぐ者はいなかった。
祭殿を出た二人の前で、庭の水が白く光った。
暗い水面の向こうへ、懐かしい光の道が開いた。
──此度は、巡りを閉ざさなかった
声が降った。
力を世界へ返した二人には、神へ戻る道が許されるという。向こうへ渡れば、もう老いることはない。互いを失う日も来ない。
「記憶は?」
瀬織が問うと、水面が揺れた。
──消しはせぬ。されど、幾千の春を経れば、人の一生は遠き夢となろう
この腕の温かさも、いつか遠い記憶になる。
瀬織は気吹を見上げた。自分だけで決めてはいけない。
「気吹は?」
「戻らない」
迷いのない声だった。
「明日も、目の前の瀬織に会いたい」
気吹は瀬織の足を気遣いながら、回廊の縁へそっと座らせた。その前に膝をつき、両手を取る。
「寒がれば衣を掛けたい。疲れたら抱いて、怒ったら理由を聞きたい。明日のおまえを、明日初めて知りたい」
「おばあさんになっても?」
「その頃は私もじいさんだ。おまえを抱き上げるために、丈夫でいないとな」
笑ったつもりが、涙がこぼれた。
「何でも一人でしてくれなくていいんだよ」
「では、できなくなったら手を貸して」
気吹が涙を拭った。
「私はここで、君と、瀬織と生きたい」
もう、返事を待つ子分ではなかった。
瀬織が両手を広げると、気吹は抱き上げた。
「私も、あなたと、気吹と生きたい。ここで」
白い道がほどけた。
光は庭の水へ降り、二人の足元を通って流れていく。
瀬織が愛しそうに首へ腕を回す。永遠を選ばなかった腕の中は、少しも寂しくはなかった。
大祭の後、四宮の斎主たちが輪と記録を調べ、職人と祭司は祭司長の指示を認めた。
輪は神力を集めるため、石は重し。包みが水路に詰まり、逆流したのは想定外だったという。
「では、濁りは?」
瀬織が問うと、その祭司は俯いた。
「私が、継ぎ目に仕込みました」
祭司の部屋には、竹炭の丸薬の残りと試験記録があった。異変を巫女の穢れに見せかけ、祭具を疑わせないための、祭司長の指示だった。
「初めて加わった私のせいにすれば、輪を隠せると思ったんですね」
返事はなかった。
水瀬の帳面に描かれた印は、村の祭具と一致した。試験続行を命じた返書も確認され、死の前に水瀬を訪ねた祭司が呼び出された。祭司は、苦しむ水瀬に試験を続けさせたと認めた。瀬織は斎主へ告げた。
「水瀬が務めを怠ったのではないと、家族にも、村にも伝えてください」
祭司長は職を解かれ、関わった者たちとともに裁きを受けることになった。
返書と迎えの者の証言により、村長たちも身代わりを頼んだと認めた。頭を下げる二人を、瀬織は黙って見ていた。
「すぐに許すとは、言えません」
声は震えなかった。
「水瀬の家にも、同じように話してください」
瀬織は、強いられた事情と国を救った功績により、処罰を免れた。話し終えた瀬織の手を、気吹がそっと包んだ。
春宮の新しい名簿へ、自分の名を書く。
水瀬の名は、亡くなった巫女として別の帳面へ残された。消してしまわなくてよかったと、思った。
「やっと、おまえの名で呼べる」
隣で気吹が微笑んだ。
「ずっと呼んでたじゃない」
「いや、大っぴらに、遠慮なく」
耳元へ顔が近づく。
「私の大切な人だと、紹介できる」
筆を落としかけた瀬織を見て、気吹は嬉しそうに笑った。瀬織も負けずに満面の笑みを返した。
連れ戻せたのだ。この笑顔を、明日のある場所へ。
「輪に触れさせるな!」
祭司長の声に衛士が瀬織を押えこむ。指が水を離れた。
祭殿から来る光が、途中で細く途切れる。
気吹がこちらへ手を伸ばしかけ、そのまま胸を押さえた。
「離せ!」
身を捻った瀬織を、隣の巫女が引いた。
もう一人が衛士の前に出る。
「暦主様は、手を貸せと仰いました!」
衛士が怯んだ隙に、腕が抜けた。
夏宮では祭司が巫女の手を輪から払っていた。瀬織は回廊へ駆け出す。このままでは合図を揃えられない。
「輪は、まだ外さないで! 合図を待ってください!」
夏宮で膝をついた娘を抱き起こす。
瀬織を偽物と囁いていた娘だった。今は血の気を失った唇で、途切れ途切れに息をしている。
「外したら、罰を」
「あなた一人のせいにはさせない。私も一緒だから」
冷えた指が袖を掴んだ。
「まだ、家に帰れますか」
彼女にも待つ人がいる。瀬織はその手を握った。
「帰ろう。そのために、手を貸して」
娘は頷き、隣の巫女へ手を伸ばした。
「輪は、持てる。水はお願い」
「秋宮には、私が伝えます」
別の娘が走り出した。瀬織は冬宮へ向かった。
その角で、祭司長が行く手を塞いだ。
「完全な神なくして、この国を誰が守る」
「もう巫女が倒れています!」
「幾人かの犠牲で、国中の民が救われる」
瀬織の後ろで、巫女が息を呑んだ。
「その幾人かに、自分を入れて話してる? 水瀬も、その一人で済ませるつもり!?」
祭殿の光が、気吹の顔を覆い始めた。瀬織は拳をほどく。
「通して! 国へ力を返します」
祭司長が衛士を呼ぼうとした。
先に冬宮の斎主が、その前へ立った。
「輪を外す支度はできています。お行きなさい」
「斎主まで、偽物に従うのか」
「私の宮の娘が、倒れております」
静かな声だった。斎主は退かなかった。瀬織は頭を下げ、気吹の元へ走った。
神殿を満たす鋭い光の奥へ、呼びかける。
「気吹!」
顔が向いた。
瀬織を映す瞳には、何の感情も浮かばなかった。
「誰だ」
息が止まった。さっきまで唇に触れていた人が、もう自分を知らない。
瀬織は水へ足を入れた。
「滝の裏の岩、覚えてる? 私が登るって言ったら、危ないって怒りながら、必ずついてきた」
一歩進む。足首に光が絡みつく。
「怪我をした鳥を見つけると、帰れなくなって。私には先に帰れって言うくせに、自分は暗くなっても残ってた」
気吹の指が動いた。
「隠せば叱られずに済むのに、嘘もつけなくて」
手を伸ばす。
光に弾かれ、足が滑った。倒れる前に、腕が腰を捉えた。
「危ない」
掠れた声だった。その一言で、堪えていた涙が落ちた。
「そう。いつもそうやって、私を支えてくれた」
気吹の頬へ触れる。ひどく冷たい。瀬織は両手で包んだ。
「神様になっても優しいままだったら、また自分を差し出すでしょ? だから、止めに来たの」
抱く腕が震えた。
「戻るって約束したでしょ? 私、まだ待ってるんだけど」
涙が気吹の衣へ落ちる。
「気吹。私を見て。瀬織だよ」
唇が動いた。
「……せ、おり」
頬に大きな手が重なる。確かめるように撫でられ、次の瞬間、息が詰まるほど抱き寄せられた。
「瀬織!」
今度は、間違えなかった。
「ごめん。おまえを一人にした」
肩へ顔が埋まる。瀬織も、震える背に腕を回した。
「迎えに来たの。今度は私が」
気吹が顔を上げ、濡れた目元へ唇を寄せた。
「足を見せて」
「後でいい」
「血が出てる」
抱き上げられ、光から庇うように膝へ乗せられた。
裂けた足首に、気吹が自分の袖を巻く。
「もう平気。みんなが待ってる」
「わかってる。瀬織も、そのみんなの一人だ」
結び目を確かめる指が離れた。瀬織はその手を握る。
「一緒にやろう」
気吹が顔を上げた。
「全員、位置へ。次の光で輪を外してくれ」
斎主たちも祭司を退かせ、巫女たちの傍らについた。瀬織の空けた一席には、春宮の斎主が控えていた。
「私の水盤は、流れを開けておいてください。ここから繋ぎます!」
斎主が頷く。瀬織は気吹と並んで水へ手を浸した。自分の水盤へ細い流れを通し、その先から土地へ続く道を探る。ここに留めない。彼と共にいるために、この先を閉ざさない。
気吹の指が一度だけ瀬織の指を握った。それから離れた。
輪が白く光る。二十三の輪が、一斉に水を離れた。
神殿へ集まっていた光が途絶えた。
気吹が深く息を吸う。次の瞬間、その胸から溢れた光が、水路へ奔った。
瀬織は受け止めず、四方へ導いた。
四宮で巫女たちが流れを分ける。二十四の節目を通して、それぞれの土地へ。水路の縁まで光が満ちた。
「夏宮、少し待ってください!」
叫びが届く。さっき抱き起こした娘が、水盤の前で倒れかけていた。隣の巫女が肩を支えるが、光を送り出す手が揃わない。行き場を失った力が、神殿へ押し戻されてくる。
瀬織は反射的に、自分の方へ引き寄せかけた。気吹の手が重なる。
「任せよう。ここで、待てる」
言いながら、彼は押し戻される力を留めた。額に汗が浮く。瀬織も水の勢いを緩めた。
「急がなくていい! 支度ができたら教えて!」
夏宮の斎主が娘の腕を支え、ともに水へ手を添えた。やがて、顔が上がる。
「大丈夫です。流してください!」
少しずつ流れを戻すと、今度は光が外へ抜けていった。
気吹の肩が大きく揺れる。
なお胸に残る光が、白い衣の下で脈打っていた。
「気吹!」
「……離したら、私まで消えそうで」
初めて聞く、彼自身のための恐れだった。
瀬織は肩を寄せた。
「手はここにあるよ」
水の中で指を絡める。
「力は離して。こっちは離さないから」
気吹が目を閉じた。
握った手に力がこもり、最後の光が胸を離れた。
轟音とともに水が逆巻く。気吹は瀬織を胸へ抱きこみ、その波から庇った。長い一瞬の後、音が遠のいた。
雪がやみ、庭の花弁から雫が落ちた。
「気吹?」
背を抱く腕が動いた。頬に、温かな息が触れる。
「いるよ」
瀬織は彼の胸へ額を押しつけた。
鼓動がする。速くて、不揃いで、愛しい音だった。
「ちゃんと、ここにいる」
気吹が何度も背を撫でた。
四宮から、互いを呼ぶ声が届く。泣きながら笑う娘たちの間で、青銅の輪が床に転がっていた。
「暦主を連れ出すことは許さぬ」
祭司長の声が響いた。
「その御方は、国のものだ」
気吹に支えられ、瀬織は立った。
「気吹は気吹のものです。国のものでも、神様のものでも、私のものでもない」
気吹へ向き直る。幼い日に見送ったときは、差し出せなかった手を伸ばした。気吹はその手を取り、指先へ口づけた。
「それでも、私と一緒に来る?」
「うん! 行く!」
引き寄せられた。頬へ添えられた手に、自分から顔を寄せる。重なった唇は温かく、離れかけると、今度は瀬織が気吹の襟を引いた。気吹が息の触れる近さで笑った。
「まだ、足が痛む?」
瀬織はフフッと笑って頷いた。気吹も笑う。抱き上げる腕へ、瀬織は身を預けた。
追おうとする祭司長の前に、冬宮の斎主と衛士が立った。
「まずは皆の手当てを。その後、お話を伺います」
もう、道を塞ぐ者はいなかった。
祭殿を出た二人の前で、庭の水が白く光った。
暗い水面の向こうへ、懐かしい光の道が開いた。
──此度は、巡りを閉ざさなかった
声が降った。
力を世界へ返した二人には、神へ戻る道が許されるという。向こうへ渡れば、もう老いることはない。互いを失う日も来ない。
「記憶は?」
瀬織が問うと、水面が揺れた。
──消しはせぬ。されど、幾千の春を経れば、人の一生は遠き夢となろう
この腕の温かさも、いつか遠い記憶になる。
瀬織は気吹を見上げた。自分だけで決めてはいけない。
「気吹は?」
「戻らない」
迷いのない声だった。
「明日も、目の前の瀬織に会いたい」
気吹は瀬織の足を気遣いながら、回廊の縁へそっと座らせた。その前に膝をつき、両手を取る。
「寒がれば衣を掛けたい。疲れたら抱いて、怒ったら理由を聞きたい。明日のおまえを、明日初めて知りたい」
「おばあさんになっても?」
「その頃は私もじいさんだ。おまえを抱き上げるために、丈夫でいないとな」
笑ったつもりが、涙がこぼれた。
「何でも一人でしてくれなくていいんだよ」
「では、できなくなったら手を貸して」
気吹が涙を拭った。
「私はここで、君と、瀬織と生きたい」
もう、返事を待つ子分ではなかった。
瀬織が両手を広げると、気吹は抱き上げた。
「私も、あなたと、気吹と生きたい。ここで」
白い道がほどけた。
光は庭の水へ降り、二人の足元を通って流れていく。
瀬織が愛しそうに首へ腕を回す。永遠を選ばなかった腕の中は、少しも寂しくはなかった。
大祭の後、四宮の斎主たちが輪と記録を調べ、職人と祭司は祭司長の指示を認めた。
輪は神力を集めるため、石は重し。包みが水路に詰まり、逆流したのは想定外だったという。
「では、濁りは?」
瀬織が問うと、その祭司は俯いた。
「私が、継ぎ目に仕込みました」
祭司の部屋には、竹炭の丸薬の残りと試験記録があった。異変を巫女の穢れに見せかけ、祭具を疑わせないための、祭司長の指示だった。
「初めて加わった私のせいにすれば、輪を隠せると思ったんですね」
返事はなかった。
水瀬の帳面に描かれた印は、村の祭具と一致した。試験続行を命じた返書も確認され、死の前に水瀬を訪ねた祭司が呼び出された。祭司は、苦しむ水瀬に試験を続けさせたと認めた。瀬織は斎主へ告げた。
「水瀬が務めを怠ったのではないと、家族にも、村にも伝えてください」
祭司長は職を解かれ、関わった者たちとともに裁きを受けることになった。
返書と迎えの者の証言により、村長たちも身代わりを頼んだと認めた。頭を下げる二人を、瀬織は黙って見ていた。
「すぐに許すとは、言えません」
声は震えなかった。
「水瀬の家にも、同じように話してください」
瀬織は、強いられた事情と国を救った功績により、処罰を免れた。話し終えた瀬織の手を、気吹がそっと包んだ。
春宮の新しい名簿へ、自分の名を書く。
水瀬の名は、亡くなった巫女として別の帳面へ残された。消してしまわなくてよかったと、思った。
「やっと、おまえの名で呼べる」
隣で気吹が微笑んだ。
「ずっと呼んでたじゃない」
「いや、大っぴらに、遠慮なく」
耳元へ顔が近づく。
「私の大切な人だと、紹介できる」
筆を落としかけた瀬織を見て、気吹は嬉しそうに笑った。瀬織も負けずに満面の笑みを返した。
連れ戻せたのだ。この笑顔を、明日のある場所へ。
