神様の恋煩い

 斎所の戸が開いたとき、迎えを期待した自分が悔しかった。立っていたのは、祭司長と衛士だった。

「春宮へ。おまえも神事に加われ」

「偽物じゃ、神事を汚さない?」

 祭司長は答えず、衛士へ顎をしゃくった。

「水瀬でなくても、力さえ取れればいいってわけ?」

 瀬織は立ち上がった。偽物と閉じこめておきながら、力が要れば連れ戻す。

「二十四人、揃っていればいい」

 瀬織は歩き出した。ここを出れば気吹のところへ行ける。

 回廊の灯に、雨に打たれる花が浮かんでいた。
 春宮の水殿では、五人の巫女が水盤の前に座っていた。

「今まで、どこに」

 隣の娘が言いかけ、背後の祭司を見て口を閉じた。
 残る一席へ押しやられ、瀬織も両手を水に浸す。底の青銅の輪には、雨水の輪や水瀬の帳面と同じ印があった。
 鐘が鳴った途端、指先から熱が抜けた。水面の光が細い水路へ流れ出す。隣の娘も肩を震わせた。

「これ、いつもの神事と違う」

「手を離さぬように」

 祭司の声に、娘は唇を噛んだ。

 春宮の六本の水路は、祭殿へ続いていた。回廊の向こう、気吹は白い衣の裾を水に沈め、中央の座にいた。

 流れを押し返そうとした光が、すぐに呑まれる。輪を止めるより先に、力が集まり始めてしまったのだ。集まる光が胸へ吸いこまれるたび、その顔から表情が消えていく。

 隣の娘が、小さく息を詰めた。瀬織は肩を寄せる。

「苦しくなったら言って。黙って耐えなくていいから」

 娘の目が、頼りなく揺れた。
 その向こうで、花弁とは違う白いものが舞った。

 雪だった。

 雨に交じった雪が、満開の枝を白く覆っていく。都の川の濁流を知らせる使者の声が、回廊を駆け抜けた。
 互いを救おうと巡りを堰き止め、花を凍らせた記憶が重なった。

 あのとき、差し出された手しか見ていなかった。
 今も、ここへ力を留めてはいけない。

「気吹」

 名を呼ぶと、遠い顔がこちらを向いた。
 唇が動く。瀬織、と呼ばれた気がした。

 次の瞬間、水盤の輪が砕けた。

 瀬織の両手から、冷たさが消える。代わりに、隣の娘が悲鳴を上げた。他の五つの水盤から流れる光が、急に太くなる。回廊の先でも、人が倒れる音がした。

「気吹、やめて!」

 神殿から白い光が伸び、瀬織を包んだ。引き戻そうとした衛士の手が弾かれる。光はそのまま回廊まで道を作った。

「こちらへ」

 気吹の声だった。瀬織は駆けた。祭殿の水へ踏み込むより早く、伸ばされた腕に抱き上げられる。

「冷えたね」

 膝に抱かれ、濡れた手を胸に包まれた。
 その胸の内は、焼けるほど熱い。

「もう、瀬織からは取らせない」

「他の人に負担が。私の分が、みんなに」

 気吹は答えない。濡れた髪を耳へかけ、頬を撫でる。
 瀬織の顔を覚え直すような、切実な指だった。

「君が誰だったか、わからなくなる」

 瀬織は息が詰まった。

「でも、傷つけたくない。それだけは、まだ」

 抱く腕に力がこもる。この腕の中に隠れてしまいたかった。彼だけを見て、他の声を聞かずに済むなら。
 けれど、巫女の悲鳴がまた響いた。

「私だけ助かっても嬉しくない!」

 瀬織は気吹の頬を両手できつく挟んだ。

「私が他の人を犠牲にして生きたら、あなたの手を喜んで握れると思う!?」

 気吹の目が揺れた。

「守ってくれるなら、その後の私も守ってよ!」

 頬を撫でていた指が止まった。
 瀬織はその手に、自分の手を重ねる。

「私も、助けたいの! 誰かを見捨てたことを、背負わせたりしたくないの!」

「……どうすればいい」

 初めて、気吹の目が瀬織の肩越しに巫女たちを捉えた。

 瀬織はその胸に掌を置いた。内側から巡る力がわかる。かつて自分が守っていた水と同じように、流れの継ぎ目が指先に触れた。ここへ自分の命を流しこめば、気吹を人の側へ繋ぎ止められるかもしれない。

 掌に力を込めかけたとき、手首を掴まれた。

「何をしようとした」

 その声だけは、はっきりとしていた。

「気吹を、戻せるかもしれない」

「君は?」

 気吹はその手を胸から離し、震える指に唇を押し当てた。

「それを私に残して、いなくならないでくれ」

 瀬織は息を呑んだ。助けた後の気吹がどう生きるかを、自分も考えていなかった。

「ごめん」

 額を寄せた。気吹が目を閉じる。その睫毛に、瀬織の涙が触れた。

「一緒に帰りたい」

「ああ」

「だから、一人で決めないで」

「瀬織も」

「気吹も」

 気吹の手が、瀬織の背を支え直した。
 今度は詰まりではなく、流れそのものを変えられないか。

 瀬織は足元の細い支流へ指を入れ、気を込めた。水が押し返される。その中の光も、指一本分だけ戻った。だがすぐ、祭殿の中央へ引き寄せられる。

「水だけ戻しても、輪が力を送り続けてしまう」

 輪を止め、集まった力の行き先を変える。気吹にも、手放してもらわなければ。

「気吹。この力、手放せる?」

「瀬織に預けるのは嫌だ」

「私にじゃない。本来、届けるはずだった土地へ返す」

 気吹は水面を見つめた。

「四宮を通せば国へ送れる。普段の神事と同じだ」

「なら、みんなの力も借りよう」

 瀬織は回廊へ声を張った。

「輪を外す支度をしてください! 四宮、合図を揃えて!」

「動くな!」

 祭司長の叱声に、巫女たちの肩が竦む。

「儀式を乱せば、国の巡りが絶えるぞ」

「今、集めすぎて乱れているんです!」

 瀬織は雪を被った花を指した。

「輪を一つだけ止めたら、残りの人へ負担が移った。だから全部、一度に外す。その後で暦主様が集めた力を返します」

 巫女たちの目が、祭司長と祭殿の間を行き来する。

「戻る力を一人で受け止めず、いつもの神事のように土地へ流してください。苦しい人は、隣の人に言って」

 瀬織は深々と頭を下げた。

「私一人ではできません。どうか、手を貸してください」

 春宮で、隣にいた娘が顔を上げた。

「どうやって、合わせればいいの?」

 震える手が、水盤の縁を掴んでいる。
 気吹が瀬織を抱いたまま、背筋を伸ばした。

「私が光を送る。輪が白く光ったら、全員で外してほしい。祭司たちは手を貸せ」

 祭司長が口を開きかける。

「責を問うなら後で私に問え。今はそこにいる者を助けろ」

 冷たい声の後で、気吹は小さく息を吐いた。胸の光が喉元まで迫り上がる。瀬織を見た目が、一瞬、行き先を失った。

「私も春宮へ戻る。空いた水盤から、戻る力を流す」

 気吹の袖を引くと、視線が戻った。
 名を呼ばれるより先に、瀬織はその手を握る。

「すぐそこにいるから」

「戻ってきて」

「すぐ戻る。全部終わったら、もう一度好きって言って」

「何度でも」

 触れるだけの口づけが落ちた。
 その唇は、まだ温かかった。

 瀬織が春宮の水盤に手を浸す。二十三人の巫女が、輪へ指をかけた。気吹の手が持ち上がる。

 四宮へ、白い光が走り始めた。