神様の恋煩い

 祭殿に並ぶ顔を見て、瀬織は足を止めた。

 村長と、水瀬の叔父だった。何度も頭を下げて送り出した二人が、今は目を合わせようとしない。

「この娘に相違ないか」

 村長が深く頭を下げた。

「はい。水瀬ではございません。瀬織という、身寄りのない娘です」

 居並ぶ祭司たちがざわめいた。

「水瀬は迎えが参る前に亡くなりました。この娘が、勝手に名を騙ったのでございます」

「私に頼んだのは、あんたたちでしょ!」

 声が思ったより冷たく響いた。

「水瀬の衣も荷も渡して、迎えの人に引き合わせた。私一人に罪を押しつけないと、約束したじゃない」

 村長は顔を伏せた。書付にしなかった自分が悔しい。

「では、迎えの人にも聞いてください。誰が私を水瀬だと紹介したのか」

「村の者が欺かれた経緯は、後ほど調べる。おまえが偽物であることは認めるのだな」

「水瀬ではありません。でも、迎えを出す前に死の知らせを受け、それでも同じ名の巫女を求めたのは、後宮でしょう」

 村長が顔を上げた。

「返書も祭具も残っています。私の身元と一緒に調べてください」

「偽りの巫女が口を挟むことではない」

「私を閉じ込めても、水瀬が死んだ理由は消えません」

 祭司長が衛士に命じた。

「連れていけ」

 腕を掴まれるより先に、白い袖が瀬織を覆った。

「触れるな」

 気吹が間に立ち、衛士の手が宙で止まった。

「初日から瀬織だと知っていて、後宮へ置いた」

 祭殿が静まり返った。

「この娘は、神託を偽ったのですぞ」

「承知している。知りながら留めた私の責任も、同じ場で問え。彼女だけを罰して済ませることは許さない」

 瀬織は、その袖を掴んだ。

「私の分まで背負わないでよ」

「私がしたことを話している。おまえ一人のせいにはしない。それに、私も無事でいる」

 気吹が瀬織の手を両手で包んだ。

「本当に?」

「ああ、だからおまえも、無茶はしないでくれ」

 祭司長が咳払いをした。

「身元を偽った者を、春宮へ戻すわけには参りません」

 気吹は手を離さず向き直った。

「ならば斎所の一室に。縄は不要だ。取り調べには私を呼べ。私のいないところで、この人に何かを認めさせるな」

 外衣を脱ぎ、瀬織の肩へ掛ける。襟元を合わせる指は、こんなときまで丁寧だった。

「寒ければ、すぐに言うんだよ」

 瀬織は頷いた。
 ここで泣けば、気吹はきっと約束を破ってしまう。

 斎所に閉じ込められ、瀬織は膝を抱えた。

 村長たちの嘘を崩しても、身代わりの罪は残る。だが、祭具の不正まで葬らせてはいけない。

 あの輪を、処分させてはいけない。

 夕餉を下げる女官と入れ替わりに、気吹が身を滑らせてきた。

「見張りは?」

「少し、席を外してもらった」

「暦主様がそんなことしていいの」

「瀬織に夕餉を食べさせるのも、いけないかな」

 気吹は小さな膳を置き、瀬織の冷えた指を温かな布で包んだ。強張っていた手がようやくほどけた。

「青銅の輪は?」

「封をして、私の御殿へ運ばせた。祭具庫の記録も写させている」

 瀬織は顔を上げた。

「おまえが何を心配するかくらい、わかる」

 ようやく息がつけた。気吹が匙を差し出した。

「今度は、私の心配を減らして」

「自分で食べられる」

「わかってる」

 わかっていて引っ込めない。一口だけ食べると、ひどく満足そうに笑う。その顔が悔しくて、瀬織は匙を取り上げた。

「村の人たちが、あんなふうに言うとは思わなかった」

「ああ」

「頼まれたって説明できても、偽物には違いないけど」

「ここで水瀬として過ごしたことは、調べを受けなければならない。けれど、おまえが誰なのかまで、あの人たちに決めさせなくていい」

 気吹の親指が、瀬織の口先をそっと撫でた。

「私は、おまえに会えて嬉しかった」

 胸の奥が痛くなる。

「一度も忘れたことがない。あの滝も、おまえが転んだ私に怒ったことも」

「だって、自分が怪我してるのに、私の履物ばかり拾おうとするから」

「おまえが裸足で帰るのは嫌だった」

 昔から変わらない。
 変わらないことが、今は苦しいほど愛しかった。

「二十四人も巫女がいるのに?」

「誰かを妻にしたいと思ったことはない」

 ためらいのない返事に、耳が火照る。

「おまえとまた会えたら何を話そうか、そればかり考えてた」

「私は会うのが怖かった」

 気吹の指が止まった。

「来る途中で、冷酷な暦主様だって聞いたの。気吹の優しいところがなくなってたら、どうしようって思った」

「なくなっていた方が、よかったかもしれないな」

「どうして?」

 気吹は目を伏せた。

「優しいままだから、瀬織を手放せない」

「それ、優しいから?」

「違うな」

 困ったように笑って、額を寄せてくる。

「おまえには、嫌な思いをしてほしくない。それなのに、ここから帰したくないんだ」

 吐息が触れるほど近い。

「好きだった。あの頃から、ずっと」

 瀬織は包まれていた手を返し、気吹の指を握った。

「私も、気吹の優しいところが好き。素直で、私の言うことをすぐ信じるところも」

「今も?」

「今は、少し困る」

 気吹の顔が曇る前に、その襟を引いた。

「昔より、ずっと好きだから」

 頬に手が添えられた。すぐには近づかず、気吹は瀬織の目を見た。瀬織が頷いて初めて、唇が重なった。

 温もりの向こうで、水の音が弾けた。

 白い空。雲を映す水面。
 人ではない姿の気吹が、崩れ落ちる瀬織を抱いていた。

 失われるはずの命を繋ぐため、彼は季節の巡りを堰き止めた。その身を裂く力を引き受けようと、瀬織は水の流れを逆さに辿った。

 二柱が互いを救おうとした向こうで、花は凍り、実りは腐り、地上の祈りが途絶えていく。

 ──己が恋のために、巡りを私した

 声が落ちた。
 神力を剥がされ、記憶を奪われる。最後まで伸ばした手が離れ、二人は別々に、人の世へ落ちていった。

 瀬織は息を呑んだ。背を支える気吹も、血の気を失っていた。

「今のを、おまえも?」

 頷きながら、瀬織は彼の胸に手を置いた。鼓動が速い。自分のものと同じだった。

 忘れていた記憶。
 神だった頃も、この人を好きだった。けれど今の恋は、昔の記憶を知らないまま、自分で選んだものだ。

「気吹。私……」

 夜の斎所に、鐘が鳴り響いた。気吹が戸を振り返る。

「まだ、大祭の日ではない」

「暦主様」

 戸の向こうに祭司長の声がした。

「大祭を早めました。四宮では、すでに巫女が水盤についております」

「触れさせるなと命じたはずだ」

「次の鐘で、力を集め始めます。暦主様がお受けにならねば、娘たちの力の行き場がございません」

 証拠を押さえられ、調べが進む前に、神にしてしまうつもりだ。瀬織は気吹の袖を握った。

「巫女たちを盾にするの?」

 戸が開き、祭司と衛士が並んだ。気吹は瀬織を背に隠したまま、祭司長を見据えた。

「鐘は私が着くまで鳴らすな」

 袖を掴む瀬織の手に、気吹の手が重なる。

「一人で終わらせないで」

 気吹は強く握り返した。

「戻る。約束する」

 離れていく温もりを、瀬織は追いかけた。その目の前で、戸が閉じられた。