誰が祭具を沈めたのか。わからなければ、瀬織は身元まで調べられかねない。しかも、気吹が命じていない祭具が暦主の命で用意されたという。
「祭具庫の記録を見せてください」
瀬織が頼むと、庫番は口を開きかけて固まった。その隣には気吹がいる。
「……お、恐れながら」
「誰が借りたか知りたいだけです」
男は気吹を見て、さらに深く頭を下げた。これで三人目だった。女官は震え、水路を清める下働きは平伏したまま動かない。聞きたいのは誰が出入りしたかであって、床に額をつける作法ではない。
瀬織は気吹の袖を引いて廊下の端へ寄り、囁く。
「気吹は部屋にいて」
「な、何? 私の後宮で、私が邪魔なのか」
「ええ。ものすごく邪魔」
「……そうか」
素直に頷かれると、少し言い過ぎた気がする。けれど気吹は、去る前に控えの女官を呼んだ。
「水瀬に記録を見せよ。閲覧は私が許した。答えた者を咎めることもない」
瀬織の手元に目を落とす。
「手の方は」
「もう平気です」
「その言葉は、医師に見せてから聞く」
「大げさです」
「大げさで済めば、それでいい」
水路へ突っ込んだ指には、細かな擦り傷が目立った。気吹は解けかけた包帯を結び直した。大きな手が、驚くほど丁寧に動く。
「昼餉までには戻れ。食べながらでも、話は聞ける」
「暦主様がいなくても、ちゃんと調べられます」
「そうだな」
結び目を確かめ、気吹は顔を上げた。
「だが、おまえが無理をして、また傷を増やすのは嫌だ」
瀬織は傷へ視線を落とした。
「……ありがとうございます」
「礼を言うほどのことではない」
「でも、嬉しゅうございました」
気吹は一瞬だけ目を見開き、それから表情を緩めた。
暦主が御殿へ戻ると、庫番はようやく帳面を開いた。水路から引き上げた祭具と照合すると、受取人は春宮の若い巫女だった。瀬織は帳面を借り、その足で少女を訪ねた。
「私、あんなことになるなんて」
祭具のことを尋ねただけで、少女は青ざめた。
「沈めたのは、あなた?」
「はい。でも、御水を乱すつもりではありませんでした」
祭司の一人に教えられたという。祭具を沈めれば神力を補える。暦主も認めている。他の巫女には知られぬようにと。
「誰に言われたの?」
「お名前までは。でも顔を見れば、わかります」
「借りた輪は、その祭司に渡したの?」
「はい。石と一緒に布で包んでくださいました。流されないためだと。それを、教えられた場所へ沈めたんです」
教えられた場所は、包みの発見地点と一致した。黒い筋が出た継ぎ目とは違う。
「ほかには何も入れていない?」
「はい。あの包みだけです」
神力の弱い少女は、次に失敗すれば後宮を追われるという。
「そんなこと、誰が勝手に」
「でも、私には。村では選ばれたことをみんな喜んでくれて、仕度も奮発してくれて。なのに、そんなとても」
膝の上で握られた手が震えている。ここを追われれば困るのは、瀬織も同じだ。大丈夫だという言葉に、すがりたくなる気持ちはわかる。
「私、どうなるんでしょう」
瀬織は大丈夫とは言えなかった。少女の隣に座ると震える手を握った。
「あなた一人がやったことにされるのは、おかしい。そこは、ちゃんと話そう」
少女を部屋に残し、瀬織は貸し出しの許可を確かめに祭殿へ向かった。報告を聞いた祭司たちは、すぐに少女を呼び出そうとした。
「理由はどうあれ、神事を損なった罪は重い。身柄を預かり、厳しく問いたださねば」
「その前に、これを見てください」
瀬織は帳面を開いた。
「彼女は盗んでいません。庫番に渡されています。巫女が頼めば、貸してもらえるんですか?」
「無論、許しがなければ渡さぬ」
「では誰が許したんですか?」
年嵩の祭司が口を閉じた。
「彼女は、暦主様の許しがあると祭司に言われたそうです」
「罰を逃れるための嘘では?」
「だから、誰の許しで貸し出したのか、庫番にも確かめたいんです」
祭司たちは目を交わした。
「入ったばかりの巫女が、我らの落ち度を探るのか」
祭司の一人が瀬織を見据えた。
「初めから仕組みを知っていたのではないか。村で何を学んだ。巫女に選ばれた経緯も確かめねば
瀬織の胸の奥が冷える。
「その帳面も預かろう。渡しなさい」
伸ばされた手を避け、瀬織は帳面を胸に抱えた。
「これは、調べが済むまで渡せません」
「何を言う。渡せ」
一歩また一歩と下がったとき、背後で衣擦れがした。
「確かめると言うなら、まず私に聞け」
気吹が立っていた。後ろには、先ほどの女官が控えている。祭司たちが頭を下げる。その間を通り、気吹は瀬織の隣へ来た。
「暦主様、私のせいで」
「いや、私の判断で来た」
短く答え、祭司たちへ向き直る。
「祭具の使用を、私は命じてなどいない。私の名を出した者がいると聞いたが」
「それも、この巫女の申すことに過ぎませぬ」
「では、庫番を呼べ。私が直接聞く」
「しかし、祭司の裁量にまで口を挟まれては」
「黙れ。私の名を使った件を、祭司の裁量とやらで片付けるつもりか」
声を荒げたわけではない。それでも、祭司は口をつぐんだ。
「記録はすべて預かる。祭具庫の封鎖も、調べが済むまで続けよ」
「お待ちください。水瀬自身にも疑わしい点がございます。まずは身元を改めてから」
「水瀬を疑うなら、その言葉を信じた私も疑え」
瀬織は思わず気吹を見上げた。
「水瀬の申し出を許したのは私だ。責を問うなら、私の判断も含めて申し立てよ」
祭司の厳しい目が気吹へ移った。気吹は動じなかった。
「祭具を沈めた巫女は、春宮の斎主に預ける。聞き取りにも立ち会わせ、指図した祭司の顔を確かめさせよ。調べもせず、罪を認めさせるようなことは許さぬ」
誰も応えない。
気吹は瀬織から帳面を受け取り、抱えた。
「これは私が預かる」
さっきまで帳面を奪おうとしていた手が、引っ込んだ。
「戻ろう。昼餉が冷める」
瀬織に向ける声だけが、いつもの気吹に戻っていた。祭殿を出て供の者から離れると、瀬織は気吹を見た。
「私の言うこと聞き過ぎ」
「聞くなと言ったり、聞けと言ったり、いったいどっちだ」
「ご自身でお考えを」
「考えた結果、おまえを守った」
「そういうところを心配してるの! です」
気吹が不思議そうに眉を寄せた。
「私まで疑えなんて、簡単に言わないでください」
黙った祭司たちも、不満はあるはずだ。自分を庇った気吹まで恨まれるかもしれない。
「助けてくださったのは、嬉しいのですが」
瀬織は声を落とした。
「気吹が困るのは、嫌なの」
気吹は足を止めた。
「私のことを案じているのか」
「そうだけど、悪い?」
「悪くない! むしろ、嬉しい」
返事が早すぎて、瀬織は言葉に詰まった。怒っているのに、そんな顔をされても困る。気吹は手を伸ばしかけ、ためらった。
「……触れてもいいか」
「それくらいなら……」
頬にかかった髪を、指がそっと払う。ほんの一瞬なのに胸が跳ねて、何を言うつもりだったかわからなくなった。
「では、困らぬよう調べよう。私も、名を勝手に使われたままでは困る」
気吹が顔を寄せ、瀬織の目を覗き込んだ。
「一緒にやってくれるか」
その頼み方は、ずるい。目の前で逃げ場がない。
「うん。一緒にやる」
「無理はするな」
「気吹もね」
「努力する」
「ダメ。約束して」
「約束する」
瀬織が頷くと、気吹もようやく歩き出した。
御殿で待っていた医師に手を診せ、昼餉を済ませると、二人は水殿に戻った。水路と祭具を改め、予行をやり直すと、御水は六つの水盤を滞りなく巡った。今度は、瀬織の神力を疑う声も上がらなかった。
御殿へ戻ると、祭具庫の古い帳面が届いていた。瀬織は同じ祭具が使われていないか、日付を遡った。やがて、見覚えのある村の名に指が止まる。
入宮前の候補巫女へ、試しの神事のために貸し出した記録。その脇に小さな追記があった。
『水守の村、水瀬より、祭具の用法につき照会』
「水瀬も、使ってたんだ」
気吹が身を寄せ、帳面を覗き込んだ。照会の日付は、水瀬が死ぬ数日前だった。
「返書は?」
「ここには記されていない。書状の控えを探させよう」
死ぬ数日前に、祭具について尋ねていた。瀬織は日付を見つめた。
「水瀬は、本当に急な病で死んだの?」
気吹はすぐには答えなかった。代わりに、帳面を押さえていた瀬織の手へ、自分の手を添えた。
「確かめよう」
包帯に触れないようにした指が、温かかった。
「おまえはもう、一人で背負うな」
瀬織は小さく頷いた。水瀬の死の理由が、この帳面の先にあるかもしれない。
「祭具庫の記録を見せてください」
瀬織が頼むと、庫番は口を開きかけて固まった。その隣には気吹がいる。
「……お、恐れながら」
「誰が借りたか知りたいだけです」
男は気吹を見て、さらに深く頭を下げた。これで三人目だった。女官は震え、水路を清める下働きは平伏したまま動かない。聞きたいのは誰が出入りしたかであって、床に額をつける作法ではない。
瀬織は気吹の袖を引いて廊下の端へ寄り、囁く。
「気吹は部屋にいて」
「な、何? 私の後宮で、私が邪魔なのか」
「ええ。ものすごく邪魔」
「……そうか」
素直に頷かれると、少し言い過ぎた気がする。けれど気吹は、去る前に控えの女官を呼んだ。
「水瀬に記録を見せよ。閲覧は私が許した。答えた者を咎めることもない」
瀬織の手元に目を落とす。
「手の方は」
「もう平気です」
「その言葉は、医師に見せてから聞く」
「大げさです」
「大げさで済めば、それでいい」
水路へ突っ込んだ指には、細かな擦り傷が目立った。気吹は解けかけた包帯を結び直した。大きな手が、驚くほど丁寧に動く。
「昼餉までには戻れ。食べながらでも、話は聞ける」
「暦主様がいなくても、ちゃんと調べられます」
「そうだな」
結び目を確かめ、気吹は顔を上げた。
「だが、おまえが無理をして、また傷を増やすのは嫌だ」
瀬織は傷へ視線を落とした。
「……ありがとうございます」
「礼を言うほどのことではない」
「でも、嬉しゅうございました」
気吹は一瞬だけ目を見開き、それから表情を緩めた。
暦主が御殿へ戻ると、庫番はようやく帳面を開いた。水路から引き上げた祭具と照合すると、受取人は春宮の若い巫女だった。瀬織は帳面を借り、その足で少女を訪ねた。
「私、あんなことになるなんて」
祭具のことを尋ねただけで、少女は青ざめた。
「沈めたのは、あなた?」
「はい。でも、御水を乱すつもりではありませんでした」
祭司の一人に教えられたという。祭具を沈めれば神力を補える。暦主も認めている。他の巫女には知られぬようにと。
「誰に言われたの?」
「お名前までは。でも顔を見れば、わかります」
「借りた輪は、その祭司に渡したの?」
「はい。石と一緒に布で包んでくださいました。流されないためだと。それを、教えられた場所へ沈めたんです」
教えられた場所は、包みの発見地点と一致した。黒い筋が出た継ぎ目とは違う。
「ほかには何も入れていない?」
「はい。あの包みだけです」
神力の弱い少女は、次に失敗すれば後宮を追われるという。
「そんなこと、誰が勝手に」
「でも、私には。村では選ばれたことをみんな喜んでくれて、仕度も奮発してくれて。なのに、そんなとても」
膝の上で握られた手が震えている。ここを追われれば困るのは、瀬織も同じだ。大丈夫だという言葉に、すがりたくなる気持ちはわかる。
「私、どうなるんでしょう」
瀬織は大丈夫とは言えなかった。少女の隣に座ると震える手を握った。
「あなた一人がやったことにされるのは、おかしい。そこは、ちゃんと話そう」
少女を部屋に残し、瀬織は貸し出しの許可を確かめに祭殿へ向かった。報告を聞いた祭司たちは、すぐに少女を呼び出そうとした。
「理由はどうあれ、神事を損なった罪は重い。身柄を預かり、厳しく問いたださねば」
「その前に、これを見てください」
瀬織は帳面を開いた。
「彼女は盗んでいません。庫番に渡されています。巫女が頼めば、貸してもらえるんですか?」
「無論、許しがなければ渡さぬ」
「では誰が許したんですか?」
年嵩の祭司が口を閉じた。
「彼女は、暦主様の許しがあると祭司に言われたそうです」
「罰を逃れるための嘘では?」
「だから、誰の許しで貸し出したのか、庫番にも確かめたいんです」
祭司たちは目を交わした。
「入ったばかりの巫女が、我らの落ち度を探るのか」
祭司の一人が瀬織を見据えた。
「初めから仕組みを知っていたのではないか。村で何を学んだ。巫女に選ばれた経緯も確かめねば
瀬織の胸の奥が冷える。
「その帳面も預かろう。渡しなさい」
伸ばされた手を避け、瀬織は帳面を胸に抱えた。
「これは、調べが済むまで渡せません」
「何を言う。渡せ」
一歩また一歩と下がったとき、背後で衣擦れがした。
「確かめると言うなら、まず私に聞け」
気吹が立っていた。後ろには、先ほどの女官が控えている。祭司たちが頭を下げる。その間を通り、気吹は瀬織の隣へ来た。
「暦主様、私のせいで」
「いや、私の判断で来た」
短く答え、祭司たちへ向き直る。
「祭具の使用を、私は命じてなどいない。私の名を出した者がいると聞いたが」
「それも、この巫女の申すことに過ぎませぬ」
「では、庫番を呼べ。私が直接聞く」
「しかし、祭司の裁量にまで口を挟まれては」
「黙れ。私の名を使った件を、祭司の裁量とやらで片付けるつもりか」
声を荒げたわけではない。それでも、祭司は口をつぐんだ。
「記録はすべて預かる。祭具庫の封鎖も、調べが済むまで続けよ」
「お待ちください。水瀬自身にも疑わしい点がございます。まずは身元を改めてから」
「水瀬を疑うなら、その言葉を信じた私も疑え」
瀬織は思わず気吹を見上げた。
「水瀬の申し出を許したのは私だ。責を問うなら、私の判断も含めて申し立てよ」
祭司の厳しい目が気吹へ移った。気吹は動じなかった。
「祭具を沈めた巫女は、春宮の斎主に預ける。聞き取りにも立ち会わせ、指図した祭司の顔を確かめさせよ。調べもせず、罪を認めさせるようなことは許さぬ」
誰も応えない。
気吹は瀬織から帳面を受け取り、抱えた。
「これは私が預かる」
さっきまで帳面を奪おうとしていた手が、引っ込んだ。
「戻ろう。昼餉が冷める」
瀬織に向ける声だけが、いつもの気吹に戻っていた。祭殿を出て供の者から離れると、瀬織は気吹を見た。
「私の言うこと聞き過ぎ」
「聞くなと言ったり、聞けと言ったり、いったいどっちだ」
「ご自身でお考えを」
「考えた結果、おまえを守った」
「そういうところを心配してるの! です」
気吹が不思議そうに眉を寄せた。
「私まで疑えなんて、簡単に言わないでください」
黙った祭司たちも、不満はあるはずだ。自分を庇った気吹まで恨まれるかもしれない。
「助けてくださったのは、嬉しいのですが」
瀬織は声を落とした。
「気吹が困るのは、嫌なの」
気吹は足を止めた。
「私のことを案じているのか」
「そうだけど、悪い?」
「悪くない! むしろ、嬉しい」
返事が早すぎて、瀬織は言葉に詰まった。怒っているのに、そんな顔をされても困る。気吹は手を伸ばしかけ、ためらった。
「……触れてもいいか」
「それくらいなら……」
頬にかかった髪を、指がそっと払う。ほんの一瞬なのに胸が跳ねて、何を言うつもりだったかわからなくなった。
「では、困らぬよう調べよう。私も、名を勝手に使われたままでは困る」
気吹が顔を寄せ、瀬織の目を覗き込んだ。
「一緒にやってくれるか」
その頼み方は、ずるい。目の前で逃げ場がない。
「うん。一緒にやる」
「無理はするな」
「気吹もね」
「努力する」
「ダメ。約束して」
「約束する」
瀬織が頷くと、気吹もようやく歩き出した。
御殿で待っていた医師に手を診せ、昼餉を済ませると、二人は水殿に戻った。水路と祭具を改め、予行をやり直すと、御水は六つの水盤を滞りなく巡った。今度は、瀬織の神力を疑う声も上がらなかった。
御殿へ戻ると、祭具庫の古い帳面が届いていた。瀬織は同じ祭具が使われていないか、日付を遡った。やがて、見覚えのある村の名に指が止まる。
入宮前の候補巫女へ、試しの神事のために貸し出した記録。その脇に小さな追記があった。
『水守の村、水瀬より、祭具の用法につき照会』
「水瀬も、使ってたんだ」
気吹が身を寄せ、帳面を覗き込んだ。照会の日付は、水瀬が死ぬ数日前だった。
「返書は?」
「ここには記されていない。書状の控えを探させよう」
死ぬ数日前に、祭具について尋ねていた。瀬織は日付を見つめた。
「水瀬は、本当に急な病で死んだの?」
気吹はすぐには答えなかった。代わりに、帳面を押さえていた瀬織の手へ、自分の手を添えた。
「確かめよう」
包帯に触れないようにした指が、温かかった。
「おまえはもう、一人で背負うな」
瀬織は小さく頷いた。水瀬の死の理由が、この帳面の先にあるかもしれない。
