神様の恋煩い

 神事の予行は中断された。水殿から祭殿の奥へ連れてこられた瀬織を待っていたのは、険しい顔の祭司たちだった。

「御水が乱れたのは、春宮の巫女の神力が足りなかったためではないのか」

 開口一番、年嵩の祭司が言った。
 作法も知らない自分を調べられれば、神力の有無より先に身代わりだと露見する。

 ──ヤバイ!!

 瀬織は顔色一つ変えず、祭司を見た。

「なるほど。私のせいかもしれない、と?」

「否定できまい」

「でしたら、先に水路を調べさせてください。その後で、もう一度同じ儀式を。私も選ばれし巫女ですから、神力を疑われるのはちょっと」

 祭司たちが顔を見合わせた。

「神の怒りを招いた者を、再び水殿へ立たせろと申すか」

「原因を確かめず、神の怒りだと決めつける方が不敬では?」

 祭司の眉が釣り上がる。その隣で、気吹がわずかに俯いた。よく見れば、肩が震えている。

 ──コイツ、笑っているな?

 助ける気があるのか、この暦主は。

「水瀬の言うとおりだ。原因を確かめる。調べが済むまで、処分は認めぬ」

 気吹が瀬織を伴い、祭殿を出た。

 御水は祭殿の背後にある泉から各宮の水殿へ引かれ、祭殿の大水盤へと通じている。春宮の六つの水盤をつなぐ水路には、水殿の外へ回って再び戻る部分があった。瀬織は、黒い筋が流れ出していた場所を外側から確かめに向かった。

 瀬織が裾をたくし上げると、背後から低い声が飛んだ。

「ダメだ! 危険だ」

「だから調べるんです」

「人を使えばいい」

「私の疑いを晴らすのに、他人を危険な目に遭わせるわけにはいきません」

「では、私が入る」

「何を言ってるんですか! あなたは国で一番、水路へ入れてはいけない人でしょう!」

 瀬織が一喝すると、気吹は一旦黙った。

「私なら大丈夫だ。おまえの方こそ」

「私は疑われている本人だから、仕方ありません」

「私にとっては、よくない」

 あまりに真顔で言われて、瀬織は言葉に詰まった。

 そのとき、祭殿から三度、鐘が鳴った。御水を鎮める封水の儀の合図だ。今、水門を閉じられれば、どこで流れが変わっているのか確かめられなくなる。

 瀬織は小声で囁いた。

「なら、そばにいて。まずはあれをなんとかして」

「最初からそのつもりだ」

 気吹は懐から暦主の印を取り出した。

「封水の儀は止める。私が許可するまで、すべての水門を開けておけ」

 神気を帯びた声が、祭殿の奥まで響く。

「しかし」

「責任は私が負う。我が名で命じる。従え」

 反論が消えた。祭殿は水の音ばかりになる。
 いつも自分の後ろをついてきた少年が、今は誰も逆らえない声で人を動かしている。瀬織は裸足になり、水路へ下りた。気吹もすぐそばへ下りてくる。

「見守っているだけで結構です」

「そばにいてほしいと聞こえた気がしたが」

 気吹は当然のように瀬織の前へ出た。水は足首より少し上まである。黒い筋が流れ出していた場所にも、今は濁りがない。瀬織はその場を覚えておき、水路を辿った。

「何がわかる?」

「水がどちらへ行きたがっているか、です」

「水に心があるのか」

「言葉のあやです。水は低い方へ流れます。それを押し戻す何かが、あったはずです」

 水路の両側から石が張り出し、足を進められない。その先の隙間に、布包みが挟まっていた。流れが阻まれ、その手前で水が渦を巻いている。

「ここか。水が堰き止められて、水位が上がったのか。上流まで押し戻されたんじゃない?」

 瀬織は張り出した石に手をつき、身をかがめて、その先へ腕を伸ばした。

「無理に取ろうとするな」

「もうちょっとで届くんです」

 指先が布に触れる。何か硬いものが包まれている。さらに腕を伸ばした瞬間、足の裏が滑った。

「きゃっ……!」

 気吹の腕が瀬織の腰を抱きとめ、水面へ落ちる前に軽々と抱き上げた。昔、秘密の滝壺で足を滑らせた瀬織へ、気吹が手を伸ばした。けれど、あのときは二人揃って水へ落ちた。

 今は違う。

 濡れた瀬織を抱く腕は逞しく、支える胸も広い。いつも自分の後をついてきた子分が、いつの間にこんな男になったのだろう。

「怪我はないか」

 瀬織は黙って頷いた。

「よかった」

「けど、あれを取らないと。下ろしてください」

「私が取ろう」

 気吹は水路の外へ瀬織を下ろそうとした。

「ダメです! 私の疑いを晴らすためなんです。お願いです」

「もういい。おまえの疑いは、私が晴らす」

 上流で水が大きく唸った。

 気吹は瀬織を足場のよい場所へ下ろし、背後に庇って片手を水面へ差し入れた。次の瞬間、布包みの手前で渦巻いていた水が、巨大な手に押さえつけられたように動きを止める。
 気吹はもう片方の手で布包みを掴み、石の隙間から引き抜いた。

 気吹が水を解放すると、流れは一斉に下流へ走った。瀬織は預かった布包みをしっかりと掴んだ。気吹は瀬織を抱き上げ、水流を左右へ割りながら縁へ寄り、低い石を足がかりに水路の外へと出た。

「ちょっと下ろしてください! 歩けますから!」

「静かにしろ」

 祭司たちの前へ戻ると、気吹は瀬織を下ろし、包みを受け取って掲げた。

「水路の異変は仕掛けによるものだ。春宮の巫女に責任はない」

 中から現れたのは、掌ほどの青銅の輪だった。重しの石と一緒に包まれている。

「誰かが意図的に沈めたようですね」

 祭具には、本来の文様に重ねて細い筋が刻み足されていた。

「神気を束ねる祭具だ。だが、この印は巫女が送り出す以上の力を、無理に吸い上げるよう変えられている」

「水路を塞いだだけじゃなかったのね」

 けれど、輪とは別の場所で出た黒い濁りは何だったのか。

「じゃあ、吸い上げた力は、どこへ行くの?」

 気吹は祭具に残る神気の痕跡を辿り、顔を強張らせた。

「私だ。神力が集まる先は、暦主になっている」

 巫女たちの神力を奪い、恩恵を受けるのは気吹だ。もし彼が仕掛けたのなら。だが、その顔には驚きが浮かび、次いで怒りが走った。

「祭具庫を封鎖しろ。出入りした者をすべて調べる」

 気吹の声が低く落ちる。

「私の巫女を狙った者だ。私が見逃すと思うな」

 私の巫女。

 制度上の呼び方にすぎないはずなのに、誰にも渡さないと宣言されたように響いた。瀬織は胸が痛んだ。ほんの一瞬でも、この人を疑った。

 ──気吹、ごめん

 祭具に触れた指先が、熱を持った。

 刹那、目の前の景色が消える。
 白く輝く空。
 天上を走る幾筋もの水路が音を立てて崩れ、瀑布となって落ちていく。

 瀬織はそこに立っていた。いや、自分によく似た誰かだった。荒れ狂う水から彼女を庇い、気吹が両腕を広げている。世界が壊れようとしているのに、彼は振り返らない。

 世界など捨ててもいい。おまえだけは失いたくない。声にならない言葉が、泣きそうな顔から伝わってきた。

「しっかりしろ!!」

 気吹の声に景色が砕けた。肩をつかむ手が震えていた。

「今のは、何?」

「わからない」

 答えながら、気吹は祭具から手を離した。わからないというには、その顔はあまりに多くを見ていた。

 瀬織もまた、何も言えなかった。ただ、肩に触れる気吹の手だけが、滅びかけた世界で自分を庇った手と同じ熱を持っていた。昔の子分の手ではない。国を背負い、神の怒りさえ素手で押さえ込んだ男の手だ。

 それでも、その熱だけはあの頃と変わらなかった。