翌朝、目を覚ました瀬織は、部屋を見回して首を傾げた。
寝台の脇には真新しい履物。棚には色とりどりの髪紐。鏡台には櫛や紅のほか、用途のわからない小さな壺。衣桁には、春の空を思わせる淡い水色の衣が掛けられている。
「ちょっと! これって何?」
水瀬の持ち物も上等だったが、それとも雲泥の差だった。朝餉を運んできた女官が、呼び止められて目を伏せる。
「暦主様より、水瀬様がお困りにならぬようにと」
朝餉には白い飯、澄まし汁、焼いた川魚、煮物、香の物。さらに果物まで添えられていた。
──たしかに、食い物の文句は言ったが
瀬織は、はたと考え込む。
「これって」
「暦主様からでございます」
「あの」
「暦主様からでございます」
「この壺は?」
「暦主様から」
「いや、何かって」
「そちらは手に塗る香油にございます」
蓋を開けると、花のような淡い良い香りが漂う。
「気吹のくせに」
瀬織が呟くと、女官がギョッとした。
「い、今、なんと?」
「えっ? いい気分って!」
──危ないところだった
ここでは瀬織は水瀬であり、気吹とは昨日初めて会ったことになっている。
それでも、気吹のやることは昔と変わらない。昔も、木の実がほしいと言えば木に登り、魚が食べたいと言えば川へ入った。
「偉くなっても、私の子分らしい」
女官は聞かなかったことにして、無言で頭を下げた。
朝餉を終えて部屋を出ると、廊下の先で春宮の巫女たちが話していた。
「雨水の神事は明後日でしょう。今から作法を覚えられるのかしら」
「村では、水を運ぶことしか教わらなかったのではなくて?」
瀬織にはよく聞こえた。水瀬らしく、俯いて通り過ぎよう。その際、年嵩の巫女と目が合った。思わず微笑む。
──よし! これでほぼ水瀬のはず
「何がおかしいのです?」
年嵩の巫女に問われ、瀬織は首を傾げた。内心、ため息が出る。
「皆様が神事を心配してくださっているようでしたので」
「心配しているのは、あなたのことではありません。神事が滞れば、春宮全体の責任になります」
「それなら、教えていただけますか?」
巫女たちは顔を見合わせた。
「その必要はない」
低い声が廊下に響いた。巫女たちの背筋が一斉に伸びる。
気吹が二人の従者を連れて歩いてきた。昨日、瀬織を見て固まっていた男とは思えない。表情は冷たく、眼差しにも隙がなかった。
ただ、瀬織へ向けられた視線だけがやわらかい。
「雨水の巫女への指導は、私が引き受ける」
「暦主様が、でございますか?」
「何か問題でも?」
「いいえ。ございません」
「ならば、下がれ」
巫女たちは慌てて道を空けた。
「水瀬。ついて来なさい」
命令口調なのに、待つ。瀬織の歩調に合わせゆっくり進む。それだけで、雨水の巫女への特別扱いは、春宮中に知れ渡った。
連れていかれたのは、春宮の水殿だった。
各宮の水路は受け持つ地方の河川を模し、その川から運んだ石で作られている。水殿はその上に建ち、床の石板は流れに沿って張られていた。
大小の石に縁取られた流れが、葉脈のように枝分かれしている。人が通れるほど広いところもあれば、腰ほどの石が張り出して狭まるところもある。
本流に沿う丸い水盤は差し渡し六尺ほどで、各々が支流の入口を意味した。
「ここで雨水の神事を行う」
従者たちを外へ控えさせ、二人きりになると、気吹の声から固さが抜けた。
「気吹が教えるの?」
「あの者たちに任せられると思うか。おまえは人を信用しすぎる」
「気吹は疑いすぎ」
言い返すと、気吹は黙った。昔から口では瀬織に勝てない。
「やっぱり、気吹は私の子分ね」
「子分ではない」
「じゃあ、教えてくれないの?」
「……教える」
不満そうに眉を寄せながらも、気吹は水盤の前に立った。
「まず、両手を水へ入れる。春の六節気のうち、水を動かす役目は雨水の巫女が担う。神気を水に乗せ、残る五つの水盤へ順に送り出すんだ」
「神気なんて、どうやって乗せるの」
「言葉で説明するのは難しい。手を」
瀬織が両手を差し出す。気吹は、すぐには触れなかった。
昔なら、こんなふうにためらうことはなかった。瀬織が転びそうになれば腕を掴み、川を渡るときには手を引いた。
けれど今は、瀬織も気吹の手が近づくだけで、胸の奥が妙に落ち着かない。
「どうしたの?」
「……何でもない」
「手を出せと言ったのは、気吹でしょ」
気吹がようやく手を伸ばした。指先が手首に触れ、やがて大きな掌が瀬織の両手を包む。
子供の頃より、ずっと大きい。
背後から伸びた腕が瀬織を囲み、衣越しに体温が伝わってくる。少し身じろぎすれば、背中が気吹の胸に触れてしまいそうだった。
「力を入れすぎるな」
耳のすぐそばで声がした。耳が熱を帯びてくる。瀬織は思わず肩を揺らした。
「近すぎ!」
「手を教えるには仕方がない」
「口で説明できないの?」
「難しいと言った」
瀬織が手を引こうとすると、気吹の指が反射的に押さえた。
ほんの一瞬だった。
それでも、逃さないように重なった指先の熱が、瀬織の胸を跳ねさせた。
「動かすな」
低い声が、わずかに掠れている。
水の中で二人の指先が重なる。
淡い光が生まれ、細い糸のように水へ溶けていく。上の水盤から一筋の水が流れ出し、乾いた石の溝を濡らしていく。
「できた!」
「ああ」
気吹の声は、ひどく優しかった。冷淡になったのではない。この男は、優しいままなのだ。ただ、暦主として大勢の前に立つため、それを見せなくなっただけなのだろう。
瀬織は慌てて手を引き抜いた。
「もうわかったから」
「一度でか?」
「私を誰だと思ってるの」
気吹は思わずクスッと笑った。半ば呆れた笑顔だった。
──やっぱり子分だ
そう思うのに、触れた手の温度がいつまでも消えなかった。
その日の午後、神事の予行が行われた。
春宮の六人の巫女が水殿へ集まり、それぞれの節気を表す水盤の前に立つ。瀬織は御水の起点となる、最も高い場所の雨水の水盤を任された。
春宮の斎主が開始を告げる。
瀬織は教わったとおり、水へ両手を入れた。水盤の表面が淡く光り、一筋の水が石の溝へ落ちる。水は緩やかに下り、二つ目の水盤を満たして、さらに次の水路へ入った。
ところが、三つ目の水盤へ注ぐ直前で流れが止まった。二つ目の水盤の水面が、不自然に盛り上がる。三つ目の水盤へ続く石の継ぎ目から、ゴボリと濁った音が響いた。次の瞬間、水が溢れ出した。
「逆流……?」
行き場を失った水が水路を満たし、二つ目の水盤へ押し戻されてくる。縁を越えた水が巫女たちの衣を濡らし、床へ広がった。
「神がお怒りになった!」
「雨水の巫女をお認めにならなかったのです!」
「その娘を水盤から離しなさい!」
祭司たちが瀬織へ近づく。その間へ気吹が立った。
「触れるな」
低い声が、水音と悲鳴を押しのけた。
「しかし暦主様、この異変は、その娘が雨水の巫女にふさわしくない証にございます!」
「まだ何もわからぬ。神意を勝手に決めるな」
気吹の周囲で空気が震えた。誰かが瀬織へ近づこうとするたび、気吹の視線が鋭くなる。
瀬織はその背後から、逆流する水を見た。二つ目までは正しく流れていた。押し戻されているのは、三つ目へ続く水路からだ。澄んでいた御水に、黒っぽい濁りも混じっている。自分の神力が足りないのなら、なぜ途中までは流れたのか。
確かめるなら、流れが変わった場所だ。
「暦主様、少し退いて下さい」
「危険だ」
「見えないんです!」
気吹は眉を寄せ、瀬織が衣を引くと渋々半歩だけ退いた。
瀬織は濡れた床へ膝をつき、三つ目の水盤へ続く水路を覗き込んだ。石の継ぎ目から、黒い筋が細く流れ出している。押し戻された御水が、それを上流へ運んでいた。
瀬織は立ち上がり、自分を疑う者たちを見回した。
「神罰と決めるのは、まだ早いです。御水は途中まで正しく流れていました。まず、流れが変わった場所を調べさせてください」
水殿にざわめきが走る。瀬織は逆流する御水を指した。
「神様が怒っているのかどうか、私が確かめます」
寝台の脇には真新しい履物。棚には色とりどりの髪紐。鏡台には櫛や紅のほか、用途のわからない小さな壺。衣桁には、春の空を思わせる淡い水色の衣が掛けられている。
「ちょっと! これって何?」
水瀬の持ち物も上等だったが、それとも雲泥の差だった。朝餉を運んできた女官が、呼び止められて目を伏せる。
「暦主様より、水瀬様がお困りにならぬようにと」
朝餉には白い飯、澄まし汁、焼いた川魚、煮物、香の物。さらに果物まで添えられていた。
──たしかに、食い物の文句は言ったが
瀬織は、はたと考え込む。
「これって」
「暦主様からでございます」
「あの」
「暦主様からでございます」
「この壺は?」
「暦主様から」
「いや、何かって」
「そちらは手に塗る香油にございます」
蓋を開けると、花のような淡い良い香りが漂う。
「気吹のくせに」
瀬織が呟くと、女官がギョッとした。
「い、今、なんと?」
「えっ? いい気分って!」
──危ないところだった
ここでは瀬織は水瀬であり、気吹とは昨日初めて会ったことになっている。
それでも、気吹のやることは昔と変わらない。昔も、木の実がほしいと言えば木に登り、魚が食べたいと言えば川へ入った。
「偉くなっても、私の子分らしい」
女官は聞かなかったことにして、無言で頭を下げた。
朝餉を終えて部屋を出ると、廊下の先で春宮の巫女たちが話していた。
「雨水の神事は明後日でしょう。今から作法を覚えられるのかしら」
「村では、水を運ぶことしか教わらなかったのではなくて?」
瀬織にはよく聞こえた。水瀬らしく、俯いて通り過ぎよう。その際、年嵩の巫女と目が合った。思わず微笑む。
──よし! これでほぼ水瀬のはず
「何がおかしいのです?」
年嵩の巫女に問われ、瀬織は首を傾げた。内心、ため息が出る。
「皆様が神事を心配してくださっているようでしたので」
「心配しているのは、あなたのことではありません。神事が滞れば、春宮全体の責任になります」
「それなら、教えていただけますか?」
巫女たちは顔を見合わせた。
「その必要はない」
低い声が廊下に響いた。巫女たちの背筋が一斉に伸びる。
気吹が二人の従者を連れて歩いてきた。昨日、瀬織を見て固まっていた男とは思えない。表情は冷たく、眼差しにも隙がなかった。
ただ、瀬織へ向けられた視線だけがやわらかい。
「雨水の巫女への指導は、私が引き受ける」
「暦主様が、でございますか?」
「何か問題でも?」
「いいえ。ございません」
「ならば、下がれ」
巫女たちは慌てて道を空けた。
「水瀬。ついて来なさい」
命令口調なのに、待つ。瀬織の歩調に合わせゆっくり進む。それだけで、雨水の巫女への特別扱いは、春宮中に知れ渡った。
連れていかれたのは、春宮の水殿だった。
各宮の水路は受け持つ地方の河川を模し、その川から運んだ石で作られている。水殿はその上に建ち、床の石板は流れに沿って張られていた。
大小の石に縁取られた流れが、葉脈のように枝分かれしている。人が通れるほど広いところもあれば、腰ほどの石が張り出して狭まるところもある。
本流に沿う丸い水盤は差し渡し六尺ほどで、各々が支流の入口を意味した。
「ここで雨水の神事を行う」
従者たちを外へ控えさせ、二人きりになると、気吹の声から固さが抜けた。
「気吹が教えるの?」
「あの者たちに任せられると思うか。おまえは人を信用しすぎる」
「気吹は疑いすぎ」
言い返すと、気吹は黙った。昔から口では瀬織に勝てない。
「やっぱり、気吹は私の子分ね」
「子分ではない」
「じゃあ、教えてくれないの?」
「……教える」
不満そうに眉を寄せながらも、気吹は水盤の前に立った。
「まず、両手を水へ入れる。春の六節気のうち、水を動かす役目は雨水の巫女が担う。神気を水に乗せ、残る五つの水盤へ順に送り出すんだ」
「神気なんて、どうやって乗せるの」
「言葉で説明するのは難しい。手を」
瀬織が両手を差し出す。気吹は、すぐには触れなかった。
昔なら、こんなふうにためらうことはなかった。瀬織が転びそうになれば腕を掴み、川を渡るときには手を引いた。
けれど今は、瀬織も気吹の手が近づくだけで、胸の奥が妙に落ち着かない。
「どうしたの?」
「……何でもない」
「手を出せと言ったのは、気吹でしょ」
気吹がようやく手を伸ばした。指先が手首に触れ、やがて大きな掌が瀬織の両手を包む。
子供の頃より、ずっと大きい。
背後から伸びた腕が瀬織を囲み、衣越しに体温が伝わってくる。少し身じろぎすれば、背中が気吹の胸に触れてしまいそうだった。
「力を入れすぎるな」
耳のすぐそばで声がした。耳が熱を帯びてくる。瀬織は思わず肩を揺らした。
「近すぎ!」
「手を教えるには仕方がない」
「口で説明できないの?」
「難しいと言った」
瀬織が手を引こうとすると、気吹の指が反射的に押さえた。
ほんの一瞬だった。
それでも、逃さないように重なった指先の熱が、瀬織の胸を跳ねさせた。
「動かすな」
低い声が、わずかに掠れている。
水の中で二人の指先が重なる。
淡い光が生まれ、細い糸のように水へ溶けていく。上の水盤から一筋の水が流れ出し、乾いた石の溝を濡らしていく。
「できた!」
「ああ」
気吹の声は、ひどく優しかった。冷淡になったのではない。この男は、優しいままなのだ。ただ、暦主として大勢の前に立つため、それを見せなくなっただけなのだろう。
瀬織は慌てて手を引き抜いた。
「もうわかったから」
「一度でか?」
「私を誰だと思ってるの」
気吹は思わずクスッと笑った。半ば呆れた笑顔だった。
──やっぱり子分だ
そう思うのに、触れた手の温度がいつまでも消えなかった。
その日の午後、神事の予行が行われた。
春宮の六人の巫女が水殿へ集まり、それぞれの節気を表す水盤の前に立つ。瀬織は御水の起点となる、最も高い場所の雨水の水盤を任された。
春宮の斎主が開始を告げる。
瀬織は教わったとおり、水へ両手を入れた。水盤の表面が淡く光り、一筋の水が石の溝へ落ちる。水は緩やかに下り、二つ目の水盤を満たして、さらに次の水路へ入った。
ところが、三つ目の水盤へ注ぐ直前で流れが止まった。二つ目の水盤の水面が、不自然に盛り上がる。三つ目の水盤へ続く石の継ぎ目から、ゴボリと濁った音が響いた。次の瞬間、水が溢れ出した。
「逆流……?」
行き場を失った水が水路を満たし、二つ目の水盤へ押し戻されてくる。縁を越えた水が巫女たちの衣を濡らし、床へ広がった。
「神がお怒りになった!」
「雨水の巫女をお認めにならなかったのです!」
「その娘を水盤から離しなさい!」
祭司たちが瀬織へ近づく。その間へ気吹が立った。
「触れるな」
低い声が、水音と悲鳴を押しのけた。
「しかし暦主様、この異変は、その娘が雨水の巫女にふさわしくない証にございます!」
「まだ何もわからぬ。神意を勝手に決めるな」
気吹の周囲で空気が震えた。誰かが瀬織へ近づこうとするたび、気吹の視線が鋭くなる。
瀬織はその背後から、逆流する水を見た。二つ目までは正しく流れていた。押し戻されているのは、三つ目へ続く水路からだ。澄んでいた御水に、黒っぽい濁りも混じっている。自分の神力が足りないのなら、なぜ途中までは流れたのか。
確かめるなら、流れが変わった場所だ。
「暦主様、少し退いて下さい」
「危険だ」
「見えないんです!」
気吹は眉を寄せ、瀬織が衣を引くと渋々半歩だけ退いた。
瀬織は濡れた床へ膝をつき、三つ目の水盤へ続く水路を覗き込んだ。石の継ぎ目から、黒い筋が細く流れ出している。押し戻された御水が、それを上流へ運んでいた。
瀬織は立ち上がり、自分を疑う者たちを見回した。
「神罰と決めるのは、まだ早いです。御水は途中まで正しく流れていました。まず、流れが変わった場所を調べさせてください」
水殿にざわめきが走る。瀬織は逆流する御水を指した。
「神様が怒っているのかどうか、私が確かめます」
