後宮は春夏秋冬の四宮に分かれ、各宮に六人、合計二十四人の巫女が置かれている。それぞれの宮には、巫女を束ねる斎主が一人いる。巫女たちは季節の節目に神事を行い、暦主を通じて国中の土地へ神気を巡らせる。
瀬織は水瀬として春宮へ入った。
水瀬は物静かで従順な娘だったと聞かされていた。
瀬織とは真反対である。話さなければ大人しく見えるかもしれない。瀬織にしては雑な方針を立てていた。
目は伏し目がちに、話しかけられるまで口は開かず。知らぬ間に、瀬織は後宮の作法を実践していた。
「ほう。水瀬とやらは田舎の出ではあるが品がある」
春宮の斎主は大きな勘違いをしたまま、瀬織に暦主との謁見の支度をさせた。瀬織は新たに入った巫女たちの最後尾について、謁見の間へ向かった。
現れた気吹には、少年の面影が残っていた。前髪から覗く眉間の傷痕も、昔のままだった。
新しい巫女たちは横一列に並ばされ一斉に頭を下げた。気吹の表情は冷たく、誰にも関心を示さない。
「新しく来た巫女は、受け持つ節気と名を告げなさい」
抑揚のない声に、やはり噂は本当だったのかと胸が痛んだ。瀬織の番が回ってきた。
「雨水の巫女、水瀬です」
張りのある、よく通る声で、瀬織は名乗った。
その瞬間、暦主が顔を上げた。立ち上がると、瀬織の前まで歩み寄った。顔をまじまじと見た途端、冷たい表情が一気に崩れた。
「瀬織!?」
謁見の間が静まり返る。
──声が大きい!!
とっさに負けじと声を張り上げる。
「水瀬でございます!!」
気吹は戸惑い、瀬織の前から動こうとしない。
「いや、しかし……」
「水瀬です!!」
「瀬織だろ?」
「お、お人違いでございます」
さすがの瀬織もこれはヤバいと顔を上げ、気吹を見据えてもう一度名乗った。
「雨水の巫女、水瀬です」
ニッコリ微笑む瀬織の眼には、気吹にしかわからない懐かしい圧があった。気吹は昔から、これに弱かった。
「そうか。よろしく頼む」
スゴスゴと瀬織の前から引き下がり、奥へ入っていこうとする気吹を、側近が慌てて呼び止めた。まだ新任の巫女たちとの拝謁は終わっていない。突然ボンクラに戻った暦主に、側近は頭を抱えた。
睨みつけると、一瞬怯えた子鹿のように揺れる瞳。
──やっぱり、気吹だ
瀬織は嬉しくなった。
その夜、瀬織は気吹から呼び出された。新入りの巫女への異例の呼び出しに、春宮は蜂の巣をつついたような騒ぎになり、噂は残る三宮にも広がった。
「まあまあ、なんということでしょう。絶対に粗相があってはなりませんよ」
瀬織は斎主に重々言い含められた。迎えの者が暦主の元へと連れていった。瀬織が部屋へ入るなり、気吹は人払いを命じ、自ら扉を閉めた。
気吹は瀬織ににじり寄った。
「本当に瀬織じゃないのか!?」
「しーっ! 今の私は水瀬なの!」
「瀬織はどこだ」
「目の前にいる」
「やっぱり瀬織じゃないか」
「声が大きい!」
「だって」
「わけがあるの!」
気吹は瀬織の腕を掴み引き寄せた。追及されると思い、瀬織は身構えた。
「何か酷いことをされたのか?」
「どうしてそうなるの」
瀬織は思わず吹き出した。胸の力が抜け、自分でも驚くほど安堵していた。気吹は瀬織を抱きしめると、なかなか離そうとしなかった。
「頼むから、危ない真似はしないでくれないか」
「わかったから。少し離してよ」
気吹は不満そうに眉を下げながらも、瀬織を抱く腕を緩めた。それでも、腰に回した片腕までは離そうとしない。
「これなら話せるだろ」
「ほとんど変わってないじゃない」
「離したら、また危ないことしそうだから」
「しないってば」
「今、目を逸らした」
「なによ。暦主になって余計なことまで覚えたようね」
「余計なことじゃない。私は瀬織一筋だから」
「何言ってんのよ。マセガキ!」
「もう少しだけ、こうしていたい。瀬織が本当にここにいるって、まだ信じられないんだ」
やたらといい男になっている上、耳元でそんなことを囁かれてはたまらない。低い声が背筋を甘く震わせ、瀬織の頬に熱が灯った。
「気吹、聞いてほしいことがあるの」
瀬織はここだけの話だと、今にも唇が触れそうな距離で声を潜めた。
「実は、私、水瀬の身代わりなの。水瀬はここへ来る直前、急病で死んだ」
「えっ!?」
「死の真相がわかるまで、私は水瀬でいたいの」
「ああ、わかった。その代わり、何かあったら絶対私を呼ぶと約束しろ!」
瀬織の腰に回した気吹の腕に力が入る。
「わかった。わかったから!」
気吹は嬉しそうにニッコリ笑った。その笑顔の破壊力は、子供の頃の数倍に増していた。
──至近距離で見るものではないな
瀬織は平静を装い、懐の巾着から水晶の耳飾りを出した。
「ところで、コレを水瀬は持っていた。見覚えない?」
「水守の巫女選びの水晶だ」
「コレが?」
「候補の娘が順に掌へ載せ、選ばれた一人の手からだけ水を生む。昔からの決まりだ」
「そうなの。私は触れてないけど」
「じゃあ、載せてみて」
瀬織は言われた通り、水晶を掌へ載せた。すると涙のような雫が、一粒、また一粒と生まれた。
「水晶が選んだのは瀬織だ。水瀬が選ばれたという話と食い違うな」
瀬織は袋の底から折り畳んだ紙を取り出し、気吹へ渡した。
「水瀬が残したもの」
『選ばれたのは、私ではない』
気吹の表情から、先ほどまでの浮かれた色が消えた。
「水瀬は、自分の手から水が出なかったことを知っていたんだ」
「そうね。それなのに、村は水瀬が選ばれたことにした。そして、水瀬はコレを預けた翌日に死んだ」
「急な病だと言っていたな」
「私は、病名すら聞かされてないの」
気吹は紙を見つめ、しばらく黙り込んだ。
「村へ人を遣わす。水晶に触れた娘たちと、選定に立ち会った者、それから水瀬が死ぬ前に会った者を調べさせる」
「村長たちは口裏を合わせるはず」
「なら、別々に事情を語らせる。今夜中に出立させよう」
「さすが、暦主。話が早い!」
「ただし、瀬織は勝手に動かないこと!」
「えーっ!? どうしてよ」
「水瀬が殺されたのなら、身代わりになった瀬織も狙われるかもしれないだろ」
「仕方ないか。しばらくおとなしくする」
「瀬織の言う『おとなしくする』ほど、信用できない言葉はないな」
気吹は瀬織をもう一度ギュッと抱きしめ、その頬に口づけた。
その瞬間、まるで稲妻に打たれたように二人の身体が震えた。脳裏に見知らぬ光景が閃く。
瀬織と気吹は顔を見合わせた。
「今の……」
「ああ……」
いつか、どこかで犯した、取り返しのつかない失敗。二人は呆然と立ち尽くした。
瀬織は水瀬として春宮へ入った。
水瀬は物静かで従順な娘だったと聞かされていた。
瀬織とは真反対である。話さなければ大人しく見えるかもしれない。瀬織にしては雑な方針を立てていた。
目は伏し目がちに、話しかけられるまで口は開かず。知らぬ間に、瀬織は後宮の作法を実践していた。
「ほう。水瀬とやらは田舎の出ではあるが品がある」
春宮の斎主は大きな勘違いをしたまま、瀬織に暦主との謁見の支度をさせた。瀬織は新たに入った巫女たちの最後尾について、謁見の間へ向かった。
現れた気吹には、少年の面影が残っていた。前髪から覗く眉間の傷痕も、昔のままだった。
新しい巫女たちは横一列に並ばされ一斉に頭を下げた。気吹の表情は冷たく、誰にも関心を示さない。
「新しく来た巫女は、受け持つ節気と名を告げなさい」
抑揚のない声に、やはり噂は本当だったのかと胸が痛んだ。瀬織の番が回ってきた。
「雨水の巫女、水瀬です」
張りのある、よく通る声で、瀬織は名乗った。
その瞬間、暦主が顔を上げた。立ち上がると、瀬織の前まで歩み寄った。顔をまじまじと見た途端、冷たい表情が一気に崩れた。
「瀬織!?」
謁見の間が静まり返る。
──声が大きい!!
とっさに負けじと声を張り上げる。
「水瀬でございます!!」
気吹は戸惑い、瀬織の前から動こうとしない。
「いや、しかし……」
「水瀬です!!」
「瀬織だろ?」
「お、お人違いでございます」
さすがの瀬織もこれはヤバいと顔を上げ、気吹を見据えてもう一度名乗った。
「雨水の巫女、水瀬です」
ニッコリ微笑む瀬織の眼には、気吹にしかわからない懐かしい圧があった。気吹は昔から、これに弱かった。
「そうか。よろしく頼む」
スゴスゴと瀬織の前から引き下がり、奥へ入っていこうとする気吹を、側近が慌てて呼び止めた。まだ新任の巫女たちとの拝謁は終わっていない。突然ボンクラに戻った暦主に、側近は頭を抱えた。
睨みつけると、一瞬怯えた子鹿のように揺れる瞳。
──やっぱり、気吹だ
瀬織は嬉しくなった。
その夜、瀬織は気吹から呼び出された。新入りの巫女への異例の呼び出しに、春宮は蜂の巣をつついたような騒ぎになり、噂は残る三宮にも広がった。
「まあまあ、なんということでしょう。絶対に粗相があってはなりませんよ」
瀬織は斎主に重々言い含められた。迎えの者が暦主の元へと連れていった。瀬織が部屋へ入るなり、気吹は人払いを命じ、自ら扉を閉めた。
気吹は瀬織ににじり寄った。
「本当に瀬織じゃないのか!?」
「しーっ! 今の私は水瀬なの!」
「瀬織はどこだ」
「目の前にいる」
「やっぱり瀬織じゃないか」
「声が大きい!」
「だって」
「わけがあるの!」
気吹は瀬織の腕を掴み引き寄せた。追及されると思い、瀬織は身構えた。
「何か酷いことをされたのか?」
「どうしてそうなるの」
瀬織は思わず吹き出した。胸の力が抜け、自分でも驚くほど安堵していた。気吹は瀬織を抱きしめると、なかなか離そうとしなかった。
「頼むから、危ない真似はしないでくれないか」
「わかったから。少し離してよ」
気吹は不満そうに眉を下げながらも、瀬織を抱く腕を緩めた。それでも、腰に回した片腕までは離そうとしない。
「これなら話せるだろ」
「ほとんど変わってないじゃない」
「離したら、また危ないことしそうだから」
「しないってば」
「今、目を逸らした」
「なによ。暦主になって余計なことまで覚えたようね」
「余計なことじゃない。私は瀬織一筋だから」
「何言ってんのよ。マセガキ!」
「もう少しだけ、こうしていたい。瀬織が本当にここにいるって、まだ信じられないんだ」
やたらといい男になっている上、耳元でそんなことを囁かれてはたまらない。低い声が背筋を甘く震わせ、瀬織の頬に熱が灯った。
「気吹、聞いてほしいことがあるの」
瀬織はここだけの話だと、今にも唇が触れそうな距離で声を潜めた。
「実は、私、水瀬の身代わりなの。水瀬はここへ来る直前、急病で死んだ」
「えっ!?」
「死の真相がわかるまで、私は水瀬でいたいの」
「ああ、わかった。その代わり、何かあったら絶対私を呼ぶと約束しろ!」
瀬織の腰に回した気吹の腕に力が入る。
「わかった。わかったから!」
気吹は嬉しそうにニッコリ笑った。その笑顔の破壊力は、子供の頃の数倍に増していた。
──至近距離で見るものではないな
瀬織は平静を装い、懐の巾着から水晶の耳飾りを出した。
「ところで、コレを水瀬は持っていた。見覚えない?」
「水守の巫女選びの水晶だ」
「コレが?」
「候補の娘が順に掌へ載せ、選ばれた一人の手からだけ水を生む。昔からの決まりだ」
「そうなの。私は触れてないけど」
「じゃあ、載せてみて」
瀬織は言われた通り、水晶を掌へ載せた。すると涙のような雫が、一粒、また一粒と生まれた。
「水晶が選んだのは瀬織だ。水瀬が選ばれたという話と食い違うな」
瀬織は袋の底から折り畳んだ紙を取り出し、気吹へ渡した。
「水瀬が残したもの」
『選ばれたのは、私ではない』
気吹の表情から、先ほどまでの浮かれた色が消えた。
「水瀬は、自分の手から水が出なかったことを知っていたんだ」
「そうね。それなのに、村は水瀬が選ばれたことにした。そして、水瀬はコレを預けた翌日に死んだ」
「急な病だと言っていたな」
「私は、病名すら聞かされてないの」
気吹は紙を見つめ、しばらく黙り込んだ。
「村へ人を遣わす。水晶に触れた娘たちと、選定に立ち会った者、それから水瀬が死ぬ前に会った者を調べさせる」
「村長たちは口裏を合わせるはず」
「なら、別々に事情を語らせる。今夜中に出立させよう」
「さすが、暦主。話が早い!」
「ただし、瀬織は勝手に動かないこと!」
「えーっ!? どうしてよ」
「水瀬が殺されたのなら、身代わりになった瀬織も狙われるかもしれないだろ」
「仕方ないか。しばらくおとなしくする」
「瀬織の言う『おとなしくする』ほど、信用できない言葉はないな」
気吹は瀬織をもう一度ギュッと抱きしめ、その頬に口づけた。
その瞬間、まるで稲妻に打たれたように二人の身体が震えた。脳裏に見知らぬ光景が閃く。
瀬織と気吹は顔を見合わせた。
「今の……」
「ああ……」
いつか、どこかで犯した、取り返しのつかない失敗。二人は呆然と立ち尽くした。
