神様の恋煩い

 朝餉の膳は、今朝も二人分あった。

「……本当に毎朝、来るつもり?」

「ああ。お泊まりしていいなら、そうしたい」

「へっ……!?」

 向かいの気吹は、涼しい顔で瀬織の世話を焼く。
 瀬織一人が真っ赤になって立ち上がった。

「顔を洗っておいで。まだ、温かいから」

「起きたばかりの顔、そんなに見ないで」

「じゃあ、戻ってからならいい?」

 そういうことではない。言い返そうとして欠伸が出た。気吹が笑う。暦主がこんな顔で笑うとは、噂を聞いていた自分に教えてもきっと信じない。

 後宮は、人を神へ捧げる場所ではなくなった。
 二十四人の巫女は、各地の水や作物の異変を集め、四宮で確かめ、偏りがあれば力を巡らせる。気吹も人の暦主として、残された神力を皆と少しずつ送った。
 新たな神事の翌朝、川の水位が戻り、麦畑の霜が解けたとの書状に、夏宮の娘は泣いた。帰郷して休んだら、また戻りたいという。

「無理しないで! 気吹と二人で会いに行くよ!」

 瀬織が言うと、娘は初めて声を上げて笑った。

 新しい仕組みが動き始め、二人も帰郷の休みを取れた。
 水瀬の墓へ花を添え、二人は山道へ入った。瀬織の足はすっかり治っている。それでも後ろをついて歩く影がある。

「暦主様なんだから、たまには先を歩きなさいよ」

「いや、おまえはどこへ行くかわからないから」

「もう子供じゃないし!」

「ダメ。今の方が、大胆になってる」

 神様を奪い返しに行ったばかりでは、言い返せない。

 枝をくぐると、小さな滝が見えた。
 昔は二人しか辿り着けなかった場所。今は神の気配も薄れ、道の向こうに村人が薪を拾った跡がある。

 少し惜しい気もするが、まあいい。
 清水を誰かと分けても、二人の思い出は減らない。

 瀬織が岩へ腰を下ろそうとすると、気吹がサッと敷物を広げた。包みから菓子と水筒が出てくる、完璧だ。

「やけに用意がいい」

「もうずっと待ってたから、この日を。ほら、葉が」

 背を向けると櫛まで出してきて、指が丁寧に髪を梳いた。
 淡い水色の髪紐が結ばれ、耳の後ろに唇が触れる。

「それって必要?」

「もちろん。私には」

 振り返る前に、後ろから抱きしめられた。
 瀬織は赤くなった顔を隠すように、その腕へ頬を寄せた。

「私の後ろばかり、ついてこなくていいのに」

「そんなつもりはない」

 気吹は隣へ座り直した。

「おまえと同じ所へ行き、同じ物が見たい。私が先に行きたい所へ、おまえも来てくれるか」

「どこ?」

 気吹は瀬織の手を取り、両手で包んだ。

「同じ家へ。朝も夜も、おまえの元へ帰りたい」

 水音だけが響いた。

「瀬織。私の妻になってくれる?」

 何か言おうとして、声が出なかった。気吹は返事を急かさず、けれど目は逸らさなかった。
 包んでいる手の指に、少しだけ力が入る。手が熱い。

 ──ああ、気吹も緊張してるのね

 瀬織は手を握り返した。

「朝餉、毎日二人分ね」

「もちろん」

「勝手なことしないでね」

「お互いにな」

 二人は顔を見合わせると、やっと笑えた。

「私を、お嫁さんにしてください」

 気吹の顔がくしゃりとほころんだ。

 抱き寄せられ、何度も口づけられる。嬉しくて笑うたび、その笑いごと唇で受け止められた。

「待って! 菓子が潰れる!」

 気吹が慌てて包みを避ける、今度は瀬織がその頬へ口づける。

「大好き」

 気吹は返事の代わりにもう一度抱きしめてから、耳元で、好きだよ、と囁いた。
 神殿で交わした約束のとおり、何度でも。

「今生を、最高の恋で締めよう」

 額を合わせた気吹へ、瀬織は目を細めた。

「その言い方だと、また来世で会うつもりでしょ!」

「会いたくない?」

「イジワルね。会いたいに決まってるでしょ!」

 瀬織は腕を上げ、気吹の胸へ軽く振り下ろす。

「次こそ、私を置いていかないで!」

「約束する。今生も、まだ離すつもりないけどね」

 帰るときは、二人で並んで歩いた。
 繋いだ手の下を清水が流れていく。

 村へ、田畑へ、遠い川へ。
 二人のいる春も、その先の季節も、同じ水が潤していく。