「……なんだよあんた、その服」
検事の出で立ちを一瞥した鈴元の言葉は、至極まっとうなものだった。本日の検事のエキセントリックな格好には、さしもの悪でさえ、常識的な非難の一つも浴びせたくなるようだ。
「この前はスーツだったよな?」
鈴元は眉根を寄せる。
「姉の赤ん坊にゲロを吐かれた」
検事は、さも残念だ、という顔をする。検事の姪は中学生だったはずだが。
「アルマーニのスーツに、だ」
むろん、アルマーニでもない。検事の言葉は、少なめに見積もっても、八割はでたらめだ。 腑に落ちなかったので、くちばしを挟んでみる。
「さっきは、トイレに流したと伺いましたが」
「ゲロを吐かれたから、トイレに流したんだ」
ああ、そうですか。こんな奴が人を裁くなんて、と心底からこの国の制度を嘆いた。
「変な検事だな、アンタ」
鈴元が唾を吐き捨てるように言う。君こそ神の代弁者だ、とオレは心中で喝采した。
「検事、始めますよ」無駄口の多い検事を急かす。「駄弁りの時間じゃないんです」
検事は面倒くさそうにこちらを見遣ると、「最近、殊にカリカリしてるんだ」とオレを指差し、チンピラに語りかける。
「女にフラれたらしい」
「け、検事!」 思わず腰を浮かしかけた。この野郎、張り倒されたいのか。
「へえ、あんた、美人なのにな」鈴元はこちらに視線を投げ、呟く。「仕事も出来そうだし」
なんだ、こいつ、いい子じゃないか!
「俺はどうだ?」
検事は椅子の背もたれに身を預け、胸を張る。
「いかにも高給取りに見えるだろう」
「全然」鈴元は眉をひしゃげさせる。「スーツのときは、まあ、ある程度はそう見えたけどな」
「やはりこの服じゃ駄目か」
「あたりめーだろ、アホか、あんた」
そりゃニートの格好だ、と鈴元は笑う。すると彼の頬にエクボが浮かんだ。意外にも愛嬌のある笑い方をする男だ。
「そういえば、事件当日は、被害者の佐藤氏は何を着ていた?」
検事が机に頬杖をつく。
「たしか佐藤氏は会社員で、事件が起きたのは平日の昼間だったな」
「ええ」オレは調書を確認し、顎を引く。
鈴元は少し考えるように目を泳がせた後、「スーツだった」と言った。
「どんな色の?」検事は続ける。
「そんなことまで覚えてねーよ」
可愛らしかった笑顔を引っ込め、怒気を孕んだような表情になる。
「とにかくスーツだった」
「違う」
被疑者の目をじっと見つめる検事は、断固たる口調だった。
「お前は今、推理したんだ。平日の昼間なら、会社員はふつうスーツを着ている。だからスーツだと答えた」
「す、推理じゃねえよ、見たんだ」
被疑者の動揺は明らかなものだった。
「今日の俺の格好、」検事は服装を披露するように、腕を広げる。「事件当時、佐藤氏は、これとまったく同じ格好をしていた。その日は、有給を取っていたんだ。次の日から旅行に行く予定だったらしい。だからATMで金をおろした」
え? とオレは耳を疑い、調書を慌しくめくった。そんなこと、どこにも書いていない。この野郎、勝手に捜査に行きやがったな。
「ま、間違えただけだよ!」
被疑者の弁解は、誰がどう聞いても、むなしいだけだった。
「服装なんて、どうだっていいだろ」
「お前は、見ていないんだ」
「え?」はてなマークを浮かべたのは、オレだ。
「佐藤氏を標的にした理由が曖味だったのも、そのせいだ」
「違う!」
鈴元は駄々をこねる子どものようだった。オレはといえば、固唾を呑んで検事の言葉をただ、待った。
「お前は犯人じゃない」
犯人はお前の弟だ、とまで検事は言った。
オレは調書に目を落とす。こんなに役に立たない調書など燃やしてしまえ、と思った。
***
被疑者の弟、鈴元誠二(せいじ)は、地区の空手大会で優勝経験があるなど、武道に長じた、体格の良い男であったらしい。また、来春には医学部への進学が決まっており、いわゆる文武両道のタイプだったようだ。
「遊ぶ金が欲しくてバッグを奪ったって……あいつ、馬鹿なこ と……」
兄である彼は、はじめは頑なに「俺がやった」と言い張っていた。しかし、ついぞ折れる気になったらしい。見抜かれているとわかった嘘は、そう簡単につき続けられるものではない。
「でもあいつは医者になるんだ。俺みたいな出来のわりぃのと違って、あいつは優秀なんだ」
それに俺のせいでもあるんだよ、と鈴元健太は必死に弟を庇った。
「俺がこんなだからよ、きっと俺に似ちまったんだ。だから俺のせいなんだよ」
彼は膝の上で拳を握り、検事のほうに、哀願に近い顔を向けた。誰かに物事を懸命に頼み込むなど、「ひとかどの不良」にとっては最も恥ずべき行為なのではないか。
「頼むよ、なあ」
彼は、不良の顔ではなく、立派な<兄>の顔だった。
「俺を逮捕してくれよ」
あいつは医者になるんだ。彼は懇請するように続ける。
「あいつはなんにも悪くないんだ」言うと、現時点での被疑者は、深く頭を垂れた。「検事さん、頼むよ……」
検事は何も言わず、軽く目を伏せただけだった。法そのものを悲嘆するような、悲しげな横顔に見えた。
オレにも一人、弟がいる。同じ弟を持つ身として、つい目がしらが熱くなった。
いい男じゃないか、鈴元健太。 オレたちの立場上、彼の願いは叶えてあげられないけれど。
今日は珍しく定時であがれそうだった。
検事が突拍子も無い行動さえ起こさなければ、定時であがることも、そう遠い夢ではない。
鈴元健太のおかげで、なんだか久しぶりに、弟に会いたくなった。今晩飲みにでも誘おうか、などと考えながら、「では、お先に失礼します」検事に声をかけ、席を立とうとす る。
「待て」
背後から呼び止められた。残業を命じられるのか、とオレは耳を塞ぎたくなる。
「まだ聞いていないぞ」
飛んできたのは、残業よりも鬱陶しい話題だった。
「いい加減、諦めてくださいよ」
検事の言わんとすることはわかる。どうせまた、失恋相手のことだろう。そんなに人の失恋を弄ぶのが愉快なのか。
「いや、諦めん」
「もう帰りたいんです」
身体がアルコールを欲している。酒は、イライラに効く特効薬だ。
「言うまで帰らせない」
「あなたのような人が人間を裁くなんて」
「おいおい、司法試験にケチをつけるな」
検事は大げさに肩をすくめる。憎たらしいったらありゃしない。
検事の机には、ノーブルな革張りの、黒い手帳がある。検事がどこへ行くにも、普段必ず持ち歩く手帳だ。携帯に適した小さめのサイズだが、そのサイズにはとても相応しくないほどの、膨大な情報があの手帳には詰まっている。
「俺が知らない事実がこの世にあるなんて、許せないんだ」
検事の淀みない弁舌は、定時を過ぎてもまったく濁らない。
「美人だろ? 君は面食いそうだからな。顔にすぐ騙されるタイプだ」
ああもう、本当にうるせえやつだな。
「検事のその大事な手帳に、書いてあるんじゃないですか」
早く帰りたいし、イライラもピークだし、もうどうにでもなれ、とオレは自棄をおこした。
「あんたは勉強については天才ですけど、人の心にいたっては、あの被疑者以下です」
ふん、とオレは踵を返し部屋を出た。「あんた」なんて、ひどく礼を失した言葉遣いになってしまったが、もうどうでもいい。
もう知らねえよ、あんなやつ。くたばっちまえ。
バタン、とわざと大きな音を立てて扉を閉めた。
***
バタン、とわざとらしい大きな音を立てて、扉が閉まる。
まったく頑固なやつだな、と頭を掻く。手帳に書いてあるんじゃないですか、だと? あいつの意中の人間の名前など、書き記した覚えはない。体よく逃げたな、と俺は扉のほうを睨んだ。
まあいい、明日また問い詰めてやろう。そう思案しながら、明日のスケジュールを確認しようと、手帳を開いた。
明日は何日だったか――カレンダー状になっているページのマス目に何気なく日を落とし、そのまま、硬直した。
今日から二日前のマスに、こうある。 「佐伯蓮(さえきれん)事務官と食事」。
それは、アルマゲドンを見たなどと弄して蓮がひどく目を腫らした、その日にあたる。
自分の唇を噛むようにして、舐めた。窮地に追い込まれた時の癖だ。
蓮は口を滑らせて、「食事の約束をすっぽかされた」と言っていた。しかも、好きな人に。
――俺、だと?
これはさすがに、想定外、だった。
執務机に肘を付き、伸びかけの髪をくしゃりと押さえた。頭を抱えるなど、何年ぶりのことだろうか。幼少の時分に耳にした、ノストラダムスの大予言以来かもしれない。
『失恋だったら、なんですか?』
気の強い彼の口ぶりを思い出す。
『松波検事に関係ありますか?』
「……大アリじゃないか」
二日前の夜、俺は何をしていた? それすら思い出せない。
しかし少なくとも、あんな雁の腹の瞼にさせるまで、彼を泣かせてしまったことは確からしい。
約束など完全に、忘れていた。
無論、悪意などまったくない。こういう人間なのだ、自分は。生まれつき、脳の構造が少し人とは違っている。
「これはまずい……」
これはさすがに、謝ったほうが、いいんだろう。男として。人として。上司として。
しかし、他人に対する謝罪の仕方など、皆目わからない。他人にまともに頭を下げた記憶もない。
約束を反故にした時の正しい謝り方――か。
おい、誰か、六法全書をもってこい。
きっとそこに載っているはずだ。
【完】
検事の出で立ちを一瞥した鈴元の言葉は、至極まっとうなものだった。本日の検事のエキセントリックな格好には、さしもの悪でさえ、常識的な非難の一つも浴びせたくなるようだ。
「この前はスーツだったよな?」
鈴元は眉根を寄せる。
「姉の赤ん坊にゲロを吐かれた」
検事は、さも残念だ、という顔をする。検事の姪は中学生だったはずだが。
「アルマーニのスーツに、だ」
むろん、アルマーニでもない。検事の言葉は、少なめに見積もっても、八割はでたらめだ。 腑に落ちなかったので、くちばしを挟んでみる。
「さっきは、トイレに流したと伺いましたが」
「ゲロを吐かれたから、トイレに流したんだ」
ああ、そうですか。こんな奴が人を裁くなんて、と心底からこの国の制度を嘆いた。
「変な検事だな、アンタ」
鈴元が唾を吐き捨てるように言う。君こそ神の代弁者だ、とオレは心中で喝采した。
「検事、始めますよ」無駄口の多い検事を急かす。「駄弁りの時間じゃないんです」
検事は面倒くさそうにこちらを見遣ると、「最近、殊にカリカリしてるんだ」とオレを指差し、チンピラに語りかける。
「女にフラれたらしい」
「け、検事!」 思わず腰を浮かしかけた。この野郎、張り倒されたいのか。
「へえ、あんた、美人なのにな」鈴元はこちらに視線を投げ、呟く。「仕事も出来そうだし」
なんだ、こいつ、いい子じゃないか!
「俺はどうだ?」
検事は椅子の背もたれに身を預け、胸を張る。
「いかにも高給取りに見えるだろう」
「全然」鈴元は眉をひしゃげさせる。「スーツのときは、まあ、ある程度はそう見えたけどな」
「やはりこの服じゃ駄目か」
「あたりめーだろ、アホか、あんた」
そりゃニートの格好だ、と鈴元は笑う。すると彼の頬にエクボが浮かんだ。意外にも愛嬌のある笑い方をする男だ。
「そういえば、事件当日は、被害者の佐藤氏は何を着ていた?」
検事が机に頬杖をつく。
「たしか佐藤氏は会社員で、事件が起きたのは平日の昼間だったな」
「ええ」オレは調書を確認し、顎を引く。
鈴元は少し考えるように目を泳がせた後、「スーツだった」と言った。
「どんな色の?」検事は続ける。
「そんなことまで覚えてねーよ」
可愛らしかった笑顔を引っ込め、怒気を孕んだような表情になる。
「とにかくスーツだった」
「違う」
被疑者の目をじっと見つめる検事は、断固たる口調だった。
「お前は今、推理したんだ。平日の昼間なら、会社員はふつうスーツを着ている。だからスーツだと答えた」
「す、推理じゃねえよ、見たんだ」
被疑者の動揺は明らかなものだった。
「今日の俺の格好、」検事は服装を披露するように、腕を広げる。「事件当時、佐藤氏は、これとまったく同じ格好をしていた。その日は、有給を取っていたんだ。次の日から旅行に行く予定だったらしい。だからATMで金をおろした」
え? とオレは耳を疑い、調書を慌しくめくった。そんなこと、どこにも書いていない。この野郎、勝手に捜査に行きやがったな。
「ま、間違えただけだよ!」
被疑者の弁解は、誰がどう聞いても、むなしいだけだった。
「服装なんて、どうだっていいだろ」
「お前は、見ていないんだ」
「え?」はてなマークを浮かべたのは、オレだ。
「佐藤氏を標的にした理由が曖味だったのも、そのせいだ」
「違う!」
鈴元は駄々をこねる子どものようだった。オレはといえば、固唾を呑んで検事の言葉をただ、待った。
「お前は犯人じゃない」
犯人はお前の弟だ、とまで検事は言った。
オレは調書に目を落とす。こんなに役に立たない調書など燃やしてしまえ、と思った。
***
被疑者の弟、鈴元誠二(せいじ)は、地区の空手大会で優勝経験があるなど、武道に長じた、体格の良い男であったらしい。また、来春には医学部への進学が決まっており、いわゆる文武両道のタイプだったようだ。
「遊ぶ金が欲しくてバッグを奪ったって……あいつ、馬鹿なこ と……」
兄である彼は、はじめは頑なに「俺がやった」と言い張っていた。しかし、ついぞ折れる気になったらしい。見抜かれているとわかった嘘は、そう簡単につき続けられるものではない。
「でもあいつは医者になるんだ。俺みたいな出来のわりぃのと違って、あいつは優秀なんだ」
それに俺のせいでもあるんだよ、と鈴元健太は必死に弟を庇った。
「俺がこんなだからよ、きっと俺に似ちまったんだ。だから俺のせいなんだよ」
彼は膝の上で拳を握り、検事のほうに、哀願に近い顔を向けた。誰かに物事を懸命に頼み込むなど、「ひとかどの不良」にとっては最も恥ずべき行為なのではないか。
「頼むよ、なあ」
彼は、不良の顔ではなく、立派な<兄>の顔だった。
「俺を逮捕してくれよ」
あいつは医者になるんだ。彼は懇請するように続ける。
「あいつはなんにも悪くないんだ」言うと、現時点での被疑者は、深く頭を垂れた。「検事さん、頼むよ……」
検事は何も言わず、軽く目を伏せただけだった。法そのものを悲嘆するような、悲しげな横顔に見えた。
オレにも一人、弟がいる。同じ弟を持つ身として、つい目がしらが熱くなった。
いい男じゃないか、鈴元健太。 オレたちの立場上、彼の願いは叶えてあげられないけれど。
今日は珍しく定時であがれそうだった。
検事が突拍子も無い行動さえ起こさなければ、定時であがることも、そう遠い夢ではない。
鈴元健太のおかげで、なんだか久しぶりに、弟に会いたくなった。今晩飲みにでも誘おうか、などと考えながら、「では、お先に失礼します」検事に声をかけ、席を立とうとす る。
「待て」
背後から呼び止められた。残業を命じられるのか、とオレは耳を塞ぎたくなる。
「まだ聞いていないぞ」
飛んできたのは、残業よりも鬱陶しい話題だった。
「いい加減、諦めてくださいよ」
検事の言わんとすることはわかる。どうせまた、失恋相手のことだろう。そんなに人の失恋を弄ぶのが愉快なのか。
「いや、諦めん」
「もう帰りたいんです」
身体がアルコールを欲している。酒は、イライラに効く特効薬だ。
「言うまで帰らせない」
「あなたのような人が人間を裁くなんて」
「おいおい、司法試験にケチをつけるな」
検事は大げさに肩をすくめる。憎たらしいったらありゃしない。
検事の机には、ノーブルな革張りの、黒い手帳がある。検事がどこへ行くにも、普段必ず持ち歩く手帳だ。携帯に適した小さめのサイズだが、そのサイズにはとても相応しくないほどの、膨大な情報があの手帳には詰まっている。
「俺が知らない事実がこの世にあるなんて、許せないんだ」
検事の淀みない弁舌は、定時を過ぎてもまったく濁らない。
「美人だろ? 君は面食いそうだからな。顔にすぐ騙されるタイプだ」
ああもう、本当にうるせえやつだな。
「検事のその大事な手帳に、書いてあるんじゃないですか」
早く帰りたいし、イライラもピークだし、もうどうにでもなれ、とオレは自棄をおこした。
「あんたは勉強については天才ですけど、人の心にいたっては、あの被疑者以下です」
ふん、とオレは踵を返し部屋を出た。「あんた」なんて、ひどく礼を失した言葉遣いになってしまったが、もうどうでもいい。
もう知らねえよ、あんなやつ。くたばっちまえ。
バタン、とわざと大きな音を立てて扉を閉めた。
***
バタン、とわざとらしい大きな音を立てて、扉が閉まる。
まったく頑固なやつだな、と頭を掻く。手帳に書いてあるんじゃないですか、だと? あいつの意中の人間の名前など、書き記した覚えはない。体よく逃げたな、と俺は扉のほうを睨んだ。
まあいい、明日また問い詰めてやろう。そう思案しながら、明日のスケジュールを確認しようと、手帳を開いた。
明日は何日だったか――カレンダー状になっているページのマス目に何気なく日を落とし、そのまま、硬直した。
今日から二日前のマスに、こうある。 「佐伯蓮(さえきれん)事務官と食事」。
それは、アルマゲドンを見たなどと弄して蓮がひどく目を腫らした、その日にあたる。
自分の唇を噛むようにして、舐めた。窮地に追い込まれた時の癖だ。
蓮は口を滑らせて、「食事の約束をすっぽかされた」と言っていた。しかも、好きな人に。
――俺、だと?
これはさすがに、想定外、だった。
執務机に肘を付き、伸びかけの髪をくしゃりと押さえた。頭を抱えるなど、何年ぶりのことだろうか。幼少の時分に耳にした、ノストラダムスの大予言以来かもしれない。
『失恋だったら、なんですか?』
気の強い彼の口ぶりを思い出す。
『松波検事に関係ありますか?』
「……大アリじゃないか」
二日前の夜、俺は何をしていた? それすら思い出せない。
しかし少なくとも、あんな雁の腹の瞼にさせるまで、彼を泣かせてしまったことは確からしい。
約束など完全に、忘れていた。
無論、悪意などまったくない。こういう人間なのだ、自分は。生まれつき、脳の構造が少し人とは違っている。
「これはまずい……」
これはさすがに、謝ったほうが、いいんだろう。男として。人として。上司として。
しかし、他人に対する謝罪の仕方など、皆目わからない。他人にまともに頭を下げた記憶もない。
約束を反故にした時の正しい謝り方――か。
おい、誰か、六法全書をもってこい。
きっとそこに載っているはずだ。
【完】



